blogぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会 - 2009/04

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会




2009年04月22日(Wed)▲ページの先頭へ
三重フレネ4月例会会場変更
三重フレネ研究会4月例会
 
〈4月研究会の提案 〉
 
 4月25日(土)  午後3 : 30 〜 6 : 00 
 
 三重大学教育学部2F 発達支援室
  (教育学部道路側階段を上がった右角の部屋の奥)
 
・教育学部校舎の耐震工事が終わり、会場が教育学部2Fに変更になっています。
・塗装工事の都合で、4月のみ先月使った部屋《グループプロセス室》の奥に変わりました。今後は《グループプロセス室》で行う予定です。・正門横の駐車場から向かって左の建物の階段横にある教室です。校舎の入口がしまっていますので、佐藤か浜口まで連絡して下さい。

《テーマ》
    新年度のスタート


・新年度の抱負を参加者がそれぞれ語り合います。参加される方は、なるべくB5(A4)1枚程度のミニレポートを持参してきて下さい。



2009年04月13日(Mon)▲ページの先頭へ
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会/4月例会
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会
 
(三重県・考える会)

 
4月19日(日) 13:00 〜 16:00
 
 三重民教連春の集会 分散会B (4月例会)
 不登校・ひきこもり・NEETを考える
 
 
   会場 : 三重大学教育学部
 
*三重民教連/春の集会の午後の分散会が例会になります。午前中の講演会も、浜口が事務局長を勤める三重フレネ研究会の代表をしている佐藤教授(三重大学)が講演しますので、ぜひお出かけください。参加費は無料です。 
 
 
 
三重県民間教育研究団体連絡協議会
(三重民教連)春の集会09

 
 「出会いの春」に学びあいましょう !   〜地域と学校と大人たち〜

春、新しい子どもたち・親・地域・学校との出会いの季節を迎えます。
どの子にも分かる楽しい授業をしたい、子どもが乗り出す授業のコツを身につけ
たいという教師の願いや、不登校や子育てに悩む父母の要求に応える学びの場と
して、みなさんと一緒に集会をつくりあげていきたいと思います。
どなたでも参加できます。(参加費無料)集まれば元気が出ます。出会いの春に、
また新しいスタートをきりましょう ! 地域の方や保護者の方、同僚の教師たちを
さそってどうぞお越し下さい。
 
4月19日(日)
  会場 : 三重大学教育学部
 9:30〜    受付
 10:00〜12:00 講演 輝かいでか !  〜生徒も親も先生もみんな輝こう〜
   講師   佐藤廣和さん 
         (三重大学教育学部教授/三重フレネ研究会代表)
        山田肥名子さん
         (私学をよくする愛知父母懇談会会長代行)
・我が子のことで悩む親が親同士や先生たちとどう関わっているのか。「地域に
根ざす教育」を「街とつながる学校づくり」として展開している意義など、元気
な高校生や父母の姿から学びましょう !
 
 13:00〜16:00 分散会
  @ 地域と学校   開かれた学校とは?  地域から平和を考える
  A 授業づくり   子どもとつくる授業  子どもと考える授業
  B 不登校・ひきこもり・ニートを考える
(三重県登校拒否・不登校ひきこもりを考える会/4月例会を兼ねて)
 
   主催 : 三重県民間教育研究団体連絡協議会(三重民教連)
    《代表》 山下千束 (連絡先 : 0599-43-1921)
 
   後援 : 三重県教育委員会
 


2009年04月12日(Sun)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 10
自由作文と実践のさらなる展開 
 
さて、自由作文を続けていくと、やがて表現がワンパターンになったり、停滞したりして、実践の行き詰まりを感じる場合が出てくる……という話を全国研究会などで時々聞くことがあります。それは、実践の危機であると共に、実践を広げるチャンスでもあるのです。というのは、自由作文をベースにして、カード作りやアルバム・絵本作り、詩の発表、学校間通信などの新たなフレネ技術にアクセスしていく機会でもあるからです。
 
自由作文を書いたり、自由作文をみんなの前で発表したりする活動を続けてくると、書くこと、まとめること、発表すること、交流することのそれぞれの方向に実践を広げたり深めたりすることの土台が出来上がっていきます。その土台の上に立ち、複数のフレネ技術(詩の発表/コンフェランス/学習カード/アルバム・絵本作り/学習計画表/学校間通信etc)につなげることで、自由作文が再生すると同時に他の面でも子どもたち1人ひとりの表現や子どもたち相互の表現、関係が深まり、集団(学級)独自の文化も形成されて、「場」の豊かさが育まれ、学びが広がったり深まったりしていくのです。
 
