blogぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会 - 2010/12

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会




2010年12月12日(Sun)▲ページの先頭へ
伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会例会案内 (12月)
ぼちぼちいこか
 
(伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会)

 
ぼちぼちいこか 志摩例会

日時 12月19日(日) 午後7時〜9時
 
会場 志摩市阿児町鵜方1975
 
志摩市鵜方公民館 1F図書室(または小会議室)

 
(近鉄鵜方駅北口下車・徒歩数分)
  電話…0599-43-2211

  浜口 / 電話…0599-85-2752
  
  E-mail…ZAN20571@nifty.com 
 
子どもみらい会議 例会
 
日時 12月18日(土) 午後7時〜9時 
 
会場 いせ市民活動センター南館2F 
 
(伊勢税務署横・外宮前交差点のそば)
 
 
【ちょっとオススメbook】
 
 池上正樹 著
『ドキュメントひきこもり〜長期化と高年齢化の実体〜』
     宝島社新書 2010年  ¥667+税
 
・ひきこもりの高年齢化が問題として語られ始めていますが、丁寧な取材を通して、様々な現場での具体的な実態を紹介してくれると共に、ひきこもり問題を改善していくために真摯に取り組んでいる人々やグループの活動や対応をも紹介してくれています。現場での厳しい実体を知る上でも、何をしていったらいいのか、何が出来るのかを考える上でも重要な指針を示してくれる本です。


2010年12月04日(Sat)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップ2010 C

四、ステップ…短期的課題(周囲の人々について) 
 
次に、当事者の家族やサポートをする周囲の人々の「ステップ」についても考えてみましょう。
 
先に述べたように、当事者の「ステップ」をサポートするように動けば良い、というのが基本ですが、家族や周囲の人に知識や外の世界と本人をつなぐ情報やネットワークを持っていれば、よりサポートは楽になります。そして、周囲の支えやサポートを受けて家族や当事者本人に接する人がある程度の知識を持ち、精神的に安定していれば、本人も安心して自分の当面の課題に取り組めるようになります。だから、当事者本人も大事ですが、お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに自分自身も大切にするようにしなければならないのです。
 
不登校や引きこもり問題に取り組むに当たって「子ども本人が1番傷ついている。だから、子どもを1番大事にしなければならない」と言われる場合があります。それは確かに正しいし、それを貫ける精神的な強さを親や周囲が持ち得ている場合はそれで良いでしょう。しかし、大人であっても、すべての人が精神的に強い訳ではありません。大人の側が、そうした「子どもが1番」を貫けない「弱さ」を残している場合も決して少なくない……というのが、親を始めとする大人の偽りの無い「現実」なのです。その意味では、自分の親や大人としての「弱さ」という「現実」を受け入れ、それから出発して、実行可能な「ステップ」を1つひとつ着実に刻んでいく……というのが、最も現実的な対応となります。
 
家族の誰かが不登校や引きこもりという状況になってしまった場合、それが数日や数週間、あるいは数ヶ月といった短い期間で改善する事は、実はあまり多くはありません。けれども、時間をかけてサポートを続ければ改善する可能性は高いし、その苦しみを乗り越えた当事者は精神的に大きく成長し、今までよりも強く、そして優しくなれるのです。
 
だから、本人の未来を信じ、息の長いサポートを続ける事こそが大事になります。逆に、親を始めとする周囲の大人たちが「本人が1番大事だから…」と、自分を殺して無理の多いサポートをしていると、結局は周りがすぐに燃え尽きてしまって息切れし、後が続かなくなるのです。サポートが消滅すれば本人の心もより不安定になるし、家族も含めた状況はより悪化する可能性が高くなります。その意味で、自分自身の弱さも含めた「現実」から出発する事は、自分のためというだけではなく、長い目で見れば当事者にとってもプラスになる事なのです。だからこそ、親や家族の1員である自分自身も大切にしなければならない、という事になります。もちろん、その際にはある場面・場面で当事者の要求と自分自身の「現実」とがぶつかり合う場合も出てくるでしょう。けれども、その中でお互いに折り合いをつけ、関係を良い方向に持っていく努力をする事は、当事者にとっても大切な経験となり得るのです。
 
