不登校・ひきこもり

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会




2015年10月10日(Sat)▲ページの先頭へ
ひきこもりとその支援についてB(紀宝町での講演原稿)
さまざまなひきこもり支援
 
 
大まかな方向性については先に述べた通りですが、民間でできる支援……ということで考えた場合、当事者や家族がより良い方向に状況を改善していくのを支援するには、多くのことが考えられます。それについても少し考えてみましょう。
 
まず、誰でも、今すぐにできることがあります。それは、ひきこもりについて今より少しでも多く理解を深める努力をすることです。これは、その気になれば、誰でも、たった今から実行できる「支援」です。そしてそれは、様々な支援の根本にあるとても大切な事なのです。何故かというと、別にひきこもりに限らず、自分が何かで深く悩んでいる時にその相談をする(あるいは愚痴を言う)相手は、それを理解し共感してくれそうな相手を選ぶからです。そして、悩みを理解してもらえたり苦しさや辛さを共感してもらえたりしたら、ずいぶん気持ちが楽になります。
 
これは、「ひきこもり」問題でも同じで、「ひきこもり」についての理解の深い人が相手であれば、本人や家族も、知らない人や関心のない人に対してよりもずっと話しやすくなります。こうしたことは、本人や家族を孤立させないということにつながる、とても大切な支援です。不登校・ひきこもりに限らず、家族会や当事者会がいろいろあります。発達障がい関係では「あすぺ・えるでの会」などがけっこう有名ですが、北朝鮮拉致被害者の家族会はマスコミにも度々登場している《家族会》です。いずれの場合でも、家族や当事者という同じ立場の人が集う「場」ですから、どんな話をしても理解し共感してもらえる可能性は高くなります。そこが《家族会》や《当事者会》のいいところであり、家族会や当事者会の存在そのものが、問題を抱える家族や当事者の孤立を防ぐのです。
 
安心して話ができ、共感してもらえる「場」が存在することは、精神面の安定に関わるとても大切なポイントです。精神的な安定は、心の余裕を生みます。心の余裕は視野を広げ、また様々な対応にも余裕を生みます。そうした余裕が、生活のゆとりや当事者をとりまく環境の変化につながります。そしてそれは、状況を改善していく土台となるのです。また、同じ問題を抱えていても、一人ひとりがその問題に向き合って関わっている時間や経験が違いますので、知識や情報の交流という意味でもプラス面は大きいのです。
 
私が関わっている【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】や【伊勢志摩不登校・ひきこもりを考える会】もこうした家族会の一つです。だから、理解を深める……ということから発展する支援の形としては、家族会や当事者会のサポートをしていく……ということが一つは考えられると思います。
 
それ以外にも、様々な支援が考えられます。というのは、立ち直っていくステップの中で、それぞれの段階において必要な支援、というものがあるからです。
 
当事者本人が深く傷ついて、それをどうすることもできないような段階では、まず安心して十分に休める「場」が必要です。そして、その「場」となるのが、たいていは家族・家庭です。それに加えて、本人と何らかの形で接触が可能なのは、家族、特に母親……の場合が非常に多い。けれども、当然、母親や家族には理解のない親族や近隣の人々の心ない言葉などを投げかけられているケースも多く、精神的に負担がかかっています。だから、心ないうわさや中傷、無理解な言動に母親や家族がさらされるとさらにストレスや負担が拡大することになります。それは結果として本人への対応の悪化に直結していきます。ですから、その家族を孤立させずにサポートする「場」があれば、本人の周りにいる母親や家族が安定し、本人への対応に余裕が生まれて、本人にとって家庭や家族が安心して十分に休める「場」となっていきます。ただ、発達障がいやうつ病、統合失調症の可能性も当然あるわけですので、いつでも医療や福祉へつなげられるように、家族の周りでサポートしてあげられると良いでしょう。
 
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会は、そうした家族を支える家族会としてスタートしました。私自身が参加した時は、「教育」の専門家として入ったのですが、相談を受けていく中で臨床心理学やカウンセリングの理論やノウハウの必要性を痛感しました。そこで、まずは独学で、その後専門的なレクチャーや訓練も受けて臨床心理学やカウンセリングを学び、対応できることも増えて、現在に至っています。が、民間ボランティアとして考えれば、精神医療の専門医や病院を教えてあげたり、福祉の窓口について教えてあげたりするだけでも大きな助けになります。特に初期には、家族は、本人への対応で手いっぱいで、そうした情報を調べる心の余裕も時間もないことが多いからです。
 
教育や心理、福祉の専門的な知識を持っていたり、つながりを持っている人は、時間の許す範囲で、「当事者の会」や「家族会」を作ったりサポートする側に回ったりすると良いのではないかと思います。伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会でも、いせ若者就業サポートステーション(サポステ)のスタッフが参加してくれています。専門的な知識や情報の持つ意味は大きいのです。
 
本人が動き出した段階では、本人が無理しすぎない程度に、様々な活動に参加しやすい環境を整えることが大切です。活動に参加して、「まあまあ、うまくいったかな」という実感を持てるようになると、それが自尊心の回復や自信につながって、次の活動へのエネルギーとなります。この「まあまあ」というのは、結構大切なポイントになります。というのは、本人に完璧主義の傾向がある場合が多いので、「完璧に出来ない」と「ダメ」ということになって、逆に自信や意欲を失ってしまうことも少なくないからです。そうした注意は必要ですが、様々な参加しやすい活動やイベントを続けることも、民間や周りでできるサポートということになります。ボランティアに誘ったり、様々な活動や日常の場面で、本人があまり負担にならない程度に挨拶をしたり話しかけたりすることが大切です。
ひきこもりの期間が長引くと、他者と接するのが不安になったり怖くなったりするものです。その気持ちは、言葉の通じない外国の空港や港に一人で降り立ち、周りに知人が一人もいなく連絡を取る術もない状況を想像すると理解しやすいかも知れません。たぶん、それでも平気で動ける人はあまりいないでしょう。それとまったく同じではないにしても、ひきこもりの当事者はそれによく似た不安や恐怖を感じていると考えてもらったらいいと思います。
 
10年ほど前の話ですが、私がタイのチェンライ空港を離れる時、荷物の中にあったお土産のお茶の箱が機械の検査にひっかかり、荷物の開示を求められてことがありました。私は笑顔でOKして鞄を開け、中のお茶の箱も開封しようかと尋ねたところ、係の人も笑顔になって、それには及ばない、と言い、さいごに向こうから日本語で「アリガトウ」と言われ握手をしてもらいました。笑顔や挨拶は、「自分があなたの敵ではありません」と相手に伝える大切なメッセージなのです。けれども、逆に顔をこわばらせて黙ってしまえば、相手に不信感を与えます。チェンライ空港で私がそのような対応をしたら、多分、ややこしいことになっていたでしょう。
 
ところが、長くひきこもっていると、こうしたことが分かりません。また他者に対する恐れや、自分が上手に対応できなくて相手を怒らせてしまったり相手に嫌われてしまったりする不安や恐怖でいっぱいで、黙ってしまったり、顔をこわばらせて固まってしまったり、逃げ出してしまったりするような対応になるでしょう。自分の心の中の不安や恐怖しか考えられず、その対応が逆に相手に不信感を与えたり怒らせたりするなどということは、まったく思いいたらないのです。
 
だから、このような「不審な対応」をされたとしても笑顔を失わず、挨拶をしたり声掛けをしたりする対応を続けることも一つの支援になります。また、身近な話をできる人が、笑顔での挨拶や、ちょっとした言葉のやりとりそのものが、「私は敵ではないよ」というメッセージを伝えていることを、教え、行動で示していくと良いでしょう。それと並行して近所の人々や顔を合わせる機会のある人々にも挨拶や声掛けをしてあげると良いということを伝えていくと良いでしょう。そうした対応は「あなたの敵ではないよ」ということばかりでなく、「あなたを気にしているんだよ」というメッセージにもなっているのです。
 
当初は、先に述べた通り、本人の顔がこわばったり、何も反応を返してこなかったりする場合も少なくないかもしれません。それは、本人がどう対応していいかわからなかったり、間違った反応をしてしまうことを恐れていたりする場合がほとんどで、悪意や害意を持ってそうしていることはまずありません。だから、そうした反応に怒ったりせずに、にこやかで穏やかな対応(挨拶や声かけ)を機会があるごとに続けてあげられると良いと思います。本人は、コミュニケーションに自信を持っていないことが多いし、その結果としてコミュニケーションの機会が極端に少なくなっています。だから、挨拶を交わすだけでも、コミュニケーションの機会を提供していることになるのです。それもまた、大切なサポートです。
 
人間の能力は、使っていないと衰えるものが少なくありません。私は一時期タイの女性と結婚していたのですが、彼女が帰国していたときは時々タイ語で手紙を書いていました。離婚した後は、タイ語を書く機会がないため、現在、ほとんどのタイ文字を忘れてしまっています。ひきこもっている期間が長い場合でも、様々な知識や能力が低下していることが少なくありません。一方、就労に際して必要な知識や能力もあります。ところが、長期間ひきこもっていると就労に最低限必要な知識を忘れていたり、必要な技術や気配りなどが低下していたりするのです。伊勢のサポステのスタッフによりますと、就労に際しては最低限小学校5年生程度の学力が必要だ、と言います。だから、当事者に勉強を教えたり、学習につきあってあげたりするのも周りでできる重要なサポートです。また、本人に教えられなくても、同じ部屋で一緒に別の勉強をする形を取っても良いと思います。本人は自動車の免許取得の勉強、お母さんは簿記の資格の勉強……というのもアリです。自分だけが勉強しているのではない、と思えば、そのことが勉強する上での励みにもなります。
 
それから、就労に際してのサポートについても触れておきましょう。家族も本人も、精神的に焦っていると、一足飛びに完全な正規雇用を目指すかも知れませんが、ほとんどの場合、それは困難です。起きられない、長時間同じことが続けられない、など、体や心が短期間で正規雇用に対応できないことが多いからです。だから、作業所や短期間・短時間のパートやアルバイトなどで体や心を慣らし、徐々に働ける時間を長くしていって安定した雇用につなげていけると良いかと思います。
 
その時に、夕方いつも、あるいは一日おきにでも、おじいさんの畑仕事を手伝う……というような、お金につながらない労働から始めても良いでしょう。その前段階として、風呂の掃除に責任を持つ、とか火曜と金曜の夕食は作る、といった家事の分担をして、それを守らせ、責任を持たせるというようなことも良いかと思います。本人にとって簡単すぎる課題だと、達成感や自信につながりませんし、難しすぎる課題だと続きません。続かない時は、課題設定に問題がある、という方向で考えて、本人と一緒に適度な課題に修正すれば良いでしょう。
 