私の知っている範囲でも、自由作文の発表の延長/あるいは平行しての形で、詩の朗読や暗唱、自作詩の発表へつながる場合もありましたし、教科と連動する形で、理科や社会科、生活科などの学習カードへと発展していった場合もありました。あるいは、自由作文で発表したことの中から関連したものを集めて整理し、家族や地域の人も巻き込んでコンフェランスの形でクラス全体の場や学校全体の場で発表するような実践もありましたし、アルバムや絵本の形にまとめられる場合もありました。
 
自由作文以外の様々なフレネ技術が学級という学びの場に導入されると、それらの進み具合を意識する必要が出てきます。その際に、学習計画表の導入も可能になります。自由作文をどのようなペースで書くのか、あるいは発表するのか。詩の朗読はどうするのか。アルバム作りは……。それらを自分自身で意識しながら、クラスのみんなや先生にも確認してもらいつつ、作り、自らの手で点検していく。それによって、「学び」が、子ども自身のものになっていくことにつながります。
 
このように、フレネ技術としての「自由作文」は、他のフレネ技術と連動しながら、子どもたち1人ひとりの学びと、共に生活し学習していく「場」としてのクラス集団を作っていく基礎となる大切なものなのです。
 


2009年04月11日(Sat)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 9
活字と自筆(肉筆) 
 
さて、「作品」としての「自由作文」を考える時に、ワープロやパソコン等でタイプした活字なのか、あるいは実際に子どもが自分の手で書いたものなのか、ということにも気をつける必要があります。
 
フランスにおけるセレスタン・フレネらの実践では、選ばれた作文をみんなで活字化していくようなことも行われました。第一次世界大戦が終った後という当時の時代背景における活字化については、実際に印刷用の原版を作るために子どもたちが手作業で1つひとつの言葉のつづりのアルファベットの文字を拾って活字を組む作業を行い、それを印刷して文集を作り、地域に売りに行った……というような話も聞いています。それには、活字を拾う際の「手作業」の教育的効果や、そうした活動で得た収益を学校や学習、学校での子どもたちの日常生活のために使っていくという自治活動の意味もありました。
 
が、20世紀末から現在にいたるまでのパソコンの普及や、日本の学校環境の中では、同じ実践はまず行えないでしょう。パソコンで簡単に活字化ができるのに、わざわざ古い活版印刷の道具を使って日常的に手作業することを心情的にも、時間的にも導入することは難しいでしょうし、子どもたちの作文が地域社会で「商品」として売り物になり、それを子どもの自治活動のために子どもたち自身が自らの判断で使えるような状況に持っていくことは、今の日本の教育行政や学校の現状ではほとんど不可能だからです。
 
それでも、活字化することの意味はあります。例えば、「作文」を早く書き上げた子に対して先生や家族〈大人〉が「しっかり見直しなさい」と言う光景は、どこでも見られるでしょう。が、ほとんどの場合、子どもは「見直し」は出来ません。もう一度読み直してみても、自分のミスや間違いにほとんど気付かないのです。ところが、「書き上げた作文をそのままパソコンでタイプしてごらん」と言うと、タイプの過程で簡単に自分のミスや間違いに気付きます。そのようにそのままタイプした作文をみんなで確認しようとすると、別に意地悪とかではなく、他の人の作文のミスを探すのはとても楽しみますが、自分の作文のミスを指摘されるのはあまりおもしろくない、という思いを子どもたちのほとんどが持ちます。そういうことを繰り返すと、一つひとつの言葉や漢字にある程度慎重になったりもします。そうした効果を考えただけでも、活字にする意味はあるということになります。
 
では、いっそのこと、パソコンを操作して「作文」をしたらどうか……ということで、考えると、それでは漢字を書けなくなりそうだ……ということで、多くの大人が賛成しないのではないかと思います。私も含めてパソコンを使って文章を書くようになった結果、時々、漢字を忘れてしまう……という回数が爆発的に増加しているからです。(私の場合は年齢のせい……というウワサもありますが。)学習心理学の知見からしても、使わないものは忘れたり衰えたりする……ということは広く言われています。ということで、学校現場において、日常的にパソコンを使って「作文」をするということは今後とも行われる確率は非常に低いのではないかと思われます。
 