そうした意味で、親や周囲の大人も「現実」を受け入れながら、続けられる努力を重ねれば良いと考えられます。そして、今の時点で行っている対応や努力が続けられない(あるいは非常に負担に感じる)ならば、それは、自分の「現実」をきちんと見つめきれていない可能性が高いという事です。そのような場合、実は話はあまり難しくはありません。もう1度「現実」を見つめ直せば良い、というだけなのです。
 
そしてその時には、すべてを1人で背負う必要はありません。他の家族や、信頼できる友人や知人・仲間にサポートをしてもらっても構わないのです。そうやって、「現実」を見つめ直せば、親や家族としての「自分」の新しい「ステップ」が見えてくるでしょう。それに合わせて、今の時点の努力を、長く続けられるものに修正していけば良いのです。
 
その際に、親や家族としての思いを伝えていく事も大切であるという事になります。それが、親としての自分・家族としての自分を大切にする事にもつながってくるのです。本人と自分、どちらかではなく両方ともが大切であり、自分にとっても当事者本人にとっても、自分自身とお互いの存在そのものがかけがえのない存在なのです。
 
しかし、そうした「思い」を伝える際には、解決を焦って《イベント》を企画しないように心がけた方が良いでしょう。何かをきっかけに状況が好転する事は確かにあるのですが、安易な「きっかけ」を周囲の大人の側が用意しても、当事者本人に見透かされたりして、返って状況が悪化する事も少なくありません。それよりも、日常的な努力の積み重ねの過程で起こる《アクシデント》が、本当の意味での「きっかけ」となる確率が高いのです。
 
サポートを地道に続けていけば、機が熟した時に《アクシデント》が起こる。その時を逃さずに、そうした《アクシデント》を当事者本人が自分の力で越えていけるようにサポートしてやる事が大切になります。例えば、今までがんばっていたお母さんが体調を崩して動けなくなったことがきっかけになり、当事者本人が動き出す、という例はよく聞きます。それは、体調を崩すというのは大人の側が意識的にそう仕向けた《イベント》ではなく《アクシデント》だからです。
 
その際に必要なのは「焦らずに待つ」という心の姿勢と、小さな事でも愛情を持って見守り続ける粘り強さです。このような努力と配慮を続けていれば、ゆっくりとでも、確実に歩みは進んでいきます。それを信じて、自分の能力・体力・時間の可能な範囲で続けられる事をしていけば良いだろうと思われます。
 
とは言っても、地道に努力を続ける事は確かに苦しいものなのです。けれども、正しい努力を続けていれば、必ず、手を差し伸べてくれる人が出てくるということは、実は、経験的にも数多くの例があるのです。確かに、今もまだ、苦しく辛いかもしれません。しかし、この文章を読んでいる人には、少なくとも1つ以上は、共に考え、サポートしてくれる人や「場」が存在している筈です。10年前にはなかったけれど、今は存在する「場」も、いくつかあるでしょう。その意味では、環境も少しずつ変化してきているのです。小さな努力でも、それを積み重ねていけば、いつの間にか出来るようになっている事があります。
 
「ぼちぼちいこか」
 
この言葉を、私のこの小文を読んでいただいたすべての方に贈りたいと思います。

〔完〕 


2010年12月03日(Fri)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップ2010 B

三、ステップ…短期的課題(当事者について) 
 
今まで「現実」を受け入れる事が「ステップ」につながっていく事を述べましたが、この「ステップ」についても「ビジョン」と同様にそれを必ずしも固定的に考える必要はない、という事を記しておきましょう。と言うよりも、「現実」は常に変化するものである以上、「ステップ」は方向性さえしっかりしている限りは「ビジョン」以上に状況に応じて変えていけば良いものなのです。
 
まずは、当事者本人の「ステップ」について考えてみましょう。
 
例えば、高校卒業の資格を取るために、定時制や通信制の受験を考え始めたと仮定します。本人の「現実」として中一から学校へ行ってない状況があるとしたら、中1の勉強を始める事が取りあえずの「ステップ」となり得ます。しかし、問題を解いてみたら、まったく分からない…という「現実」があったとしたら、例えば分数計算から良く分かっていなかったというような新しい「現実」が見えてきます。それを本人が受け入れられない場合は「わからない」「集中できない」といって逃げたり、自分をごまかしたりする事もあるかも知れません。あるいは「どうせ自分はできないのだ」とやけになって勉強そのものをやめてしまうような場合も少なくないでしょう。けれども、新しい「現実」を本人が受け入れられたら話は簡単になってきます。そう、中1の問題と「現実」の間に、《分数計算をできるようにする》というさらに細かい「ステップ」を追加すれば良いのです。
 