このようなことをベースに考えると、ここでの支援についても、いろいろなことができるとお分かりになるでしょう。まずは、作業所やパートやアルバイトの形で働ける場を確保すること。それから、働き口での経営者やそこで共に働いている労働者が本人への理解を深めてお互いが働きやすい環境を整えるサポートをすること。そして、就業だけではなく、続けるために、本人の悩みを聞いたり、トラブルを解決したりすることを目的として、定期あるいは不定期に本人と関わり、支援を続けることなどです。
 
だから、作業所などの働ける場を作ることも支援だし、パートやアルバイトの形も含めて、労働者として雇用することも支援となります。また働き口を紹介するのも支援ですし、働いている中での悩みを聞いてあげたり、トラブルになった時にサポートしてあげたりするのも支援です。それから、家以外でも安心出来る「場」を提供することも支援となります。それから、トライアル雇用など就労に関わる様々な制度もあるので、そうした知識を伝えたり、手続きを教えたり、サポートしたりする支援の形もあります。
 
また、きちんとした就労までは無理な場合でも、本人に何ができて何ができないかを、本人と支援者や家族がきちんと確認し、出来ないことをカバーする制度につなげるのをサポートすることも大切な支援の一つです。条件によっては難しい場合もありますが、きちんと手続きをすれば障害年金などを受け取ることも可能になる場合もあります。そうした様々な制度につなげるのも大切な支援の一つです。
 
もちろん、これらをすべて、一人の人や一つの組織でする必要はありません。というより、一人の人や一つの組織で行うのはまず無理です。自分あるいは自分たちができることが何かを考えると同時に、それぞれのつながりを深め、たくさんのネットワークで支えていける体制を作っていけると良いでしょう。
 
以上、簡単ではありますが、私が知る範囲でのおおよそ重要と考えられることは話をさせていただきました。知ること、そして出来ることからやっていくということ、さらにその「出来ること」をつなげて、ネットワークで支えあっていければ少しずつ改善していけると思います。
 
 
                                   〔完〕


2015年10月09日(Fri)▲ページの先頭へ
ひきこもりとその支援についてA(紀宝町での講演原稿)
ひきこもり支援の方向性
 
このように、「ひきこもり」という言葉でひとくくりされている状態であっても、実は、様々なケースが考えられるのです。うつ病や統合失調症などの精神的な病が疑われるケースでは、少しでも早く医療機関につないでいくことが大切です。そして、治療や投薬によって症状が安定してきたら、それから、生活習慣の再構築や社会参加、就労(可能であれば)といったステップを踏んでいくと良いでしょう。その際、福祉との連携も大切です。作業所での活動や就労が困難な場合でも、福祉とつながっていくことで生活を安定させ、クォリティー・オブ・ライフ/生き方の質を高めていけるでしょう。
 
発達障がいが疑われるケースでも、医療や福祉とつながることは重要です。特に障碍者福祉手帳等の取得によって障碍者枠での就労が可能となる場合もあり、本人たちが安心できる「場」……居場所づくりと、家族や当事者本人を孤立させないような様々な支援が大切でしょう。
 
精神的な病や、発達障がいの可能性が少ないと思われる場合でも、家族とのつながりがぎくしゃくしていたり、他者との関係を結ぶことに気おくれを強く感じていたりする可能性はかなり高いと思われます。したがって、支援としては、家が安心していられる「場」になるように環境を整えること……辺りから手を付けると良いのではないかと思います。そして、本人の状態が落ち着いてきたら、家事などのきちんとした役割分担によって、本人の生活力を回復させながら、ボランティアなどの社会参加や就労への道筋を探っていくと良いでしょう。就労を最終目標とする場合は、自動車運転免許の取得も、特に交通の便があまり良くない地方の場合は大切なステップとなります。免許を取るための勉強は、だいたい、中卒程度の学力が基準になっていますし、取得すれば運転免許証は身分証明書としても使用可能になります。何よりも、就労が可能となる地域が拡大しますので、就労のための重要なステップとして自動車運転免許の取得はきちんと位置付けておくと良いでしょう。
 
こうした流れについては精神的な病や、発達障がいであっても医療との連携によって状態が安定すれば、生活の改善や作業所通い、アルバイトや就労につなげていくことも可能となるでしょう。私のカウンセリングの師匠…実は日本でのユング派の巨人、河合隼雄先生の弟子でした…が関わった事例でも、薬やカウンセリングで状態を安定させた精神疾患を持つ方が就労したという話を聞いております。適切な治療を継続しながら安定していけば、普通の人と同じように日常生活を送ったり就労したりすることが可能になる例もあるということなのです。
 
その際に、あせりは禁物です。一足飛びに正規雇用などという無茶は望んだり期待したりしない方が良いでしょう。正規の就労に家族がこだわった(その影響で本人も無理をした)ために何度も離職を繰り返したような例もあります。週一のアルバイトから、週三日、そして週五日…といったような感じで少しずつ身体と心を慣らしていくような形でステップを刻みながら自信をつけていくことが大切です。また、農業や林業、漁業など自然に近い所で身体を使う仕事は、続いてくれば、本人の心身に良い影響を与える場合が多いことも付け加えておきましょう。
 
一方で、こうしたステップを進んで、自立・就労まで行きつけない人も、残念ながら存在します。知的能力なども含めると、自立・就労までは困難だと判断せざるをえないケースも出てくるのです。その場合は、何とか生きていけるようにきちんと福祉につないでいく必要があります。
 
自立や就労が困難であると思われるのに、それにこだわって勉強をさせられたり様々な訓練を強制されたりするのは、ほとんど、いじめや虐待に等しい行為だと考えて下さい。ここには、様々な方がいらっしゃると思いますが、今の生活の中で、毎日チェコ語の本を読めるようにするための勉強を2時間するように強制されたらどうでしょうか。よほどチェコやチェコ語に興味がある、あるいはチェコ人の配偶者や恋人がいる人でない限り、1日で嫌になるでしょう。基本も何もない中で、あるいは理解や技術が十分進んでない中でそれを強制されるのは大変苦痛なのです。
 
だから、就労まではとても無理だろう……ということであれば、作業所は可能か……とか、家事はきちんとできそうか……とか、何とか能力を発揮させ、伸ばせるような可能性を探しつつ、死なずに生きていけるように福祉へつないでいく必要があります。障害年金や生活保護、様々なデイ・サービスなど、家族の方に万が一のことがあっても生きていけるような工夫が必要となります。
 
例えば、数年前、北海道や東京、埼玉などあちこちで孤立死事件が相次いだことがありました。生活保護を受けられる条件にありながら、世話をしていた家族の突然死によって世話や介護を受けていた人も死んでしまう、という事件です。背景に、生活保護バッシングなどによって手続きを躊躇したり、誤解したりして、SOSの声を出しにくかった事情もあるようです。しかし、逆に、きちんと福祉とつながっていれば死ぬことはなかったのではないか、と思われるケースも少なくありません。
 
自立・就労を目指すのが基本だとしても、それが難しい場合の対応についても、きちんと考えておく支援が大切です。孤立させず、必要に応じて福祉や医療につなぎやすい環境をつくる。地域全体にそうした努力が必要であり、それは公的な機関や組織にすべて「おまかせ」するのではなく、一人ひとりも、何らかの形で関わり、つながっていけるような形が理想なのです。自分が何かできる時には、その【何か】をして、逆に、それをしてあれば、もしもの時には【何か】のサポートを受けられる。そんな形に、少しでも近づいていければいいのではないかと思います。


2015年10月08日(Thu)▲ページの先頭へ
ひきこもりとその支援について@(紀宝町での講演原稿)
はじめに
 
 
9月に入って、紀宝町の社会福祉協議会さんから、10月5日に、ひきこもりについての講演をしてほしいということでご案内をいただきました。不登校やひきこもりの問題については、大学の卒業論文で夜間中学を取り上げた時点から数えれば30年、三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の設立の準備段階から数えても15年になります。生計のための職業としているわけではありませんが、それなりに長い時間かかわり続けている問題でもあり、また、本格的に臨床心理学を学ぶきっかけにもなった問題でもあることから、まとめてみるのに良い機会でもあろうと考えてお話をお受けしました。
 
不登校・ひきこもりの問題は、私が関わっている二つの家族会【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)および【伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】(サークルぼちぼちいこか/志摩 & 子ども未来会議/伊勢)においても、今までとは少し様子が変化してきています。不登校よりも、学校を出てからの自立や就労の問題に参加者の意識が動いてきているのです。初めは「不登校」だった本人が高校を卒業し成人式を終える例がいくつも見られるようになり、親の方も歳を重ねていることから自然にそうなっていくのですが、全国的に見てもその傾向ははっきり出てきています。そして、特に高齢化の進む地域においては、親と本人の高齢化によって、ひきこもりを抱える家族では深刻な問題が生じるであろうことは容易に想像できます。
 
例えば、家族を支えていた親の収入の減少、親の介護の問題、当事者本人の対応力や生活能力の問題、働き口の数や働き方のバリエーションの数とサポート機関との距離といった就労の問題、さらに就労が困難で家庭の収入も多くないケースでの福祉につなげる問題など、実に様々な問題があります。それらいずれもが、本人のコミュニケーション力をはじめ、衣食住に関わる日常生活の能力の問題によって、家族と本人を深刻な事態に陥らせかねない可能性は決して低くありません。
 
そこで今回は、特に、ひきこもりに焦点を当てていろいろと考えていきたいと思います。
 
 
 
ひきこもりとは何か
 
 
現在では、「ひきこもり」という言葉は様々な場で耳にするようになってきています。例えば、私は文芸同人誌の編集をしていることもあって、時々「自宅にひきこもって小説を書きたい」と考えることがありますが、もし、それが実現したとしても、それはここで問題にしようとしている「ひきこもり」とはちょっと違います。私が小説を書く目的でひきこもったとしても、他の人に特に迷惑をかける訳ではないし、私という人間をよく知っている人たちなら、「ああ、またやってるな」と思う程度で、それが何かの病気ではなく特に問題にする必要はないからです。今ここで私たちが問題にしたいのは、その状態が続くと、本人にとっても家族にとっても、そして社会にとってもプラスにならないであろう「ひきこもり」のことです。
 
このような「ひきこもり」について、『社会的ひきこもり』(斎藤環/PHP新書)の著者で精神科医の斎藤環さんは、次のように定義しています。
 
@(自宅にひきこもって)社会参加しない状態が6ヶ月以上続いている。
A精神障害がその第一の原因と考えにくい。
・なお、【社会参加】とは、就学や就労をしているか、家族以外に親密な対人関係がある状態を指す。
 