でも、小説や詩や童話を書いてきた私の実感からすると、漢字を忘れるどうこう以上に、自分自身の手で書くという意味は大きいように思われます。実は、パソコンやワープロで直接書くよりも、自分の手を使って文章を書く方がイメージは広がったり深まったりしやすいのです。けれども、その広がりや深まりが独りよがりなものになっていて、他者への伝達と言う面で弱点を抱えている……という面も感じます。そこで、まず草稿を自筆で書き、その後でもう一度タイプをする(1度どころか10度……などという場合もあったりしますが)のが、イメージの広がりと他者への伝達の双方を満たすやり方である、という結論に達しています。特に、イメージの広がりや深まりを必要とするのは、小説や童話を本気で書こうとする時です。時間はかかりますが、その方が自分なりに納得できる「作品」が書けます。
 
少し話がそれました。「自由作文」の活字化の問題については、英語での「自由作文」をやった時の子どもたちの反応にけっこう興味深いものがあったので紹介しておきましょう。字のうまさに自信を持っていない子どもほど、「活字化」は歓迎します。ただ、活字化をすることを前提にすると、絵と文字の位置など全体のデザインが自筆で書く時よりも制約を受けるので、ほとんどの子どもたちが、学年が上がるほど自筆で書くことを好むようになりました。そして、自筆で書いたものがみんなの目に触れる……という意識から、丁寧に文字を書こうと意識するようにもなりました。
 
自由作文を活字にするか、あえて自筆にこだわるか……という問題は、良い意味において「他者の目」/他者の存在をどのように意識させていくか……という問題とも深く係わっています。そして、活字化の長所と自筆にこだわることの長所は、それぞれにありますし、また、それぞれ欠点もあります。それらを意識した上で、子どもたちの現実に合わせて判断・選択するのが良いと思われます。


2009年04月10日(Fri)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 8
「作品」としての自由作文 
  
自由作文は、書いたから完成……ということではなく、発表やコンフェランス、学習カードやアルバムなどへのアクセスも含めて考えれば、1人ひとりの子どもの表現過程であるということができます。けれども、書き上げられた時点で「作品」という意味もあるわけです。「作品」は、何らかの形で発表されれば(外に出れば)表現者と受け手の間をつなぐメディアとなります。特に、繰り返しその関係が成立する「場」においては、表現者の思いを、表現者の意図以上に受け手に伝えてしまう場合も出てきます。自由作文は、「作品」として「書き手」と他の子どもたち、「書き手」と教師の心をつないでいきます。
 
教師との関係、という事では、以前、私の塾でこんなことがありました。小学生の子どもに自由作文を書かせていた時の事ですが、ある時、自由作文に描かれた絵を見て、「おかしい」と感じ、彼のお父さんに連絡を取って、「作品」を見せながらその話をしました。家族の方でも気をつけていたところ、学校でいじめがあったことが分かり対処した結果、その子は元気になりました。日常的に積み重ねられてきているからこそ感じられる……これは、そのような例です。
 
これは、カウンセリングの過程にも似ています。周期的に話を聞いたり、箱庭を作ったり……といった形で、クライエントの表現をカウンセラーが受け止め続けることで、クライエントも意図していなかったり、意識として気付いてなかったりする思いや感情が明らかになっていきます。そして、クライエントがそれらに気付いたことで、新たな方向性が見えてきたり、可能性に気付いたりするのです。大まかに言えば、そんな自分自身の表現を通じて自分自身で気付いていくきっかけを与えながらクライエントの成長・成熟を促していくカウンセリングの過程と似ているのです。
 
子どもと教師の関係においては、教師の側が大人として意識的に受け止めながら、その表現に現れている子どもの変化に気付いていく、ということになるでしょう。それとは別に、子どもと子ども、子どもと子どもたちとの関係というものもあります。子どもは、必ずしも、教師/大人のように意識的に受け止める場合はそれ程多くないでしょうが、感性的・直感的・無意識的に受け止めることは、もしかすると大人以上に多いかも知れません。けれどもそれが、集団の中に穏やかな雰囲気を醸し出したり、安心感を育んだりしていくのではないか、と思われます。同時に、ある種の「傾向」を集団の中に徐々に形成していくことによって、その集団独自の文化、学級の文化を生み出すことにもつながっていくのです。「作品」を蓄積していく意味は、そんなところにあるのでしょう。


フレネ教育の自由作文 7
カリキュラムと自由作文 
 
ただ、実際に学級の場において、どのような形で「自由作文」を進めていくか……という点に関しては、現実のカリキュラムとの関係で工夫を要するところがあります。私がまだ「若手」だった頃に全国研究会等で報告された実践では、朝の会や国語の時間を中心に、学活や生活、総合といった時間を「自由作文」の時間にあてていたものが多かったように記憶しています。けれども、教育を政治(現政権)に利用しようとする姑息な教育行政によって教育実践の自由は年々多くの制限を受けるようになったり、やり難さや息苦しさを感じたりするようになってきています。そんな中で、「自由作文」の時間、書いたり発表したりする時間をどのように確保するか……は、実践するにあたって、学校や地域の状況の中でフレネ教師達が工夫を要するところです。
 