と、このように文章で書けば簡単に思えるかも知れません。しかし、決して必ずしも簡単にはいかない場合も少なくありません。私が高校で数学を教えていた時でも、こちらが観察していれば〔分数の計算のところでつまっている〕ことか分かっていても、本人がなかなか「分からない」が言えないために、結局、授業そのものが止まってしまう場合が何度もありました。「分からない」の一言が出れば、その時点から例えば分数の計算まで含めた説明をしていけるので授業も進むし、本人以外の分数計算の分からない生徒にとってもプラスになるのですが、それが出ないためにただ時間だけが過ぎていったのです。その背景には本人のプライドやその他様々な心理的な問題がいろいろとあるのですが、とにかく、「分からない」と言う…ただそれだけの簡単な「1歩」がどうしても踏み出せないのです。
 
自分の能力が不足している事を認めるのは辛い事です。そして、点数主義や能力・成果主義の環境に傷つけられて不登校や引きこもりになってしまったような場合は、「分からない」「出来ない」が、単なるその場での否定的評価にとどまらず、いじめや攻撃のきっかけの1つになった場合も少なからずあるように思われます。そのような経験が積み重なっていれば、簡単に「分からない」「出来ない」が言えなくなってしまうのも当然であろうと思われます。
 
しかし、考えてもらいたいのは、人間という存在を評価する場合に、点数主義や能力・成果主義は、たくさんある評価のうちの1つに過ぎないという事です。そして、社会の中には、それ以外の様々な視点で人間を見るちからを持った人が少なからず存在します。その様な人々と出会い、関係を深めていく事で、道は開けてくるのです。
 
それからもう1つ、「分からない」「出来ない」というのは、現時点での事であって、その「現実」から目をそらさずに必要な努力を続ければ、やがて、「分かった」「出来た」と言える可能性がある、という事も事実です。だから、「今、分からない」という事実は、決して「分からない人間は能力がなく、価値もない」という事とつながっていないのです。「分からない」という現実を受け入れる心の強さを持つ事が出来るようになれば、そこから「分かるようになる」ためのステップが見えてくるでしょう。そして、周囲の信頼できる人のサポート受ければ、より効率的に学習や訓練を進められるようになっていくのです。
 
けれども、引きこもりが続いているような状況がある場合は、その周囲のサポートを受ける事自体に困難を伴う場合があります。そのような場合には、そうした〔人間関係を結ぶのに不安や恐怖を感じる〕という「現実」から出発すれば良いのです。確かに、その「現実」を改善するのは簡単な事ではないかも知れません。しかし、時間をかけて地道に取り組めば、必ずしも不可能なわけではないのです。ポイントは、2つあります。知識と継続できる地道な努力なのです。
 
対人関係に対する不安や恐怖……というのは、ある意味では感覚・感情的なものなので、知識を持っている場合であっても簡単に直せる訳ではありません。けれども、知識として知っていれば、慌てたりパニックになったりする事は少なく、多少なりとも冷静に自分で対処する事が可能になります。
 
例えば、私は10年程前の冬、何事に対してもやる気が起きなくなり、また眠りたくない……というような状態になったことがありました。多少なりとも心理学的な知識があった私は、「今、少し鬱状態になっている」と判断し、流れに身を任せる事にしました。つまり、目前に迫った必要最低限の仕事以外はすべて可能な限り先送りをし、夜は身体が疲れて眠くなるまでひたすらTVゲームを続け、音楽(実はかなりの音楽好きで、クラッシックからジャズ、シャンソンやニューミュージック、TVや映画のサントラなど、持っているCDだけでも500枚は下らないのですが)はと言えば、通常はあまり長時間に渡っては聞きたくないと思っている陰鬱な森田童子の歌だけをひたすら聞き続けたのです。そして、およそ1ヶ月で鬱の状態が軽減し、徐々に意欲も回復して鬱状態から抜け出していきました。その結果、1月の終わり頃には普通の状態に回復していたのでした。
 