つまり、「ひきこもり」そのものは、風邪や花粉症といった病気ではなく、単に状態を表わす言葉であるということなのです。実際、うつ病や統合失調症でも、いわゆる「ひきこもり」状態になります。そんな場合は病院にもかからずに放置しておくと症状が悪化して自殺願望が強まったり、幻覚が出たりして、より危険な状態になりますが、逆に、きちんと病院に受診して治療を受けると、最近は効果のある薬もいろいろ出ていますので、改善することが多いのです。
 
したがって、病の症状の一つとしての「ひきこもり」なのか、斎藤環さんのいう社会的ひきこもりなのか、という判断が重要になります。病の症状の一つとしてのひきこもり、あるいはその疑いがある場合は、急いで医療につなげる必要があるということです。けれども、カウンセラーでも精神科医でもない普通の人にとっては、その辺りの判断はなかなか難しい。一方で、周りが焦ってしまってエネルギーの切れた状態の時に無理をさせると関係がこじれてしまう。その辺の判断の目安として、斎藤環さんは6ヶ月という期間を設定しているわけです。
 
私自身も、斎藤環さんの判断は妥当だと思います。学校に通っている年齢での「ひきこもり」は、不登校の中の一つのパターンということになります。ひきこもらないで、外で遊び歩いての不登校……などというようなケースもありますから、一つのパターンということです。しかし最近では、学校時代はきちんと通えていたのに仕事に就いてから突然ひきこもってしまうこともある。うつ病や統合失調症とは違う場合でも、さまざまな「ひきこもり」がある訳です。
 
例えば、個性的であるため、周囲とおりあうのに疲れてしまったような場合は、ある程度、自我の強さを併せ持つことも多いので、しばらく休んだ後エネルギーを蓄えて自分から動き出す場合も少なくありません。その場合は、とにかく、安心して休める「場」の確保が大切です。家庭や家族、恋人や親友などがそうした「場」となり得ますし、趣味が共通な人々の集まりなどもそうした「場」となるので、安心してひきこもれる「場」を保証してあげられるようなサポートができると良いでしょう。そしてこの場合は、ある程度ひきこもった後、エネルギーを蓄えて、自ら動きだすことも少なくありません。
 
実際、私の関わった例でも、いじめを受けて不登校になっていたけれど、しばらくしてから知人の紹介でアルバイトを始め、職場でかわいがられてエネルギーと自信を取り戻し、好きなアニメ関係の道へ進んでいった子がいました。私は、直接その子と接することはありませんでしたが、家族会の中でずっとご両親の話を聞き、時にはアドバイスもして、間接的に見守り続けました。そういう「場」があることで、お母さんが不安定にならず、落ち着いて対応していきましたので、家族の中で暴力が出ることもなく、自らの道を見つけて進んで行きました。
 
このように、当事者本人を支えるというだけでなく、家族……特に母親を支え、孤立しないようにする、というのも大切なサポートです。私たちが組織して活動している家族会(三重県・考える会、子ども未来会議、サークルぼちぼちいこか)などは、直接当事者をサポートするのではなく、母親や家族をサポートすることで本人の周囲を安定させ、安心してひきこもれる「場」をつくるのを支援するのを基本としています。私自身は塾をしていますし、カウンセリングも専門的な訓練を積んでいますので、本人がそれらの会の例会に顔を出せば、学習の相談でも心の相談でも可能な範囲で応じていますが、基本は「家族会」ということなので、家族の支援を中心とした活動を続けています。
 
それから、同じ「ひきこもり」の形であっても、年齢相応の自我が十分に育ってなくて、楽な方に流れてしまい、ひきこもってしまうような場合もあります。自我の未熟さがちょっとしたストレスに遭って普通の人以上にダメージが残り、疲れてしまうような場合です。こちらの場合は、当初は安心して休むことも大切ですが、自我の未熟さが安易な方向に流れてズルズルいってしまう危険も無きにしもあらず……なので、自我を育てるようなサポートも大切になります。というのは、あまり休みすぎると、その居心地の良さに安住してしまい、自らの意志で次のステップや自分を成長させる道に進もうとしないこともあるからです。そうなると、悪い意味での退行や精神的な病につながっていくこともあります。そうさせないためには、日常生活の枠組みや家庭での仕事・家事での役割分担、計画をきちんと守り、結果を出すことで自尊心を育み、自ら選択・決定する体験を重ねて自我を強化していくようなサポートができると良いと思います。
 
以前、事故が起きて問題となった戸塚ヨットスクールでも、日常生活の枠組みを外から強制的にではあっても作っていたことから、条件によっては改善した子もいたということでしょうが、合わない子の場合のリスクが大きすぎますので、私としては本人の現状や現実を無視して、あまりに外から強圧的に強制していくやり方はお勧めできません。
 
また、いじめやトラブルの背後に発達障がいが関係していて、その結果、深く傷ついてひきこもってしまうようなケースも見られます。その場合は、うつや対人恐怖などの重い症状がでることもあるのですが、根本にある発達障がいへの対応をきちんとしていないとなかなか状況が好転しないことが多いようです。
 
ということで、発達障がいについても少し触れておきましょう。主なものとしてはADHD/注意欠陥多動性障がいとアスペルガー症候群(最近では、専門家の間では自閉症スペクトラムと呼ばれることが多くなっています)、LD/学習障がい、発達性協調運動障がいといったものがあります。その中でもADHDとアスペルガー症候群が双璧でしょう。両方あるいはそれ以外も含めた複数の特徴を兼ねた人もいますが、いずれにしても対人関係に問題を抱えやすい傾向があり、周囲の対応がよくないと、ひきこもったり問題行動となったりうつ病や反社会性人格障害などの病に発展するケースも見られます。それから、t定型発達…いわゆる普通の人よりもアルコールやパチンコあるいは薬物などの依存症になりやすい場合もあるので、注意が必要です。また、ある種の感覚が特別に過敏であったり、過鈍であったりすることも多く、聴覚が鋭すぎて机を運ぶ音が耳に触って掃除ができなかったとか、視覚が鋭くて部屋を明るく感じすぎるためサングラスをかけないと仕事ができなかったというような例もあります。
 
ADHDについてはドラえもんのキャラクターにちなんで、不注意で集中がしにくいけれどわりと穏やかな「のび太型」と感情の起伏が激しく衝動性のある「ジャイアン型」に分けている研究者(司馬理英子『のび太・ジャイアン症候群』主婦の友社)もいます。昔は、ADHDは子どもだけのもので大人になれば治る……という考え方がほとんどでしたが、最近では、大人になっても骨折やインフルエンザなどのけがや病気ように完治はしないことが分かってきています。つまり、完全にそうではない普通の人と同じになるというのではなく、日常生活はだいたい普通のように送れるように見えても、周囲の対応によってはADHDに特有の見方や感じ方、言動によってトラブルが起こる可能性は完全には消えない、ということです。ADHDの人たちは、他者との関係を結びたいという思いはあるのですが、他の人の感情や空気を読むことが苦手で、そのことが対人関係のトラブルにつながってしまうことが少なくありません。
 
アスペルガー症候群については、自閉症スペクトラムという新しい専門用語の中にある「自閉」という言葉によって多少想像がつくように、あまり他者との関係に意欲を示さない傾向があります。幼稚園や小学校で、あまり他の子どもたちと関わりを持たず、一人で極端に好きなことだけに没頭していることが多いような子どもは、アスペルガー症候群の可能性があります。他者との関係にあまり興味を示さないので、当然、他者の感情や空気を読む必要性をあまり感じていません。知的能力が高いもしくは普通くらいのことが多いので、学校時代は成績の良さが幸いして問題視されず有名大学に進学するケースも少なくないのですが、就業時に他者とのトラブルが顕在化して、うつ病やひきこもりになってしまう例が見られます。
 
発達障がいについての詳しい話は、丁寧にしていくとそれだけでも2時間や3時間は軽く超えてしまいます。詳しくお知りになりたい方は、文庫や新書など手に入れやすい本もたくさん出ていますのでそれをお読みいただくと良いかと思います。また、伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会のブログ「ぼちぼちいこか」には、以前私が講演した発達障害についての原稿もupしてありますので、そちらをお読みいただいても多少は分かっていただけるのではないかと思います。今日は、他にもお伝えしなければならない内容がたくさんありますので、この辺りで切り上げさせていただきます。
 


2015年03月30日(Mon)▲ページの先頭へ
学習のサポート2015 A
 
環境を整える大人の接し方
 
 
本人の学習を進めやすくするには、環境を整えることも大切です。例えば、「勉強しなさい」ということは、環境を整えることになっているかどうかを考えてみましょう。中学の頃、テレビの番組が終わり、そろそろ勉強をしようかな…と考え始めた矢先に、母に「そろそろ勉強せなあかんぞ」と言われて、途端にやる気をなくしてしまったことが何度もありました。同じような経験のある大人の人は、けっこう多いのではないかと思います。
 
そうしたことから考えると、「勉強しなさい」ということは、必ずしも「良い環境を整えることになっていない」と言えそうです。中学や高校という、そろそろ自立心が芽生えてくる年齢では、「勉強をしなさい」という言葉は、親からの押し付けと受け取られ、返って反発されることも少なくないのです。特に、「勉強をしなさい」と言うだけの場合は、その傾向が強まります。口だけではなく、他に何か出来ることはないか……ということを考えて、可能なサポートは実際に実行することが大切なのではないかと思います。
 
大人が、子どもに「勉強しなさい」というのは、もちろん、子どもの将来を心配しての言葉です。でも、そういうだけで自分はテレビを見ていたりマンガを読んでいたりしては、それは子どもには伝わりません。説得力がないのです。それに、テレビの音が気になって勉強に集中できないようなことも出てくるでしょうし、子どもの心に「何で俺だけ? 自分はテレビを見ているくせに」というような思いがあれば、反発や怒りが生じ、結局、勉強に集中できなくなってしまうのです。
 
では、どうすれば良いのか。まず、子どもが勉強に集中できない理由を考えてみることです。よく観察してみると、何となく理由が見えてくることがあります。他の家族がテレビを見たりゲームをしたりしていると、自分もそうしたくなって集中できなくなる場合、1人でするのが何となく不安で、ちょっと傍についていて欲しい場合、苦手な問題だけが残っていて1人では解く自信がないので誰かに教えて欲しいと思っている場合、実は勉強の仕方がまったく分からなくて途方にくれている場合など、様々な理由が考えられます。観察によって、それらの理由をある程度特定できれば、どうしたらよいか……という点もある程度分かってくるでしょう。
 