書く時間をきちんと学習時間の中で確保してあげられると一番良いのですが、子どもたち1人ひとりの早さも違いますし、また、同じ1人の子どもでも日や時間によって違ったりします。それに、教科の中で教科書を使って教えなければならない内容もそれなりにあります。そのため、「自由作文」を書くための十分な時間を授業の中だけで完全に確保することは難しく、どうしても指示した作業や練習問題が早く出来た時や教科外の休憩・自由時間、学校の時間外などに書いてもらうようにする場合が多くなってしまう現実があるようです。書く時間ばかりでなく、発表の時間の確保も同様に工夫が必要となります。その際に、同僚や管理職、家族などの説得に神経を使う場合も少なくないようです。が、それに対して、学習指導要領の国語の項目にあるコミュニケーションの指導として積極的に位置づける……という工夫を、教務主任をしているフレネ教育研究会のベテランの先生がレポートの中で報告してくれたりもしています。その意味では、それなりに工夫の余地もあるということです。
 
少し蛇足になるかも知れませんが、学習指導要領のコミュニケーション能力については、発信する側の視点が中心になっていて、受け止める側の視点は弱いようです。けれども、「自由作文」の実践は、発信する側だけではなく、受け止める側の「学び」にもつながっていますので、それが、「居場所」としての集団を作っていくということにもつながり、学級崩壊を防ぐちからになったりもしているのでしょう。そうした面も上手にアピールすれば、周りにも理解が得られやすくなるかも知れません。


2009年04月09日(Thu)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 6
投票することの意味
 
 
私の行った英語の「自由作文」の実践では、前述の通り、だいたい月に一度のペースで、それぞれの自由作文をみんなで修正したり和訳したりして確認した後、自分の書いた枚数+1票で投票をし、その月の自由作文のbest作品を選出していました。投票は、すべての実践で行われているというわけではないようですが、やること自体がそれなりに意味を持っています。それは、他者からの評価と関わっているため、自分の作品としての「自由作文」の中に客観的な意識、視点を持ち込むことが自然に出来てくるということです。
 
学校の日常において、先生/大人からの評価は日常的に行われていますが、他の子どもからの評価が日常的に行われることはそれ程多くありません。けれども、「自由作文」を日常的に「選ぶ」活動を続けていけば、自然に他の子どもからの評価を日常化することが出来ます。そして、先生には評価されなくても他の子どもたちから高い評価を受ける場合も出てきます。他の子どもたちから高い評価を受けることは、子どもにとって、場合によっては先生や家族から評価されるよりも嬉しいことがありますし、自分が受け入れられているという安心感にもつながっていきます。また、数としては少なくても、思いがけない人から評価される場合もあり、それはたとえ結果としてBEST作品に選ばれなくても、自分を支持してくれた子への親近感がわき、心の交流につながっていく事もあります。投票は、それを目に見える形で子どもたちに示すことになるのです。
 
そうした投票の意味を私は理解していましたので、英語の自由作文において投票の導入は必然でした。ただ、学級とは異なる「塾」という場は、集団の人数がそれほど多くはない……ということと、一生懸命書いた「自由作文」は当然自分の作品に投票したくなる……ということも起こってくるだろうと考え、「出した枚数+1」「3票以上の権利を持つときは、一回に2票までは使って良い」という投票ルールにしました。1枚書けば2票、1ヵ月に3枚までという約束なので最高でも4票、そして自分の「作品」に投票する事もできるし、自分の「作品」だけに投票することはほとんどない環境になりました。子どもたちと同じように私も2票を持って投票に加わり、得票が同じはそのすべてを選出しました。
 
それぞれの「作品」は、子どもたちの評価が高いもの、子どもたちにも先生にも評価されたもの、子どもたちにはそれほどではなくても先生に選ばれたもの…といった様々な形の評価を受けました。それが穏やかな関係を作り、居心地の良い学習空間を形成していくのに思いの外役立ったのではないかと思っています。
 


2009年04月08日(Wed)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 5
心をつなぐ自由作文 

私が以前にレポートした英語「自由作文」の実践でも、こんなことがありました。ある年の夏休み、1人の男の子が「夏休みの間だけ」ということで私の塾に入ってきました。隣の市に住んでいたのですが長いこと不登校になっていて、夏休みの間だけ市内の叔母さんの家から通うということになりました。
 