引きこもり状態が長引いている場合は、対人関係に対する不安や恐怖感は私の例とは比べものにならない程強いので、こんなに簡単に回復するわけではないでしょう。けれども、多少なりとも心理学的な知識があれば、その知識がない場合よりも自分をコントロールしやすくなります。例えば、「お父さんに毎日挨拶をする」というような持続可能な行動目標を「ステップ」として自分で設定し、それを繰り返していくというようなことです。最初はぎこちないでしょうし、やっていく際の違和感も半端なものではないでしょうが、それを1週間…1ヶ月…半年…と続けていく中で、徐々にお父さんと言葉を交わす時に感じる不安や違和感が小さくなって、やがては知らない間にそれが消えている事に気づくでしょう。
 
周囲の知識のない人から見れば「そんな簡単な事が…」と思われるかも知れません。しかし、当事者の不安の大きさと日常化する中での解消効果は一般的に考えられているよりも大きいのです。だから、簡単な事でも続ける事が大切だし、必要に応じて「ステップ」は修正していくらでも細かく刻めば良い、という事になります。時間をかけて努力を重ねれば、知らないうちに心の中のどんよりとした重苦しい感じや違和感は小さくなって消えていくでしょう。あせらずに、続けられる努力を積み重ねていく事で、少しずつ周囲との折り合いがつき、崩れてしまっていた周囲の人々や「世界」との関係を再構築できるのです。
 
そのように考えて、息の長い努力を続けていく事が、結局は、自分の状況を改善する早道となります。あせらず、自分の未来を信じて地道に努力を続ければ、やがて少しずつ理解してくれる人が現れてくることも少なくありません。やがてその先で、「世界」と和解できる日が訪れるであろうと考えられます。



2010年12月02日(Thu)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップ2010 A
 
二、「居場所」と現実 
 
ビジョン…それは未来への夢を描く力、と言えるかも知れませんが、それはまた自分を精神的に支える「居場所」の存在と、自分自身の現実をきちんと見つめる能力によって支えられているものです。
 
不登校の場合は主に「学校」の中での関係に問題を抱えていると思われますが、引きこもりの場合は「周囲」を取り巻く関係で深く傷ついているために関係をほとんど閉ざしてしまっている、という状態であると考えられます。
 
その意味では、先へ進む以前に、傷ついた心を癒す「居場所」の構築が最優先の必要事項となります。ここで言う「居場所」とは、単なるスペース(空間)という意味にとどまらず、その場における人間関係をも含めます。自分自身の悪い部分や嫌な部分も含めて丸ごと受け入れてくれる人がいる「場」、「良い子」を演じ緊張し続けなくても良いその時の「ありのままの自分」でいられる「場」、疲れきった自分を無防備にさらけ出しても危険のない「場」、ゆっくり心身ともに疲れを癒す事のできる「場」……。それらが、1人の人間にとっての「居場所」です。そして、多くの人間にとってその最も大切で基本的な「居場所」と信じられているのが「家族」であろうと思われます。
 
ここで、1人ひとりが自分自身を振り返ってみると良いかも知れません。「家族」が自分にとっての「居場所」となり得ているか、そして他の家族にとってはどうか……と。皆が「家族」を大切な「居場所」だと感じているように思われる場合はそれで良いでしょう。けれども、そう感じられない誰かがいるように思う場合は、それを少しずつでも改善するために自分が出来そうな事を併せて考えてみましょう。無理なく、続けられる小さな努力……。必ずしも、引きこもりの当事者のみではなく、お父さんやおばあさんに対しても何か考える必要があるかも知れません。
 
表面に出ている誰かよりも、実は隠れている誰かの抱える問題が、状況を変えていくきっかけとなる場合があります。そして、隠れている誰かの問題への取り組みの方が簡単で取り組み易かったりもします。その結果、隠れていた問題を解決した誰かが、やがて大きな支えとなってくれたりもするのです。最初の努力は、無理なく続けられる小さなものかも知れません。けれども、そうした「小さな努力」を積み重ねて、家族全員の「居場所」を再構築することにつながっていくのです。それが、「周囲の人」に出来る第1歩ではないか、と思われます。
 