例えば、テレビの音が気になるなら、テレビを切ったりヘッドフォンを使ったりして音が漏れないように見る工夫ができますし、1人でやるのが不安なら、本でも読みながら同じ部屋にいるように心がけるだけでも意識は違ってくるでしょう。教えて欲しいと考えている問題があるなら、可能であれば教えてあげたり、一緒に考えてあげたりすることもできるでしょう。
 
そして、ある程度自我が育っているようであれば、危なっかしくみえても、歯がゆく感じられても、大人の側がそこをぐっと我慢して、「余計な一言」を言わずに、子どもの勉強しようとする意欲を信頼してあげることも大切です。あまり勉強を苦にしていない子どもたちに話しを聞いてみると、「あまり、勉強しなさい」とは言われない、とか「自分の将来のことやから、自分で勉強しようと思ったらしたら?」などと言われている、という声が聞こえてきたりします。家で、何らかのお手伝いを日常的にしているような例もありました。そうした意味において、本人が意識して始めると意欲もついてきますし、大人に言われてイヤイヤやるよりも集中しますから、学習内容もずっと身に付きやすくなります。
 
その子の様子や状態をよく知り、状況や年齢に合わせて接してあげることが大切だし、大人の側が「勉強しなさい」を連発するよりも、一歩ひいて、学習しやすい環境を整えるサポートに回ることが、本人にとっても大人にとっても良い結果をもたらすのではないかと思います。
 
 
 
学習の仕方とそのための工夫
 
 
それでは、「勉強の仕方が分からない」と言ってくるような場合はどうでしょうか。けっこう有効なのは、丁寧に音読することです。私自身の例でも、こんなことがありました。大学入試を数ヵ月後にひかえた段階で、どうしても物理が分からなくて、受験科目を物理・化学から生物・化学に変えました。でも、あまり時間もなかったので、生物の勉強は高校の教科書を隅から隅まで丁寧に読むことしかできませんでした。しかも、丁寧に読むにはけっこう時間がかかりましたので、せいぜい数回呼んだだけだったと記憶しています。が、共通一次試験(今は大学入試センター試験になっています)では、生物は80点、好きな教科でどちらかと言えば得意であったはずの化学よりも1点だけ点数が高かったのです。
 
国語や社会、英語などの教科でも音読は重要です。塾に、新しい生徒が入って来た時に、私は、英語の力量をさぐるのに、教科書を音読してもらいます。読む際に、きちんと言葉のかたまりを捉えて音読できればかなり実力がありますが、単語の途中で平気で切ってしまうような読み方をしていれば、少し聞いただけで英語を苦手としていることが理解できます。そんな子でも、きちんと言葉のかたまりを捉えて音読できるようになってくると、英文和訳もきれいな日本語になってきます。英語でも、言葉のかたまりをとらえて上手に音読できるようになれば、感覚的にけっこう分かってくるのです。
 
音読の他にも、英単語の練習や漢字の練習、計算の練習などは、教科書とノートがあればそれなりにできます。とりあえず20分、机の前に座って勉強する習慣をつける……といった行動目標の段階であれば、音読や漢字・英単語の練習、計算の練習などは、あまり深く考えずに取り組める勉強の代表的な例ではないかと思います。また、パソコンが得意な子であれば、エクセル(別にワードでも良いのですが、エクセルの方が回数を数えるのは楽です。)を使って、英単語の練習をする……などというやり方もあります。綴りを書くのも、綴りをタイプするのも同じように綴りの確認にはなるからです。
 
勉強のやり方がわからない/実は学習習慣そのものも身についていない……という場合は、こうした「勉強のやり方」を教えると共に、一緒の部屋で本を読んだり編み物をしたり……といった気の散らないような事をしながら、口出しをせず見守ってやるのも1つの方法ではないかと思います。
 かけ算の九九を自由に使いこなせるようになってから割り算や筆算ができるように、ある
程度の知識が頭に入ってくる、それを使うことによって記憶がいっそう堅固になったり、知識が深まったりするのです。そうした意味で、【まとめる】という学習活動は、一段上の学習ステップとして考え、使っていけるものです。
 
本を読んで分かったつもりになっていても、実際、問題にチャレンジしてみるとできないことがあります。覚えていたはずのことが出てこなかったり、分かっていたはずなのにできない……そんな時には、まとめることによって頭の中で整理ができ、記憶を強化したり理解を深めたりすることができます。
 
第一次世界大戦後フランスで生まれ、『窓際のトットちゃん』に出てくるトモエ学園の小林校長先生も強い影響を受け、現在でもフランスはもちろん世界の20カ国以上の国で実践をされているフレネ教育の日本の実践で《アルバム作り》というのがあります。自分たちで調べたことをまとめ、加工して、1冊の手作りの本を作るのです。本の作者は、それを作る過程で、見てくれる人が分かりやすいように、おもしろくなるように、というような思いで工夫を加え、自分が調べ、学んだ知識を加工していきます。その活動のすべてが、知識をより扱いやすい形に整理したのより深く理解したりする学習活動になります。そして、出来上がったアルバムという手作りの本は、読み手の学習に役立つと同時に読み手と書き手、読み手と別の読み手の関係をつなぐ架け橋ともなります。
 
もちろん、そこまで「まとめる」にはそれなりに時間が必要となりますし、上質の「作品」を作るためには「日常的な活動」にしながら作品や子どもたちの交流を促すなどの工夫も必要です。が、自分なりにまとめることで、新しい関係が見えてきたり、自分が覚えやすい形で整理できたりもします。
 
例えば、聖徳太子と徳川吉宗は同じ事をしている……と言われると驚くかも知れません。でも、そう述べるにはこのような理由があります。聖徳太子は「冠位十二階の制定」によって、徳川吉宗は「足高の制」によって、共に家柄にとらわれない実力本位の人材登用を行ったのです。ただ、暗記しているだけでは見えないことが、氏姓制度や幕藩体制によって身分・家柄・職業がガチガチになっている社会を改革するために、家柄にとらわれず実力のある人々を登用しようとした2人の苦心が見えてきます。そして、それが整理できた時、不思議なことになかなか暗記できなかった「足高の制」がしっかりと頭に入っていたりするのです。
 
大人の側がこうした学習についてのことが分かっていれば、「今の段階なら、これをしたら?」とか「こんなことができそうじゃないかな?」といったアドバイスができます。大切なのは強制ではなくアドバイスです。そして、うまいタイミングで適切なアドバイスがあれば、けっこう勉強を続けていけるものです。
 
ある中学校で、学年全員が校舎のあちこちでスケッチをしていた時、美術の先生とは別に、生徒達の間を回ったことがありました。時々、飽きてしまって遊んでいる子がいたのですが(たいてい「できた」とか言って遊んでいます。で、普通だと美術以外の先生のコメントは「もっと丁寧に描け」くらいで終わります。)、その子の作品と描いている場所を見比べながら「ここはこうなってるよね」と言ったり、「鉛筆はこういう使い方をするとやわらかい線が描けるよ」と言うようなアドバイスをしたりすると、ほとんどの子が再び熱心に書き始めました。「丁寧に描きなさい」という言葉では動かなくても、具体的にどうしたら良いかが分かると、けっこう集中してやれるものなのです。
 
これは、「勉強」でも同じです。「勉強しなさい」と言うだけでは、そうそう勉強は出来ません。本人は意識していなくても、実は、どうしたら良いか分からなくなっている場合は、意外と多いのではないでしょうか。だから「勉強しなさい」という言葉を言いっぱなしで放っておくのではなく、具体的にアドバイスをすることが大切なのです。
 
 
 
無理のない計画と学習の継続
 
 
それから、細かいステップを意識化するために、計画を立てることも良い方法です。ただ、本人や周りの大人に焦りがあると、無茶な計画や無理な計画を立ててすぐに続かなくなり、やがて諦めてしまいます。そうなってしまわないように、冷静な大人の目で今の目の前の子どもの現実を見極め、無理のない続けられる計画を立てるように持って行くことが大切なのです。
 
例えば、それまで30分すらも勉強できなかった子が突然5時間……という勉強時間の計画を立ててもすぐに挫折しまうのです。25年ほど前の話になりますが、学校の先生に「行く高校がない」と言われて、青くなったお母さんと一緒に私の塾に来た中学生の子がいました。私は、「お母さんも、毎日5時間なんて無理でしょ?」という話をして、その子と「とりあえず、毎日1時間勉強することを目標にし、出来るようになったら、少しずつ増やしていこう」という話をしました。
 
その子はその目標ならできそうだと感じたのか、毎日勉強を続け、やがて少しずつ勉強時間を延ばしていきました。ところが、その子は、10月頃に骨折して一ヵ月ほど入院したのです。ご両親は「受験に向けて大切な時期なのに」と慌てたのですが、その子は「毎日、マンガではない普通の本や勉強の本を読みなさい」という私のアドバイスをきちんと守り、退院後の模擬テストで前回よりも良い成績をとりました。そして、地元の高校に無事入学を果たしたのです。
 
フレネ教育の実践でも、学習計画表を立てる……というものがあります。先生や大人の都合ではなく、自分のペースを大事にしながら自分で計画を立て、達成できたら次へ進み、出来なければ計画を修正してさらに時間をかける。それを子ども自身だけでなく、クラスの仲間たちからも確認してもらいながら進めていくことで、意欲を持って学習に取り組んでいけるのです。
 
もちろん、1人で計画を立てるのが難しい場合は、友達や先生のアドバイスを聞きながら一緒に作っていくこともできます。守るための学習計画、こなすための学習計画ではなく、学習をする目安としての計画を立てることで、修正を加えながら、自分にあった「学習」を少しずつ組み立てていけるようになるのです。
 
また、中三の3学期ではちょっと使えない方法ですが、新学期に照準を合わせて、四月からやる勉強を先に予習してしまう……というのもちょっとした裏ワザです。そうすることで、四月に復帰した時、他の生徒よりもそこの勉強かよく分かるようになり、それが自信につながるので気分的に復帰のプレッシャーが小さくなるのです。
 
特に、ある程度進みたい道や学校がはっきりしている場合は、その道や高校へのステップということで意識化でき、意欲を持って学習に取り組めるようになります。もちろん、難易度の高い学校を目指す場合は、後で、欠席期間に抜けた分を取り戻す必要は出てくるでしょう。しかし、先に進んである程度落ち着いてから戻る……というやり方もアリです。遅れを気にして取り組むよりも、ある程度進んだ状態で、その必要性を実感しながら復習すると、意識しないでダラダラ復習を進めるよりも短時間で頭に入りますし、意欲や集中力の低下もある程度抑えられます。学習にだって、いろいろな道があるのです。
 