彼とは、その前に隣の市にあるとある喫茶店で一度だけ会ったことがありました。美術的な才能のある少年で、話をしているうちに彼が今とても興味を持っているアニメの話題になり、そのうちに彼は自分の書いたキャラクターの絵を私に見せてくれました。それはとても質の高い絵でしたが、私は笑顔を見せながらその絵の出来を賞賛しつつも、デッサンの狂いを指摘しました。それが、私に対する彼の信頼につながったようで、そうした経過もあって、彼は夏休みの間だけ、叔母の家から私の塾に通うことになったのです。
 
私の塾では、月に一度「英語の自由作文」の時間があり、毎月第3週までに、1〜3枚の英語の自由作文を皆が製作して持ち寄り、全員で全ての作品を和訳しあったり直しあったりして確認した後、自分の出した枚数プラス1回の挙手によって投票し、選ばれたものを塾の壁に貼り、年度末にまとめる「自由作文Best Selection」に入れる……という約束になっていました。
 
私の塾に入った以上、彼も否応なくそれに参加することになります。彼は、私の作った「自由作文の手引き」や「英和/和英辞典」を使いながら、1枚の英語の自由作文を完成させました。英文の内容は自己紹介でしたが、イラストとのバランスやイラストの絵が絶妙で、彼の作品は文句なしにその月のBestに選ばれました。
 
9月に入って、彼は自分の家に帰っていきましたが、しばらくしてお母さんから「2学期から学校に行き始めた」という連絡がありました。
 
フレネ技術としての「自由作文」については、学習の場において子どもたちの興味を深めたり広げたりしながら(「興味の集中」「興味の複合」)1人ひとりの学びや子どもたち相互の学びを進めていく面については、全国研究会のレポートや話し合いの中でも何度も扱われています。【学習材】として、子どもたち1人ひとりの学びや、子どもたち相互の学びに係わっている「自由作文」の姿は、それらのレポートや話し合いの中で明らかにされてきました。そうした「自由作文」の学習に係わる意識的・理性的な面も大切ですが、一方で、自由作文が感情・共感の面から子どもたちの心をつなぎ、1人ひとりの子どもの「居場所」としての集団をつくっていくための大きな役割を果たしていることについてはあまり注目されてこなかったように思われます。
 
実際、三重フレネ研究会の場でも「自由作文をやっていたから学級崩壊をしなかった」という報告や意見を何度か聞いたことがあります。先ほどの英語の「自由作文」の例でも、塾の皆に自分の作品としての「自由作文」が高い評価を受けたことがきっかけになり、自分の受け入れてもらえる「居場所」を実感できたことが支えとなり、新たな一歩を踏み出すことができたのではないかと考えられます。
 
また、関西の方の実践でも担任の先生が家族の都合でしばらく休み、代わりの先生が子どもたちも楽しみにしていた「自由作文」をしなくなったら(他の理由もあったらしいですが)子どもたちが荒れ始め、しばらくしてもとの先生が復帰して「自由作文」を再開したら子どもたちも穏やかになり、「代わりの先生に悪いことをした」という声が子どもたちの中から出てきた……という話も聞きました。「自由作文」がすべて……というつもりはありませんが、「自由作文」には、心をつなぎ、穏やかにしていく力があり、それが子どもたちの「居場所」づくりにつながっているのではないか、と思います。
 
三重フレネ研究会で発表される実践や全国研究会で報告される実践でも、「自由作文」が教師のみに向けて書かれているものは1つもありません。学級通信で取り上げられたり、クラスのみんなの前で発表したり……というような形で、必ず、「自由作文」が他の子どもたちに開かれているのです。そして、発表された「自由作文」に子どもたちが質問したり、投票によって「いいもの」をみんなで選んだりする場合も少なくありません。しかもそれは、運動会や文化祭などのイベントではなく、学級の中で日常的に行われます。その積み重ねが、お互いに理解し、共感し合える「場」としてのクラス/集団を育てていくことにつながっているのだろうと、私は理解しています。
 
その際に、絵やイラストが入っていたり、日常生活の生の言葉で語られたりする「自由作文」は、表現に子どもたちの感情を乗せやすいし、そのことがまた共感しやすくなる素地を作っているように感じます。構えずに表現できるから、良い意味で感情が出やすいし、よい意味で感情の出ている表現は親しみもわき、心を重ねやすくなります。そのことがまたお互いに共感しやすくなる条件を整え、安心して【自分】でいられる「場」作っていくことにもつながっているのでしょう。


フレネ教育の自由作文 4
書かない子に対して
 

フレネの「自由作文」は、本来、強制するものではありません。そのため、より原則に忠実な実践の形からすれば、書きたい子が書き、発表したい子が順に発表していく形をとります。けれども、「自由作文」の楽しさが浸透していくと、最初は書かなかった子どもたちも、1人、また1人と書き始め、発表をしていくようになります。
 