しかし、注意して欲しいのは、すべてを「家族」で背負う必要はないと言う事と、誰もが「居場所」を複数持てる方がより安心・安定して、他の事や新しい事に取り組んでいけるという事です。
 
私自身を振り返って見ても、実は、たくさんの「居場所」に恵まれている事に気づきます。家族はもちろんですが、他にも文学の関係で「青い鳥」と「石の詩」という「居場所」があります。フレネ教育研究会や三重フレネ研究会も大切な「居場所」の1つです。鳥羽子どもの本の会や、鳥羽国際交流ボランティアの仲間たちもいます。美味しいウィスキーとカラオケを楽しむ常連として通う店も安心して楽しめ、くつろげる「居場所」かも知れません。私は、それらの「居場所」に様々な形で支えられながら、教育実践や文学、不登校ひきこもり問題や外国人への日本語教育に取り組み続ける事が出来るのです。
 
そして、新しい「場」は、自らが心を開き、関係を続け、深めていく中で「居場所」となっていくことも少なくありません。1人で悩んでいないで、まず、扉を叩く事で、扉は開かれるのです。そして、そこでの出会いが新しい道を開いてくれるということにもつながっていくでしょう。
 
最初は、その場にいて話を聞くだけの関わり方でスタートしても、「お父さんも連れて参加しよう」と考えたり、他の人の話を聞いて「私のところでは、……でした」というような形で体験を語り、少しでも参考になれば……と心を砕くことが出来るようになったりしていくかも知れません。それらのすべてが、関係を深める行動であると同時に、「居場所」を作っていく事にもなっていったりするのです。
 
子どもの不登校や引きこもりで悩んでいたお母さんが、例えば、三重県・考える会に参加したとしましょう。そこで悩みを話す事で、自分の考えや行動を再確認できるし、経験者や助言者からのアドバイスを聞く事も出来るかも知れません。それによって不安が小さくなれば、同じ様に参加しているけれどもまだ心のゆとりを持てない様な誰かのために自分の体験を話してあげられるようになるかも知れないでしょう。そうなった時、そこはそのお母さんにとっての「居場所」となります。「居場所」が増えれば、精神的にも安定してくるし、精神的な安定は他の人への接し方の変化につながっていきます。そこに「居場所」としての「家庭」の変化・「家族」の変化の第1歩につながる何かが生じているのです。
 
心が安定してくれば、今まで見ようとしなかった「現実」、気づく事を恐れていた「現実」を見つめる強さが生まれてきます。アルフォンス・デーケンは、癌などの不治の病に直面した時の一般的な反応について、現実否認・怒り・悲しみ・孤独などを味わう場合が多いと述べています。が、そうした怒りや苦しみ・悲しみを乗り越えて自分の運命を受容出来た人は新しい希望を見出し、豊かな生を全うしている、という事を指摘しています(A・デーケン『死とどう向き合うか』 NHK出版 1996年)。この場合は病や死に直面したケースでの反応と展望ですが、こうした【現実否認・怒り・悲しみ・孤独・そして現実の受容】という一連の経過とその立ち直りの過程は、不登校や引きこもりに悩む当事者やその家族にも、ある種、共通するものがあるように思われます。
 
例えば、誰かが不登校や引きこもりになったと仮定しましょう。当事者である本人自身も、どうしてそうなったのか分からない場合が少なくないので、苦しみ、怒り、荒れ、同時に「誰も分かってくれない」という孤独感にさいなまれる事がけっこう多いでしょう。しかし「学校へ行けない」とか「外に出られない」という現実をまず受け入れれば、その中で、今できる事と、今はまだ出来ない事、これからの一生の中で時間がかかっても出来るようになりたい事などがだんだんと形になってはっきりしてくるでしょう。そこまでくれば、「今やれる事」を積み重ねていく中で、徐々に自分の力を伸ばし、周囲の人々や社会との関係性を再構築していけるようになっていくと考えられます。
 
家族の立場からも同じような事が言えます。子どもが不登校や引きこもりになった時、多くのお父さんやお母さんはその「現実」を受け入れられず、怒り、苦しみ、当事者を責めたり、あるいは周囲に相談出来ずにひた隠しにして孤独感にさいなまれ、「なぜ家の子だけが…」と思い、苦しんだり悲しんだりする事が多いのではないでしょうか。そして、「なぜお前は…」と本人を責めたり、「お前が甘やかすから…育て方が悪かったから…」とお母さんだけに責任を押し付けたりする場合も少なくないように思われます。その結果、お互いを信じられなくなり、「家族」が「居場所」としての機能を果たせなくなってしまいます。「現実」を受け入れるのは大変な作業ですが、それから逃げている限り苦しみは続く場合が多いのです。
 