そうした点も含めて、子どもたちの痛みや辛さ、焦りや恐怖感に共感してあげながら取り組むことはとても大切です。けれども、大人の側が子どもの焦りや恐怖感に感情的に流されて自分を見失ってしまうのではなく、一方において大人としての冷静な目で、子どもには見えていなかったり意識されていなかったりするような現実を見極めることも大切です。子どもの「現実」をきちんと見極めた上で、学習を無理なく続けられるような環境を整えたり、その瞬間、瞬間に必要なアドバイスをしてあげたりするのも大人の大切な役割ではないかと思います。
 
いろいろと大切な見方や考え方、具体的な例をあげて大人のサポートやアドバイスについて述べてきました。もちろん、これらがすべて正しく、あらゆる子どもたちに通じるとは言えないでしょうし、すべての人がすぐにこのようなサポートやアドバイスを実行できる訳でもないでしょう。けれども、少しずつでも意識しながら続けることでやがてできるようになっていく……というのは、子どもも大人も同じです。子どもたちと同じように、大人の側も、自分の続けることのできる努力を積み重ねて、少しずつ変わっていければ良いのではないかと思います。
 
 
                 〔完〕
 


2015年03月29日(Sun)▲ページの先頭へ
学習のサポート2015 @
はじめに
 
 
不登校や保健室登校、別室登校といった状態が長く続くと、当然、授業に参加できなくなるので、学習の遅れが気になり始めます。それは当初、本人以上に、先生や家族の方がとても気にします。でも、本人は気にしていないように見えても、実はかなり気にしていて、ある程度気持ちが落ち着いてきても、教室へ入っても勉強が分からないに違いないと想像して、どうしても教室に入れなくなったり、いっそう学校へ行けなくなったりする……という場合は少なくないようです。
 
実際、私が関わった例でも、数学の勉強がよく分かってきた時期に「行ってみよう」という気になって、学校に行ってテストを受けた例がありました。数学が分かってきたと実感できたことで、それが自信となり心の支えとなって、登校という行動に結びついていったのではないか、と思われます。
 
別の例では、ゲームが好きでそれに登場する戦国武将についていろいろな本や高校の教科書を読んで自分なりに勉強した結果、戦国時代を中心が歴史が強くなり、それが自信になって他の教科の勉強にも意欲的になっていった例もありました。
 
単に、成績や受験に関わってではなく、こころの支えともなる、という意味においても学習は重要ですが、そのサポートについては難しい面や、気をつけなければならない点もあります。そこで、今回は学習のサポートについて考えてみたいと思います。
  
 
 
ステップをきざむこと/行動のステップ
 
 
不登校になっていたり、学校には登校していても教室には入れず、きちんと授業を受けたりしていない場合、学習の全体を意識することは返ってマイナスです。それは、しなければならない内容の多さに圧倒されてやる気を失うからです。かなり前の話になりますが、不登校の相談の際に、1人のお母さんが、「不登校になってからの教科書をすべて、本人の目の前に並べました」という話を出してきたことがありました。その時に、「同じことをされたとしたら、お母さんはやる気が起きますか? 逆にやる気がなくなってしまうのではないでしょうか?」という話をしました。では、どうすれば良いのか。基本的な考え方は、やることができそうな小さな目標……ステップを刻み、それを達成することで自信をつけ、それを何度も積み重ねていくという形で進めることが、意外と有効です。
 
以前、小学校の途中から不登校になった男の子と関わったことがありました。本人が最初私のところに顔を出してから、次に顔を見せるまでおよそ半年のブランクがありましたが、本人も何とか勉強を進めたいという意欲があり、まず、2週間に1度私のところに来て、1時間勉強するという目標を2人で立てました。それは、すぐに達成できたので、次に週に1度、そして1回の1時間半にする、さらに週に2度、その上1回の勉強の時間を2時間にする……という風にして、行動目標を現実に応じて修正し、それを達成することによって自信をつけ、次に進む……ということを繰り返していきました。
 
加えて、単元ごとに学習内容も教え、練習問題等を積み重ねました。やがて本人が自分で教科書を読んだり問題集をしたりできるようになってきました。その段階で、単元ごとにテストをしてみて85点以上を取れたら合格……ということで次に進む、という形にしました。そうしたやり方をすることで本人は自信をつけ、特に数学などは、わずか1年半ほどで中1の最初の単元である「正の数負の数」から中3の「三平方の定理」まで、ほぼ85点以上をとって「数学はできる、得意だ」という気持ちを持つようになりました。
 
その自信が「期末テストを受けてみよう」、「学校へ行ってみよう」という気持ちにつながり、高校入試でも、「不登校枠」の推薦入試ではなく、得意の数学を含む一般入試でチャレンジし、見事合格を果たしました。その後は、休むことなく元気に高校に通っているという話をしばらくしてからご両親からうかがいました。
 
この例から、行動上のステップと学習上のステップを、それぞれ別々に細かく刻んでいることが先へ進むための重要なポイントとなっていることがよく分かります。精神的に混乱し、安定を失って、学習の習慣や日常生活の習慣が崩れてしまっている場合は、ある程度の時間を使って心を休め、エネルギーをためることが最優先です。が、その混乱期を過ぎて精神的に安定してきた時期に、行動上の目標を本人と一緒に設定し、時には修正しながら、ステップを積み上げていくことは、学習を進めていく上でとても大切になります。学習のステップを一歩ずつ進んでいく際に、この行動上のステップが土台にあると歩みは安定し、次第に早めていくことも場合によっては可能となります。その意味で、行動上のステップを意識することは大変重要だといえるでしょう。
 
 
 
ステップをきざむこと/学習内容のステップ
 
 
一方、学習内容のステップについては、まずは、続けることが可能となる無理のない目標を立てて、少しずつそれをクリアしながら進んでいくことが大切です。本人の中に長いこと勉強していない……という意識があると、どうしても焦ってしまいます。先に、すべての教科書を並べたお母さんの話を書きましたが、まじめな性格の場合は、そうしなくても本人の意識には「すべての勉強を完璧にしなければ……」という思いがある場合がほとんどです。でも、その多さも同時に意識してしまうので、どこから手をつけてよいのか分からなくなって途方にくれてしまい、何もできなくなってしまうのです。だから、無理のない目標を立てて、それをクリアするという学習を積み上げる行動はとても大切なのです。
 
不登校に限らず学業不振で高校入試の相談に来る中学生や家族の方に、「中3の学習内容は捨てなさい」というアドバイスをすることがけっこうあります。実際、連立方程式を今の時点で解くことができない大人はけっこういますが、その人たちは、立派に職業人として仕事をこなしていたり家庭人として家庭生活をきちんと支えていたりしていますし、一部の進学校を受験するのでない限り、中3までの学習内容を完璧に身に付けていなくても高校入試で合格する点の取れる学校はそれなりにあるのです。
 
そうした意味において、中3までの学習内容のすべてが、日本の社会で生きていく上に必要という訳ではありません。けれども、自分の就く仕事などによって必要となる場合はあります。例えば、「水道工事なんかの会社の事務をしているんだけど、水道工事でパイプをつなぐ計算などで三角比がけっこう使われていて、その勉強が分かっていたので役に立った」とか、「電気関係の仕事をしているけど、連立方程式をもっとしっかりやっとけば良かった」などという話を、かつて中学や高校で教えていた生徒と後に居酒屋などで再会したときに聞いたことがありました。
 
一方で、必要だから勉強する……のではなく、探究心から勉強することが後になって様々な形で役に立ってくることもあります。08年の日本人ノーベル物理学賞やノーベル化学賞の受賞者はすべて基礎研究で受賞していますが、研究していた時点で、それが実際の日常生活には直接役に立たないものばかりでした。けれども、4人の研究が土台になってさらに研究が進んだり、実際に日常の様々な場面で応用される形になったりしています。「方程式ができるようになったら、方程式を解くのがおもしろくなってきた」という声を時々聞くことがあります。「必要」ではなく「おもしろい」からという動機であっても、学びを深めることが人間的な成長や意識の広がりにつながっていくのです。
 
高校入試……という、とりあえずの目標があるから勉強をしているのだとしても、自分自身の今の現実をしっかりと考えてみる必要があります。例えば、人の多いところでは萎縮してしまうとか、混んでいるバスや電車には乗りにくいといった行動上の現実。あるいは、1年次の英単語も覚えていないとか、文字の式の計算がまったく理解できていないといったような学習上の現実……。そうした現実から考えてみた場合、続けられそうな環境・条件の高校はどれだけの学習の土台が必要か……ということを意識してみる必要があります。それらをきちんと考えた時、中学校3年間の学習内容すべてが必要となる場合はそれ程多くはないはずです。
 
残された時間が少なければ、基礎的な部分をしっかり身に付ける……そう意識すれば、「学習すべき内容」の量は減ってきますし、段階ごとに小さなステップを刻んで積み上げていけば、「学習しなければならない内容の多さ」に押しつぶされるようなことにはならないでしょう。やれそうな計画を立てて、1つひとつ確実にステップを刻み、土台を積み上げていくことが大切だし、それがまた自信にもつながり、高校からの学習の基礎作りにもなっていくのです。
 
それに、そうして身に付けた内容は、高校ばかりでなく次の学習やその後の生活で、直接・間接に役立っていくことも少なくありません。基礎作りは、その意味で、決して無駄にはならないのです。
 


2014年08月30日(Sat)▲ページの先頭へ
災害弱者としてのひきこもり
災害弱者としてのひきこもり
 
 
 
4月の伊勢志摩不登校ひきこもりの会・伊勢例会に、愛知県立大学教授の清水宣明先生に来ていただき、災害に際してのお話をいただきました。それ以降、三重県内に地震や津波の大規模な災害は起こっていませんが、大雨や洪水については、何度か避難勧告や避難指示が出されています。現時点で、そうした被災したり非難したりした場において引きこもりであったことにより亡くなったとか、負傷したとか、トラブルになったという話は聞いていません。しかし、東海地震や東南海地震や南海地震あるいはそれらの連動がいつ起こっても不思議ではないと言われていることや、狭い地域に多量の雨が短時間で降るというゲリラ豪雨が日本でも増えていくだろうと言われている現在において、不登校やひきこもり、ニートの問題に関わる私たちは、災害とひきこもりについて考えておく必要があります。そこで今回は、災害とひきこもりの問題について考えていこうと思います。
 