最初はしりごみしていた子たちも、教師や他の子に励まされ、書いてみる。やってみて、これで良いんだ……と実感できると、さらに次を書き始める。そういう姿を見る中で、他のしりごみしていた子もプレッシャーがやわらぎ、またその場の「書くのが楽しい」「発表が楽しい」という雰囲気に巻き込まれて、「書いてみよう」という気になっていく。そんな繰り返しの中で、クラス全員に広がっていく……というのが理想のイメージでしょう。
 
そのために必要なのは、教師にとって子どもたちの表現をしっかりと受け入れるキャパシティーと、じっくりと待つ姿勢です。個人的な感覚からすれば、それはカウンセリングの場におけるセラピスト(カウンセラー)の姿勢と共通しているように思われます。それまでの経験の中で表現に対して「うまくなければ…」などのプレッシャーを感じ、表現に枠をはめたり閉ざしたりしてきた子が「こんなのでも良いんだ ! 」と思えるような教師の反応や受け止め方、あるいは1週間でも1ヶ月でも待てる姿勢が、閉ざされていた子どもたちの表現を開いていくのです。
 
ただ、現実の実践においては、さまざまな時間的制約があり、特にじっくりと待つのは困難な場合が少なくないかもしれません。学校の現実やクラスの状況の中で、今の自分に可能なことが何なのかを見極めていくしかないでしょう。だから、「今の現実からすれば、完全に自由な形では無理だから、ある程度、順番に発表する形を取ろう」とか、「今の現状では1週間なら待てるから、ギリギリ、そこまでは待とう」ということで、現実にあわせて出来ること、続けられる形を取りながらその枠組みを少しずつ広げ、やがてははずしていくようにしていく方向で進めていけばいいと思います。
 
カウンセリング的な実感からすれば、自分に自信が持てず「自分」が揺れているような状況で「自由に…」と言われても戸惑ってしまうという場合は少なくありません。その際に、ある程度の枠を作ってあげたり、幾つかの選択肢を用意してその中から選ぶような形を取ることでやりやすくなる場合があります。自我が弱い時には、枠や選択肢を外から与えるという形でその弱さを支えてやることも有効なのです。そして、枠や選択肢に固執することなく、状況を見ながらそれを柔軟に変えたり取っ払ったりしていく。少しずつステップを積み重ねることで、やがて「自由」がプレッシャーではなく開放へとつながっていくようになり、自我も強化され成熟していくようになります。その意味において、最初から絶対にすべてが「自由」でなければならない……ということではありません。教師も子どもたちも、できることから少しずつ進めれば良いのです。


2009年04月07日(Tue)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 3
作文と自由作文 
 
小学校で低学年の国語指導と関わっているよく分かるのですが、子どもの言葉の獲得に当たって、話し言葉を自由自在に操れるようになったからといって、書き言葉も同じように操れるようになる訳ではありません。特に、小学校1年生などは、話し言葉でのやりとりが、なかなか「作文」にはつながらないのです。ひらがなを覚え、多少は本を読めるようになっても、なかなか「作文」は書けません。ある程度訓練や体験を積み重ねないと、きちんとした文や文章が書けるようにはならないのです。だから、作文を書くにあたって、まずは苦手な子の傍に行き、その子と会話をしながら内容を引き出します。それをこちらが記憶した上で再現し、再現したものを「作文」として書かせるようなことをする場合があります。こうした例からも分かるように、話し言葉から書き言葉へと至るステップは、それ程簡単ではないのです。
 
国語の授業では、「遠足のこと」や「運動会が終わって」というような形で、テーマを設定して「作文」を書かせることがあります。それに対し、「自由作文」は、テーマを設定せずに自由に書かせるから「自由作文」なのでしょうか。もちろん、フレネ教育の「自由作文」は、テーマは自由です。でも、テーマが自由だから「自由」作文……というわけではありません。たとえば、国語の授業や夏休みの課題としての作文などでは「原稿用紙3枚以上」というような形で長さを設定することがあります。フレネ教育の自由作文は、そのようなこともありません。わずか数行……という場合だってありますし、それより短い場合でも、立派な「自由作文」となります。長さも自由なのです。
 
では、テーマも長さも自由だから、「自由作文」というのでしょうか。もちろん、そのような意味もあるでしょう。しかし、それだけにとどまらない深みがフレネ教育における「自由作文」にはあります。その辺りをもう少し丁寧に考えて見ましょう。
 