けれども、子どもが不登校や引きこもりになってしまったという「現実」を誰かが受け入れ始めた時、「家の子だけではない」という事が分かってきます。そして、周りには敵ばかりではなく、理解し、手を差し伸べてくれる人や「場」がある事も見えてくるでしょう。そうなれば、「家族」や「学校」が本人の「居場所」となり得ているかどうかを確認出来るし、その中で、「今やれる事」もだんだんと見えてくるようになると思われます。
 
いずれにしても、「居場所」を確保し、「現実」を受け入れていく事で、ゆっくりとではあるが確実に歩みは進み始めるのです。そして、本人なりの、あるいは本人を支える家族の人それぞれ独自の、これからの「ビジョン」と、「今やれる事」や「もう少ししたら出来るようになるかも知れない事」が見えてくるようになります。これらが「ステップ」すなわち(短期的な課題・目標)なのです。次に、これについて詳しく検討してみようと思います。



2010年12月01日(Wed)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップ2010 @
 
はじめに
  
以前から伊勢志摩地区での相談や亀山の会、三重県・考える会での発言の中で、ビジョン(将来的な目標)とステップ(それに向かって持続的に努力可能な短期的課題)について何度も触れてきましたし、6年ほど前にも一度まとめましたが、その重要性は現在も変わらないと感じています。不登校問題ばかりでなくNEETひきこもりの就業と関わっても、このビジョンとステップの考え方はとても大切です。というのは、当事者である本人にとっての具体的な課題としてのステップという視点ばかりでなく、家族をはじめ周囲で支える人々の具体的な課題としてもステップを考えていく事は、様々な意味で重要な事を多く含んでいます。そんな中で、現時点での私の考えを今一度整理して、以前の文章に加筆したのがこの文章です。ということで、ビジョンとステップについて丁寧に考えてみようと思います。
 

一、ビジョン…将来的な目標
 
 
2010年に入り、民主党政権になって1年が過ぎましたが菅政権になってからの逆行ぶりは目を覆いたくなるような惨状です。沖縄の米軍基地移設問題では当事者である県民・市民の選挙や集会で示され続けている結果よりもアメリカ軍を大切にするような言動ばかりで沖縄の民意や日本国民の利益よりも政権維持に執着しているとしか見えません。また、尖閣列島や北方領土に関わる外交でも醜態が何度も繰り返され、無能な政権によるビジョンのない政治が続いています。けれども、家族や周囲に不登校やひきこもりの問題をかかえている私たちは、小泉純一郎の以降の権力維持のために国民の利益を侵害し続ける悪質な政治業者たちのように言動をもてあそぶような時間的・精神的余裕はありません。当事者のために、今、必要なものは、将来に向けての納得でき、努力する気力を失わせないような希望です。それが、本人と家族や周囲の人々の中で明確になれば、努力する方向が見えてくるからです。そうした意味でのビジョンについて…本人のビジョンとそれを支えようとする家族のビジョンについて今一度考えてみたいと思います。
 
まず、当事者本人について考えてみましょう。不登校・ひきこもりの問題で苦しむ当事者の中で少なからず見受けられるのが「どうせ私なんか…」という否定的な思いです。それは、1つには自分に対する自信のなさと将来に向けての展望が見えてこない事による焦りや苛立ちに由来するケースが多いと考えられるからです。したがって、ある意味では自信や希望という問題がはっきりしてくれば、精神的にも落ち着きを取り戻し、目標に向かって努力するための第1歩を踏み出す事が可能となると言えるでしょう。そして、可能な範囲での努力を確実に積み上げていく事がさらなる自信につながり、自己肯定にもつながっていくと思われます。
 
でも、自信や自己肯定の問題は、実は不登校や引きこもりとはまったく無関係に見える「普通の人」にとっても、けっこう重要な成長・成熟面での課題になっている場合が少なからずあります。授業中に携帯電話でメールをしたり、大人に怒られるような事を繰り返したりする「元気な高校生」たちの中にも、自分の夢や希望が見えない苛立ちから反抗や非社会的行動を繰り返す者がけっこう多いからです。
 