清水先生は、伊勢例会の時のお話で、災害弱者としてのひきこもりの人々について、次のように整理してくれています。
  
  
  
【ひきこもりの方】
・周囲との関係の低下・欠如、不安状態
・詩罰的な意欲ある行動の低下・欠如
・現実感の乏しさ、自分の内的世界
・セルフケア不足、清潔維持の困難
・無為、自閉の状態
 
    ↓
 
・知識や情報の不足
・思考と判断の低下
・行動力の低下と躊躇
・ひきこもり状態の打破の困難、恐怖感情
・避難環境への適応の困難
 
    ↓
 
逃げない、逃げられない、逃げ遅れる
  
 
  
防災について専門家ではない私たちですが、清水先生のご指摘は、なるほどなあ、とうなづくものばかりです。実際、東北の大震災と津波、その後の原子力発電所の事故という大災害の時に、引きこもりだったので逃げなかったという話や、一度は避難所に行ったが対人関係の問題でまた自宅へ戻ってしまったという話も耳にしています。だからこそ、災害から生き残るためにも、災害の後も生き続けるためにも、本人はもちろん、家族や支援者の方は、一般の防災対策に加えて、ひきこもりの人々と共に生き残り生き続けるためのプラスαの準備が必要となるのです。

では、どう考えてどのような点に注意をして準備をしていったら良いのでしょうか。
 
災害についての基本的な知識は一般の方も、意外とあまり分かっていないことが少なくありません。私の自宅は海抜15メートルとある程度高い所にあり、20メートルと離れていない所に第一次の避難場所があり、その後目指すのは徒歩で10分ほどの小学校になります。けれども、自宅には長距離歩行の困難な母がいますので、地震などの時は、当然、倒れた塀や壁などの障害物が道をふさいでいる可能性があるため10分での移動は困難です。この程度のことは分かりますが、その他のこととなるとあまり自信がありません。
 
皆さんはどうでしょうか。ご家族の暮らす家やアパート、マンションは海抜どれくらいのところにあるでしょうか。最も近い第一次の避難場所はどこにあるでしょうか。最終的にはどこに避難したらいいのでしょうか。持ち出すものは何でしょうか。避難の際何らかの形でサポートが必要となる家族は何名いるのでしょうか。こういったことを完全に知っていて、いざという時にはすぐに行動に移せる方は、もしかしたらそれほど多くはないのではないでしょうか。
 
けれども、ひきこもりの当事者はこれにさらに悪い条件が加わります。このような災害関係の知識や情報に興味や関心を持っているひきこもりの人は非常に少ないと思われます。だから、自ら知識や情報を得ようとしないだろうし、そうした知識や情報を話したり提示したりしても、話を聞かなかったり何も見ようとしなかったりする対応が少なくないことが予想されます。現実認識の弱さや、自己肯定感の低さがベースにある「生き残ろう」とする意志や意欲の弱さなどがそうなる原因の一つではないかと考えられます。「自分なんかは生きている価値がない。死んだって誰も悲しまない。どうなってもいい」という考えを持っていて災害に遭えば簡単に死んでしまう可能性もあるのです。災害による死はそれなりに強い決意や意志が必要な自殺よりもシンドクナイ……と、今、現在の時点では、感じているかもしれないからです。
 
だから、こうした本人の中にある心の壁を崩し、何とか本人に知識や情報を獲得させ、それを元に本人が災害時に「生き残る」という決断をして、生き残るための判断や行動が出来るようにしていくことが、家族や支援者には必要だということになります。もちろん、それが簡単にできる訳ではありません。けれども、命を守るために、やっていかなければならないのです。
 
では、家族や支援者という立場で、具体的にどのようなことができるのでしょうか。あるいはとういったことから始めればいいのでしょうか。不登校やニートがそうであるように、一口に「ひきこもり」という言い方でくくっても、その実態は一人ひとりすべて違います。だから、その人本人と向き合い、付き合いながら、よりBETTERな方法を模索していくしかない、というのが実際のところです。それでも、ある程度共通するようなポイントをいくつか考えてみたいと思います。
 
まず、本人が家族や支援者にとって大切な存在であり、亡くなってしまったら悲しい、という事実をきちんと伝え、自分のためだけでなく、周りの人のためにも生きるための努力をして欲しいと願っているということも併せて話していくということです。それによって、本人が「自分が他者にとって大事な存在なのだ」という感覚を得ることができれば、そのことが自己肯定感や生きようとする意欲につながっていくでしょう。
 
次に、その具体的な努力として、第一次避難場所や最終避難場所にまで一緒に歩いて行ってみるということもできればしておきたいと思われます。地震や津波、洪水な大規模災害に際しては、車などは使いにくくなる可能性も高くなります。だから、実際に歩いてみるのはとても良いことです。それによって、避難経路の危険箇所も確認できますし、かかる時間のおおよその目安もつかめます。(実際に災害が起きた時は、道の状態も悪くなっていることがあるだろうし、けがをする場合もあるので、時間はもつとかかると考えておいた方が良いでしょう。)また、実際に歩いてみることによって、ルートが寸断された時の回り道等も見当をつけることができると思われます。
 
また、何とか避難ができたとしも、避難所で過ごす時間が長期化していくと、特に対人関係に関わるストレスも大きくなってくると予想できます。けれども、事前に話をしたり、知識や情報を得たりすることで、多少なりともストレスを軽減することは可能です。
 
もちろん、実際にその時になってみないとわからないことはたくさんあります。それでも、意識的に備えることで、問題を多少なりとも軽減することが出来ます。自分たちが知っていることと知らないことを確認し、知りたいことをはっきりさせる。そして可能な範囲で、調べておく。困った時には、どういう機関やどういう人に相談すれば良いかを知っておくというようなことも大事です。使えるもの、必要なもの、不足しているもの等も、ある程度きちんと整理してあれば、様々な活動がより素早く出来るようになります。
 
例えば、火事になった時にあわてて110番に電話してしまったとしても警察は消防に連絡はしてくれるでしょうが、連絡が遅くなれば消火活動もそれだけ遅れます。最初から落ち着いて119番通報ができればその方が早い、というのは誰でもわかります。事前にきちんと準備がしてあれば、何もしてない場合よりも落ち着いて行動できる可能性は高くなります。
それに、被災して何とか避難した場所で、たまたま何かの手伝いを頼まれて、それをやった結果多くの人に感謝され、それが自尊感情を高め、前に進むきっかけになる、というような可能性も考えられます。フクシマでも、学校で素行の良くなかった生徒たちが、避難所でトイレのための穴を掘る手伝いを頼まれ、それをやったところ、多くの人たちに感謝され、よりいっそう、皆のためになる活動をがんばったというような話も聞いています。被災するのは不幸なことですが、それが生きていく上でプラスになる何かを生み出すきっかけにつながることもあるのです。
 
そのためにも、まずは災害時に生き延びることが大切になります。そのために、今できることを少しずつ積み上げていけるように努力できれば……と思います。
                                  〔おわり〕

この文章は、2014年4月の伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の伊勢例会で、愛知県立大学の清水教授にお話しいただいた内容から浜口が理解したことをまとめたものです。






2014年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
続けるということB

就労と働き続けること
 
 

同じように、「働く」ということについても考えてみましょう。対人関係に自信を失い、外との交流を閉ざしてしまった人に、周囲が「就職先」を決めても、絶対に働きに出られないことは容易に想像がつくでしょう。不登校の事例で「入試合格」がゴールではないのと同じように、自立を考えていく上では「普通に働き続けられること」が当面の目標であって、「就職すること」がゴールではないのです。
 
では、「働く」ためのステップとして、どのようなものが考えられるでしょうか。当面の目標である「普通に働き続けられること」の意味をより詳細に分析してみれば、その前段階にあるステップはそれなりに見えてきます。ケアや支援を受けながら働き始めること、がその一つです。その点からすれば、就労支援の相談や就労体験、さらにパートやアルバイトなども、条件を段階的に変化させていくことで、就業のための重要なステップと位置付けられるのです。
 
もちろん、非常に幸運な出会いによって、一足飛びに毎日普通に働き続けられるようになる可能性もない訳ではありません。けれども、理解があり、かつ本人と波長があって、本人を様々な面で支え続けてくれる人との幸運な出会いがそれほど頻繁にあるとは考えられません。そうである以上、少しずつ出来そうなステップを試行錯誤しながら刻み、一歩一歩粘り強く進んでいくことを考える方が現実的でしょう。今までの例でも、最初は週末だけ……という形で入れていたアルバイトを徐々に仕事に慣れていく中でほぼ毎日入れるようになった場合や、求人広告を見て職に就くことが出来たがしばらくして自信を失い「辞めなければならないだろうか」と悩みだしたけれども相談した人に励まされてまたやろうとする気持ちを取り戻した場合などがあります。
 
まず、ポイントとして、最初から完全を求めない(つまり、就職してそのまま毎日【普通】にがんばって仕事を続けることが出来るという『高い目標』を設定したりはしない)ということを挙げておきましょう。自分があまり無理をせずに続けられそうなところからスタートし、続けていく中で関係作りに慣れるように心がけることが大切なのです。そして、続けていくことができれば、次第に自信が持てるような仕事の結果や充実感を得られるようになるでしょう。そうした小さな「成功」を積み重ねながら少しずつ労働時間を延ばしたり、回数を増やしたりしていくように考えていけば良いのです。さらに、周囲に、安心して本人が相談できる人や場を、出来れば職場や家族以外でも持てるとさらに条件は良くなると考えられます。続けることで、仕事の技術の面でも、対人関係の面でも、自信が生まれ、それがまた意欲につながっていく……というサイクルが生じます。その積み重ねの中で、やがて少しずつ労働に対して心と身体を開いていけるようになっていくでしょう。
 
でも、これについても、「言うは易し、行なうは難し」の現実があります。まず、本人の意識や意欲が「やってみよう」という覚悟で固まり、実際に動き出す、というところまでいかない、というか程遠い場合が少なくないからです。ある意味では、本人は両親や家族以上に「何とかしたい」という思いを強く持っていたりする場合も少なくありません。けれども、自分を閉ざしてしまった時間が長くなればなるほど、あらためて新しい一歩を踏み出す恐怖感は強くなってしまうのです。
 
自分でも今の状態では良くないのは分かっているし、何とかしたいと思う。けれど、どうしても出来ない。不登校や引きこもり問題に限らず、そうした状況に陥ったとき、大抵の人は自己嫌悪に陥ることは少なくありません。私自身も、そうした体験を数え切れないほどたくさん持っています。しかし、ここ10年ほどの間に「どうしても出来ない自分」をとりあえず認めてしまう……という事を意識的に行なえるようになって、ずいぶん楽になったように思われます。
 