フレネ技術としての「自由作文」は、テーマも長さも自由です。それに加えて、必ずしも「文章のみ」に限定しておらず、絵が入っていたり、発表と関わっていたりします。発表をした後でクラスの仲間から質問され、それに対する受け答えを経て、さらに意欲を持って書き直すといった場合もあります。もちろん、個々の実践や学校や地域の条件によって多少なりとも実践の形は異なりますが、基本のイメージとしては、そのようなものだと考えて良いと思います。
 
岡本夏木は『ことばと発達』(岩波新書1985年)の中で、一次的ことば/二次的ことばという表現で話し言葉と書き言葉についての分析を行っていますが、書き言葉の獲得は認識や自我の確立の過程で大きな役割を果たすけれども、話し言葉の獲得から書き言葉の獲得への間には思いの外大きな困難が横たわっていることを指摘しています。文字を覚えても、簡単に文章が書けるようにはならないのです。
 
フレネ技術としての「自由作文」は、「長く書かなければいけない」というプレッシャーはありませんし、書きたいテーマについて好きなように書くことができます。それに加えて、イラストや発表の場でのやりとりによって、文章で表現されたこと以上の表現者の思いや感情を、自然な形で他の子どもたちや先生に伝えることも可能です。そうした意味において、話し言葉との間の垣根は、普通の「作文」よりもずっと低い構造になっていると言えるでしょう。それに発表という形での口語による「対話」が加わる場合も少なくないので、文章だけに限定するよりもずっと自然な形で思いを伝え、共感しあう事ができやすい構造になっているのです。
 
生活を言葉によって表現する教育実践として長い伝統を持っているものに日本の生活綴方の実践があります。生活を綴ることによって自分自身や周りの現実を見つめ直し、それを変えていくための力を身に付けようとしているものだ、と私は大まかに理解していますが、実践課程での言葉そのものへのこだわりがフレネの「自由作文」よりも強く、その分、リアルな認識を子どもたちに迫っていく形になるように思われます。
 
実際、きちんと文章を書き続けることは、自分自身をより深く見つめなおすことにもつながっていくために、自我の確立や深まりにとって大きな意味を持ちます。そうした意味において、生活綴方の実践は、子どもたちがしっかりと作文を書き、自分や周囲を見つめ直す体験を積み重ねていくことで、自立した民主的な自分を確立できるような教育実践の1つであると私は評価しています。
 
ただ、書くことを積み重ねて自分や周囲を見つめなおし続ける作業は、ある面ではとても意識的で理性的なものです。そのため、活動を支えるには、それなりの自我の強さも必要です。が、現在の日本の子どもたちの自我の弱さや脆さ(子どもたちだけではなく、大人の自我も弱く、脆くなっているような気がしないでもありませんが…)を考えると、その積み重ねはけっこう大変だろうという気がします。
 
一方、フレネ技術としての「自由作文」は、非常に感性的・直感的なところを大切にしている感じがあり、その入口では意外と子どもたち自身の感じるプレッシャーは少なくて、取り組みやすいような感触があります。そのことが、「自由作文」への意欲を引き出していくとともに、「自由作文」の過程が子どもたちの心をつなぎ、「居場所」を作ることにもつながっていきます。「自由作文」をすることで子どもたちの心が穏やかになり、クラスが子どもたちの「居場所」となった……という実践報告を聞く機会はけっこう多いのです。


2009年04月06日(Mon)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 2
自由作文とは何か
 
フレネ教育について語る際に、まず、真っ先に語らなければならないのが「自由作文」だと私は思っています。私自身の、フレネ教育の精神を生かした実践……ということを考えて行った数学や社会の「自由ノート」や「英語の自由作文」なども、フレネ技術としての「自由作文」がなければ生まれませんでした。(ここで「フレネ技術」という書き方をしましたが、それは教師個人の個性や能力に依存する教育方法ではなく、その根本にある考え方を理解した上で使えば誰でも実践に応用できる方法を目指すという意図を持って「フレネ技術」という言葉を使っています。「自由作文」や「コンフェランス」(学習発表)「学校間通信」なども、この「フレネ技術」に入ると私は考えています。)小学校の現場以外で私が始めたことも、スタートは「自由作文」だったのです。
 
 
ところで、まず「自由作文」という言葉をここでポンと出した訳ですが、フレネ教育についてよく知っている人ならともかく、一般の人が見れば、当然、「自由作文」とは何か? それは普通の「作文」とどう違うのか? というような疑問が出てくるでしょう。
 