高校生たちばかりではありません。その意味では、どこかの国の政治のトップを勤めている菅直人総理などもそうした例に当てはまるかも知れないのです。国の将来に対するビジョンも何もないがゆえにまともな説明も出来ず、「丸投げ」や「感情的な言い逃れ」を繰り返す言動はその表れである可能性があります。国の将来ではなく「権力維持」のための「自分の決定」に固執し、状況が変化してもそれを認め改めるという事ができず(改めれば権力の座から滑り落ちるという恐怖感があるからかも知れないのですが…)、自分を守るという目的だけのために、矛盾が露呈している方向へしゃにむに周囲を強制して進んでいこうとするように見えるからです。この様な行動を見ても、「現実認識能力」を持たない彼の「現実」やその頼りない力量が浮かび上がってくるように思われます。
 
こうした例からも分かるように、ビジョンを持つ事はかなり大変です。それは、人間関係に問題を抱えている不登校や引きこもりに悩む当事者にとっては「普通の人」以上に重い…と感じられる「大変さ」かも知れません。その「大変さ」を意識しつつも、私はやはり「ビジョンを持つ事が大切である」と伝えたいのです。その上で、付け加えたいのは、何も「完全無欠」の変更のきかない「ビジョン」である必要はない、という事です。
 
ビジョンや希望を探すキー・ワードは「自分の好きな事」あるいは「自分が穏やかな心で取り組める事」であろうと考えられます。例えば、花に囲まれていると落ち着く…というような人は、それを生かして何かをする事を考えればよいでしょう。そうした生活を続ける中で、華道から日本文化の研究へ進んでいくかも知れないし、園芸から農業への道を選択するような場合もあるかも知れません。とりあえずの方向性を決めて、それにそった活動や勉強を続けていく中で自分の中に見えてくるものがあるのです。地道に続けられる活動や勉強が、自分の心を安定させ、力を育てていき、自信と自分を取り巻く世界に対する信頼感を回復させます。その中で新たな道が見えてきた場合は、ビジョンを修正していけば良いのです。
 
そうした発想は、ある意味では周囲の人々、特に家族においても同様です。とは言っても、正直な話、家族の立場からすれば、それなりに自立して、地域の中で社会生活を営んでいけるような力を身につけ、将来的に自立していければ良いと考えれば、取りあえずは十分ではないかと思われます。
 
何も、本人が接触する、あるいは出会うすべての人と上手に関係を結ぶ必要はありません。それに、世間一般と比較して飛びぬけた収入や地位を望むような「押し付け」は、真摯に不登校やひきこもり、NEETの問題と向き合い、その現実から多くを学んだ人たちとは無縁の考えだと想像できるからです。
 
しかし、大切な家族や関わりを持つ相手の事を真剣に思っていれば、「それなりの自立」という実体は必要だと考えるでしょう。自分たちの暮らす地域社会で、多少不器用ではあっても、それなりに生活を維持していければ、それは「自立している」と見てもかまわない、とたいていの人は考えるからです。だから、非常に大まかな表現になるが、当事者の「それなりの自立」という事は、家族や周囲の人々にとって、当面のビジョンとなり得るのです。
 
何も、東京へ行っても札幌へ行っても、パリやバンコクへ行っても、すぐに自立できるような能力が普通の人間に必要なわけではありません。必要なのは、自分が暮らす地域で、周囲の人や自分にとって大切な人との関係をきちんと結びながら、家族トータルとして経済的にもやっていけるという確信が持てることが「それなりの自立」の中身だと考えて良いでしょう。
 
そのように肩の力を抜いて考えると、精神的にも日常的にもゆとりが生まれてきます。時間の経過の中で「ビジョン」は微妙に変化していっても良いでしょうし、当事者の「現実」が変化していけば、当然「ビジョン」そのものも変化してきます。それを前提に、周囲のサポートもその変化に合わせて変えていけばよいという事になります。
 
ゴールという意味ではなく、当面、高卒の資格を取ることを目標として設定すると仮定しましょう。当事者の現実を見つめていけば、通信制・定時制・高卒認定試験など様々なルートの中で、当事者の個性やその時点の力量から考えて何とかなりそうなルートが見えてくるかも知れません。
 