だから、五十代半ばともなれば若いころのように体力はなく、集中力や記憶力も低下して、徹夜等の無理はきかない……という事実も素直に受け入れられるようになっています。そして、事実を受け入れることが出来れば、その事実を前にしてどういうような形で対処し、対応を変えるかを工夫することが可能になります。例えば、仕事はなるべく残さないように早めにやる、とか以前のプリントなどを最大限利用するようにして無理して新しいものを一から作ろうとしないように気をつけるとか……。自分の現実(あるいは弱さ)を受け入れれば、そこから再出発できるし、とりあえず不完全・不十分であってもその場を何とかつくろって先へ進む工夫を考えることが可能となるのです。結局、大切なのは、「今できない自分」をまず認め、受け入れることです。それを「できないから嫌だ」とか「できないのは本気でやろうとしていないからで、本気でやれば出来るけれど気分が乗らないからやらない」といったような形で自分をごまかしているとそこから先へ進めないのです。
 
特に、そのような思考パターンに陥ってしまっていると感じる時には、「できる」「できない」の中身もある程度自分なりに詳しく分析・確認してみると良いかもしれません。たいてい「100点以外はダメ」とか「90点以上じゃないと出来たことにはならない」と考えている自分を発見するのではないでしょうか。ところが実は、「60点でもOK」だと周りは思っていることも結構多かったりします。つまり、悪い意味での完璧主義に知らず知らずのうちになってしまっているのです。
 
それに気付けば「今できない自分」と向き合いやすくなります。そして、向き合うことができれば、最初の一歩を踏み出す条件が整ってくるのです。その上でさらに一歩踏み出せば、二歩目はもっと踏み出しやすくなります。次の三歩目はさらに楽になり、歩み始めれば遠いと思っていた道のりも意外に早く進んでいけるものなのです。
 
けれども、実際にはなかなか「理論」通りにはいかないし、それぞれの「現実」には多種多様の越えなければならない壁がたくさん並んでいるものです。それを一人で越えていくのは大変なことだから、その過程にサポートする人や場があることが望ましいと思われます。その「場」として最も身近に機能する可能性があるのは【家族】です。しかし、家族は当事者と精神的距離が近すぎるために、一緒に嵐に巻き込まれてしまう可能性や、逆に身近すぎて大切なことを見落としてしまい返ってお互いで傷つけあう可能性があります。そこで、家族会や自助グループあるいはサポートのための組織が、さらに家族や本人を支えていくような形を取れれば、当事者に接する人々の対応を改善するサポートも出来るだろうと考えられます。
 
とは言うものの、それすらも必ずしも万全とは言えません。三重県・考える会や「ぼちぼちいこか」などもそうなのですが、民間の非営利組織であれば、資金・財政上の弱さやスタッフの不足などであらゆる段階に対応できる万全のケア・サポート体制を完備することは不可能だからです。
 
そうした分析の上に立てば、当事者や家族の努力に加えて、行政にもある程度しっかりしたサポートの役割を担ってもらえるように運動することも大切です。行政の側からの支援組織や体制の創設、民間の団体への資金援助、そして行政・民間双方の情報交換と交流による幅広い支援体制の確立など……。実際、三重県下でもいくつか就労支援の組織があり、NPOにもそうした活動をしているものがあります。それらは人員的にも予算的にも必ずしも十分なものとはなりえていませんが、それなりに経験も蓄積されつつあります。これをさらに充実させるような形でサポートの体制がある程度整えば、段階的な就労へのアプローチ(バイトやパートタイマーから通常労働への段階的な移行)や就労過程でのサポート(本人の悩みを聞いたり、励ましたりすることや、本人と経営者や職場をつなぐことなど)も、より手厚くしていけるでしょうし、それは当事者の立ち直りの可能性をより大きくし、社会の活性化にもつなげていけるのではないかと考えられます。
 
今、ここで、すぐ、できることはまだまだ少ないかもしれません。けれども、何か出来そうなことはある筈です。それを模索しながら、協力して一歩ずつでも歩みを進めていければ……と思います。



2014年04月15日(Tue)▲ページの先頭へ
続けるということA
続けるための学校の選択
 
 
 

小中学校で不登校を経験し、中学を卒業する時期がきた時の進路選択の問題についても、「続ける」ということが一つのキー・ワードとなります。この時期の進路の相談でも、話を聞いていると、《入試に合格する》ことだけにしか意識がいってない……と感じることが、本人・家族の方を問わず、けっこうあります。けれども、入試に合格できても、その後、学校へ行けなかったのでは仕方がありません。

平均寿命が80歳前後という現代の日本の状況では、高校生活といってもせいぜい3,4年のことであり長い人生の中で考えればほんのわずかな期間に過ぎないわけで、その後、それなりに収入も得て地域社会の中で暮らしていけるのであれば必ずしも高校を卒業する必要はありません。けれども、働き、収入を得て、地域社会の中で暮らしていく……ということを考えた時、高卒の資格は、就労その他に関わって、それなりに意味を持っています。ある程度の収入を得て暮らしていけるだけの才能や技術、手立てを持たないならば、高卒という資格は持っておいた方が良いのです。そのためには、合格できる学校……ではなく、通える条件の学校を選ぶ……という考え方が非常に大事です。

対人関係において特に大きな問題がなく、普通に家庭教師と接したり、塾に通ったり、無理なく外出できるようであれば、今の時点で学校に出ていなくてもそれなりに手は打てるでしょう。また、高校に入学して、新しい環境の中で新たな人間関係を作っていくことも、多少のトラブルはあるとしても、それほど困難は伴わないと思われます。

逆に、高校入試を考えるに当たって、対人関係の面で問題を抱えていると、学力面ではクリアできても入学後の高校生活が問題になります。受験校の選択に際して、本人はあまり意識しておらず、かつ入試の準備に際しても、合格して高校生活に入っていくに際しても、対人関係面の問題が大きい場合は高校入学以降に問題が噴出してくることがあります。せっかく合格しても、結局、不安や恐怖心が大きくて家から出られなかったり、何とか高校に通い始めたけれど何かのきっかけで行けなくなってしまい、そのまま休学や中退となってしまったりするようなケースがけっこうあるからです。家族としか話が出来ない、あるいはお母さんだけ、お母さんと兄弟姉妹(あるいはそのうちの特定の誰かだけ)だけしか話が出来ないようでしたら、家庭教師や塾という学習面を補う手段は取り難くなります。また、何とか入試に合格し、高校に入学できても、対人関係の不安やトラブルが原因や直接の引き金となって、また高校に通学でき難くなっていくでしょう。

けれども、本人が自分自身の現実を受け入れ、本気でそこから脱出したいと願うのであれば、家庭教師や塾も、対人関係を開いていくための機会やステップとなります。対人面の自分自身の課題にきちんと向き合えば、家庭教師との関わりや塾に通うことなども学習面を補うばかりでなく対人関係の訓練の場ともなるからです。そして、高校に合格できれば、先生や同級生との関わりもまた、就業や自立に向けての対人関係の訓練や経験となるのです。

いずれにしても、高校入試に際して自分自身の学力面(志望高校に入学できるような点数が取れるかどうか)と対人関係面の両方の「現実」を考えて受験する高校を決定することが、通学や卒業のためには重要となるでしょう。

では、受験する高校を選択するに際して、どのようなことに気をつけると良いでしょうか。学力はもちろん重要なポイントですが、集団に対するプレッシャーの有無や大小、現在のコミュニケーション能力、朝起きられるかどうか、といったことも頭に入れて、合格してから高校生活を続けていけるかをも含めて考えながら受験する高校を決定すると良いでしょう。

例えば、普通に外に出て様々な活動が出来ている状態であれば、また、ショッピングセンターや映画館などの人ごみも特に気にならないのであれば、普通の自分の実力にあった高校を受験するという選択で良いと思います。人が多いということが多少気になるとしても、それ程不安や恐怖を感じることなく高校生活を過ごすことが出来るでしょう。そのように考えれば、少し慣れるまで時間がかかるだろうと覚悟をした上で普通の高校を選択する、という判断も悪くないでしょう。

けれども、人が多いとかなりプレッシャーを感じるのであれば、そのプレッシャーの度合いに応じて、定時制や通信制を考えた方が高校生活は続くだろうし、高校を卒業できる可能性も高くなるでしょう。20人から30人程度の少人数なら強いプレッシャーを感じずに活動できそうであれば、夜間定時制(単位制)高校が続けやすい選択となるだろうし、その人数でもかなりプレッシャーだというのであれば、月に3~4回程度学校に行けばよいだけの通信制高校という選択が良いかも知れません。

ただ、通信制高校の場合は、締め切りに合わせて定期的にレポートを出していく必要があるので、レポートを完成するためのサポート方法も合わせて考えて置くと良いでしょう。1つは登校日でなくても学校に出かけて通信制高校の先生に指導を受けるという方法。勤務時間内であれば先生は教えてくれますし、「先生」という新しい他者と関係を作り、深めていく機会ともなります。また、塾や家庭教師などを利用するというのも1つの方法です。

それから、昼までなら何とかなるけれど、朝早くはどうしても起きることができない、というのであれば、定時制(単位制)高校の午後の部という選択肢もあります。午後の部だけの授業を取っていると卒業まで最低4年かかりますが、最近は午前の部や夜の部の授業も一部は取れる形をとっている定時制(単位制)高校が増えてきていますので、そのような形でうまく単位を取っていけば3年で卒業することも可能です。

高校によってはアルバイト(夜間や通信の場合は仕事に就くこと)が認められる場合もあります。お金の問題、というだけではなく新しい人間関係を作っていくチャンス/練習ととらえてチャレンジしてみることも、将来の事を考えればbetterではないか、と思われます。

いずれにしても、高校はゴールではなく、通過点に過ぎない、ということを色々な意味で頭に置いておくことが大切でしょう。合格できればそれで良い、という訳ではありません。それに、将来、自立して家族と暮らしていければ、どんな形で高校を出ていようが関係ないし問題はない訳です。そうした意味においても、高校は「通過点」なのです。



2014年04月14日(Mon)▲ページの先頭へ
続けるということ@
続けるということ

 


はじめに


 
 
不登校やひきこもり、NEETの相談やカウンセリングの場で、ご本人や家族と話をしていると、高校入試の合格や入社試験の合格にしか意識が向いていないなあ……と感じることが少なからずあります。けれども、高校に入ることができてもしばらくすると行けなくなってしまったり、就職できても結局1ヶ月ほどで辞めてしまったりした……という話もけっこう聞こえてきます。結局、大切なのは続けられるかどうか、ということであって、合格や就職を決めることではないのです。
 