フレネ教育を生み出したセレスタン・フレネというフランスの教師の姿を伝える映画「緑の学校」では、散歩から帰ってきた子どもたちが発している言葉を、フレネがそのまま黒板に書き始めるシーンがあったと記憶しています。そこは、子どもたちの日常生活から生まれ、彼らの生の言葉をそのまま学習の場に使用して1人ひとりの学びにつなげていく「自由作文」の特徴をよく表している場面です。
 
それは同時に、とりあえず表現の質や正誤にこだわらず、子どもたちの表現をそのまま受け入れ、それを教師が教えるための道具ではなく、子どもたちみんなが学ぶための学習に皆で使っていきます。そこに、教師中心の「教材」ではなく、子ども中心の【学習材】としての「自由作文」の姿があるのです。
 
加えて、フランスのフレネ学校の場合でも、日本における各地の実践での場合でも、「自由作文」は、言葉だけの表現に限定しておらず、その文章の内容に関わっているかどうかは別にして、絵やイラストなどの表現も入っていることが多いのです。とは言っても、絵と文章の内容が絶対に関わっていなければならない「絵日記」と「自由作文」はまったく異なっています。【学習材】という言葉ともからめながら、もう少し「自由作文」について細かく見てみましょう。


2009年04月05日(Sun)▲ページの先頭へ
フレネ教育の自由作文 1
はじめに 
 
 
私がフレネ教育と出会ってから、20年以上が過ぎました。その間、フレネ教育の理論や実践に学びながら、私自身も教育現場でその発想を生かしながら実践を続けてきました。20代、30代の頃はそれが精一杯だったし、年齢的にそれでも良かったのですが、自分自身が50に手が届こうとする年齢になり、かつ研究会の場において若い先生たちと接する中で、以前のように自分の実践だけを考えて動くのではなく、後に続く人たちにバトンを渡す役割についても考えるようになりました。
 
その中で、今まで自分が接し、見つめ、子どもたちとの関わりの中で生かしてきたフレネ教育の技術を私なり見つめる時期が来ているように感じている自分に気付いたのです。そこで、自分自身の中での整理……という意味に加えて、不器用でも、手作りのバトンを1つ作ってみる意味を考えながら、フレネ教育について見つめ直し、語ってみたいと思い、この文章を書き始めました。
 
私がフレネを知ってから20年以上経った今でも、私の身の周りに「フレネ教育」を知っている人はそれ程多くありません。けれども、私がやっていることの様々な場面で「フレネ教育」の発想や技術が息づいているために、少しつっこんだ話をしようとすると、「フレネ教育」という言葉が口に出ます。すると、相手が「えっ?」という表情をすることが少なくないのです。
 
私はとりあえず、「『窓際のトットちゃん』という本に出てくるトモエ学園の校長先生がけっこう影響を受けている教育で、第一次世界大戦後フランスで始まり、現在は世界の20ヶ国以上で実践が行われている……」という説明を始めます。けれども、短い時間でフレネ教育を語りつくすことは不可能ですし、私自身の現在の経験や表現力でもってしても、わかりやすい言葉で「フレネ教育」を要約しきれません。それでも、やはり語り続けなければならない……という思いを、現在は若い時以上に強く感じるようになりました。
 
そうした思いが、この文章を書き始めるきっかけとなりました。十分にフレネ教育、特にその技術の基礎となっている【自由作文】を語れるかどうかは分かりませんが、私なりに精一杯努力をしていきたいと思います。最後までお付き合いいただければ幸いです。
 


2009年04月01日(Wed)▲ページの先頭へ
三重フレネ研究会4月例会
三重フレネ研究会4月例会
 
〈4月研究会の提案 〉
 
 4月25日(土)  午後3 : 30 〜 6 : 00 
 
 三重大学教育学部2F グループプロセス室
  (教育学部道路側階段を上がった右角)
 
・教育学部校舎の耐震工事が終わり、会場が教育学部2Fに変更になっています。
・正門横の駐車場から向かって左の建物の階段横にある教室です。校舎の入口がしまっていますので、佐藤か浜口まで連絡して下さい。

《テーマ》
    新年度のスタート


・新年度の抱負を参加者がそれぞれ語り合います。参加される方は、なるべくB5(A4)1枚程度のミニレポートを持参してきて下さい。



   


【サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】は、事務局の浜口が、【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)の世話役をしていたところ、「伊勢志摩にも家族会を!!」という声が上がったため作られたものです。


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浜口 拓/志摩市志摩町片田で小中高15校20年の経験とフレネ教育やカウンセリングの知識を生かした《浜口塾》を開いています。教育相談にも応じます。また文学活動などもしています。よろしければ【TAC雑想記】 【TAC文芸樹】のblogも覗いて下さい。

カレンダ
2009年4月
     
   

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