それに伴って、学力面、体力面、対人関係面など、様々な課題もまた見えてくるでしょう。どこから手をつけ、どこを後回しにし、それぞれについて誰から、どのようなサポートが受けられるのか。それらの点は状況によって異なるでしょうし、また変化もするでしょう。そして、場合によっては「高卒の資格」を必要としないルートに進む事になるかも知れません。けれども、きちんと取り組み、一歩ずつ歩みを進めていった結果の変更であれば、それはそれでかまわないのです。大切なのは自分で考え、決断・決定した上で、納得して進んでいく事なのですから。
 
就業についても同じです。長期間ひきこもってしまっているような場合には、他者と挨拶をするだけでも不安や恐怖を感じる場合が少なくありません。そのような場合に8時間毎日働くような就業はよほどの好条件と幸運が重ならない限り、まず不可能です。とすれば、少しでも他者との関係を結ぶような訓練がまず必要でしょうし、その上でパートやアルバイトを経験しながら少しずつ就業する時間を増やしていって、その先に毎日8時間の就労という目標を設定しなければ、一足飛びには無理だろうと考えられます。
 
だから、それぞれの状況や個性に合った方向性、それが必要な「ビジョン」が大切なのであり、それはまた、状況の変化に合わせて修正していけるものともなるのです。短期的な「結果」に拘ったりせずに、じっくり、そしてゆっくりと歩みを進めていくという覚悟と決意が、結局は状況を好転させていく事につながっていくでしょう。まずは、そのような気持ちで日々の努力を続ければ良いのです。
 


   


【サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】は、事務局の浜口が、【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)の世話役をしていたところ、「伊勢志摩にも家族会を!!」という声が上がったため作られたものです。


新着トラックバック/コメント

浜口 拓/志摩市志摩町片田で小中高15校20年の経験とフレネ教育やカウンセリングの知識を生かした《浜口塾》を開いています。教育相談にも応じます。また文学活動などもしています。よろしければ【TAC雑想記】 【TAC文芸樹】のblogも覗いて下さい。

カレンダ
2010年12月
     
 

アーカイブ
2007年 (32)
6月 (3)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (7)
10月 (1)
11月 (2)
12月 (1)
2008年 (56)
1月 (6)
2月 (1)
3月 (2)
4月 (5)
5月 (1)
6月 (7)
7月 (4)
8月 (3)
9月 (8)
10月 (6)
11月 (9)
12月 (4)
2009年 (59)
1月 (3)
2月 (4)
3月 (4)
4月 (13)
5月 (4)
6月 (3)
7月 (6)
8月 (9)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (4)
12月 (5)
2010年 (48)
1月 (6)
2月 (2)
3月 (3)
4月 (5)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (6)
8月 (4)
9月 (3)
10月 (7)
11月 (3)
12月 (5)
2011年 (62)
1月 (9)
2月 (7)
3月 (6)
4月 (4)
5月 (4)
6月 (8)
7月 (3)
8月 (4)
9月 (9)
10月 (4)
11月 (3)
12月 (1)
2012年 (21)
1月 (2)
2月 (3)
3月 (2)
4月 (3)
5月 (1)
7月 (1)
8月 (1)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (3)
12月 (1)
2013年 (25)
1月 (3)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (3)
5月 (4)
6月 (2)
7月 (1)
8月 (1)
9月 (2)
10月 (1)
11月 (2)
12月 (2)
2014年 (34)
1月 (2)
2月 (3)
3月 (1)
4月 (5)
5月 (2)
6月 (2)
7月 (1)
8月 (4)
9月 (2)
10月 (7)
11月 (2)
12月 (3)
2015年 (26)
2月 (3)
3月 (4)
4月 (2)
5月 (3)
6月 (2)
7月 (1)
8月 (1)
9月 (2)
10月 (5)
11月 (2)
12月 (1)
2016年 (22)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (3)
7月 (2)
9月 (2)
10月 (2)
11月 (2)
12月 (1)
2017年 (12)
1月 (2)
2月 (2)
3月 (2)
4月 (2)
5月 (2)
6月 (2)

アクセスカウンタ
今日:57
昨日:151
累計:722,343