 



 
勉強を続けること


 
 
例えば、入試の前の勉強などでも、続けられるかどうか……ということが大事なポイントになります。以前、私の塾に来ていた生徒の話になりますが、学校の先生に「行ける高校がない」と言われて「毎日5時間勉強しろ」と《指導》され、ご両親と本人がそろって相談に来た時に、私はこう答えました。「お父さんやお母さんは、毎日家で5時間勉強できますか? できないと思いますよ。それよりも、勉強を無理なく毎日続けられるように習慣づけることが大切です」と。本人もそれで納得し、最初は毎日1時間を目標に家での勉強を始め、それがやがて1時間半…2時間と少しずつ時間を延ばしていけるようになりました。ところが、11月頃にケガをして1ヶ月ほど入院しなければならなくなったのです。本人も家族も勉強の遅れを心配しましたが、その時は、「国語がちょっと苦手だから、毎日本を読むようにしたら良いよ」とアドバイスをしました。その子も、それなら出来そうだ……ということで、毎日読書を続けました。結果はどうなったかと言うと、その後のテストでも成績は下がらず、春の入試では志望した高校に合格することが出来ました。

一方で、かつての不登校の相談で、あるお母さんが休みだしてからの教科書や問題集をすべて子どもの前に並べた……という話をしたことがありました。その時には、自分がそうされたら勉強する気になるかどうか、ということを考えてもらって、その対応がかえって勉強しようという気を失わせてしまう、という説明をしました。やらなければならない、と思うことがあまりにも多すぎる……と感じるとやる気が失せたり、あきらめてしまったりすることが多いものです。だから、例えば「毎日、計算問題を20問以上正解できるようにする」とか「毎日20個ずつ新しい英単語を覚える」といったような続けられそうな具体的目標を設定し、それをクリアしていく……できるようになったら、何とか続けられそうな新しい具体的な目標を設定し、それをまたクリアしていく……というような繰り返しと小さな成功体験の積み重ねによって自信を回復し、地力をつけていくようにしていく方が、一見、時間がかかるようでも、結局は意外と早く勉強が進められるようになるものなのです。

中学校を卒業するまでに不登校を経験している人には、それがどのような理由であったとしても、それなりの時間、学校での授業を抜けていることになります。ですから、単純に考えてもその分だけハンディがある訳です。当然、その分の学力面は、何らかの形で補わなければ、高校入学のハードルを越えることが困難である場合も出てきます。

ただ、高校入試につい考えれば、中学で学習する内容をすべての教科で100%理解している必要はありません。トップクラスの進学校に進むのでなければ、それなりの点を取れればけっこう合格点には達するものです。高校入試において一教科でも0点を取るとかなりマズイですが、苦手な強化であっても5点なり10点なりは取れていて、しかも全体としてその高校の合格点に達していれば高校入試に合格できる可能性は高いのです。だから、私自身、高校入試に当たっては「3年生の学習内容は捨て、1,2年の内容の復習をしっかりやれ」という指導をする事も少なくありません。そして、今までの私の経験では、それを守って勉強した子で不合格になった生徒は1人もいません。

私の過去の経験で一番大変だったのは、中学校3年の2月から私のところに来て、1年生の英語の教科書と正の数負の数の計算から始めた子の例です。その子に対しては、知り合いを通じて「せめて入試3ヶ月前に連絡してもらった方が良い」ということを伝えていたのですが、入試まで1ヶ月半となる時点まで決心がつかなかったようなのです。それでも、その子は腹をくくっていましたので、毎日の長時間の勉強と多量の宿題に耐え、3月の初めには中1の英語の教科書をざっと終え、数学も連立方程式の基本的な問題までは出来るようになっていました。当然、家でも必死で私からアドバイスされた勉強を続けていましたから、「こんなに勉強したことは今までなかった」と言ったほどです。それでも、何をどのように勉強するか……ということが自分自身でもイメージ出来ていたので、受験のためのハードな勉強を続けられたのです。そして、本当に何とかかんとか……という感じではありましたが高校入試で合格し、高校に進学することが出来ました。

そうした意味では、特に中学1年程度の学習内容までなら、本人の意欲と家庭の中だけの対応で学習面は何とかなる場合もあります。例えば、お父さんが理数系に詳しければ、数学の連立方程式なども教えられるかも知れないからです。けれども、中2辺りの学習内容になると、本人の努力と家庭の中での対応だけでは難しい場合が多くなってくるのではないかと思われます。その場合、塾や家庭教師などで補えれば、少なくとも、レベルの高い進学校を除けば、高校入試のペーパーテストでそれなりに合格できる程度の点を取ることは不可能ではないでしょう。

その際に大切なポイントはどのように勉強していけば良いかという具体的なイメージが(家族や先生のサポートがあっても良いのですが)はっきりしている、という事です。あわせて、「勉強しなければならない内容すべて」を意識するのではなく、今日何をきちんと終わらせ、明日は何をしたら良いか、ということに意識を集中し、それを確実に遣り通す努力を続けることです。「勉強しなさい」と周りが口うるさく言っても、また本人が「勉強しなければ」と決意をしても勉強が続けられる訳ではありません。勉強を続けられる具体的なイメージを本人が頭に思い描ける、という事が大切なのです。それと合わせて、お父さんなりお姉さんなりといった家族の誰かが同じ部屋で資格所得などの勉強をしている…といったような環境があれば、そういうことも本人の励みになると思います。


2011年09月17日(Sat)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・高校中退や就労D
4、対応のポイント 

さて、子どもが不登校やひきこもりの状態になった時、人間関係のトラブルが原因のひとつである可能性がありそうなケースでは、発達障がいの可能性もある、ということを心の隅に入れておく方が良いでしょう。その上で、「発達障がい」について知る努力をすると良いかも知れません。というのは、発達障がいではない不登校やひきこもりの子に対する対処方法として正しいことが、発達障がいの子にとっては不適切な対処となる場合もあるからです。

一般の定型発達の子や若者に対しては「心のエネルギーが弱まっている間は待つ」というのは適切な対応の1つです。けれども、それは本人が自由に決断するということにつながっているので、選択することや決断することが苦手なある種の発達障害の子や若者にとっては混乱のきっかけになる可能性もあるのです。

そうしたことから、子どもの現実をよく見極めることも大切です。というのは、発達障がいといってもそのくくりは大まかなものですし、同じように「アスペルガー症候群」という診断を受けたとしても、子どもによって、その差は千差万別です。だから、今の時点で 子どもにどのようなことができて、何が出来ないのか、どんな時にトラブルをおこしやすくなるのか……というようなことを知っておくことも大切です。

現実をよく見極め、それを受け入れることは、言葉にするのは簡単ですが、けっこう難しいものです。以前、死と向き合うことをテーマにした話を聞いたことがあります。上智大学の教授であったアルフォンス・デーケンが、癌などの不治の病で死の宣告を受けた人の心の動きについてキュープラ・ロスの分析を紹介していました。自分の死という「現実」を前にして、多くの人はまず「なぜ自分はこんな運命に見舞われなければならないのか」と怒り、「そんなことあるわけが無い」と否認し、あるいは「まじめになる」とか「熱心な信者になる」といったような形で神や運命と取引しようとしたりするが、やがて現実を受け入れることにより心の平安を取り戻し、残りの人生を有意義に生きることができるというのです。ところが、キュープラ・ロス自身は、自分自身の死を前にして「受け入れる」ところまではいかず「怒り」の段階に留まったまま死を迎えた……というような話も聞いています。

自分の死……とまではいかないまでも、自分自身が発達障がいである……とか、自分の子どもが発達障がいである……という「現実」は、大人でも簡単には受け入れられない場合があります。また、受け入れるにはそれなりに時間も必要となる場合も少なくないようです。けれども、やはり「現実」を受け入れることで先に進むことが出来ます。それなりに、覚悟を決める/腹をくくる必要はありますが、それによって道も開けてくるものです。

さて、自分自身や子どもが発達障がいであることを受け入れることができれば、「本人の現実」を理解することが出来るようになってきます。その上で、得意なことや理解できること、苦手なことや限界(ここまでは出来るがこの先は難しい、あるいは非常に時間がかかって本人には負担が大きいというようなこと)を意識すれば、こうすれば良い……ということも見えてきたりしますし、やれることも少しずつ見つかってくるものです。

例えば、ADHDで集中できない子がいるとしても、あらゆることに対して1秒も集中できない……ということはまずありません。本人が「自分にできそうだ」と感じられる課題なら15分程度なら集中できるかもしれません。観察によってその辺りを見極められれば(それこそ「現実」を受け入れることの1つです)、毎日15分練習をする……という目標設定をして、続けられるような工夫をすればいいのです。また、視覚化も本人の頭やスケジュ―ルを整理しやすくなる傾向があります。中学生くらいでも、シールや「よくできました」などのかわいい感じの判を押したりすることで「できたこと」を目に見える形で残してあげたり、日程を表にして色分けしたりすることで落ち着いたり、やる気を維持したりしやすくなる場合もあります。
 
他にも、学校では、学級の席は窓側や廊下側の後の方などでは気が散りやすいので、なるべく先生に近い前の席に置いてもらう方が本人は集中しやすくなる……というようなこともあります。それから、感情のコントロールが出来難くなりやすい傾向があるような場合は、教卓の下とか部屋の隅とか保健室など、本人が怒りの感情に支配された時にクール・ダウンできるようなスペースをうまく確保してもらうようにすることでトラブルが少なくなったりもします。
 
対応する側も感情的になってしまって大声で叱ったりすると余計に反発したり、逆に極端に萎縮してしまって何もできなくなってしまったりすることもあります。大人の側もすぐに対応を変えるのは難しいのですが、意識していくことで、あまり良くない対応が徐々に減っていきますし、それと比例して子ども本人も落ち着いてくる……ということにもなります。ですから、周囲の大人の側も、まず、自分の出来そうなことから意識して、続けられそうな対応をしていくことが大切です。そうしていくことで、少しずつ本人も周りも変わっていけるのではないかと思います。
 
また、出来ないことに時間をたっぷりかけて人並みにしようとするよりも、出来ないことはある程度までで諦めて、出来ることを伸ばしていくような形で接していくことも大切です。例えば、計算が苦手ならば、ある程度の基本的なことができるようになったら、後は「電卓を使っても良い」ということにして計算で苦しむ時間を少なくし、長所を伸ばしていくような「勉強」の仕方やスケジュールを考えてあげるような配慮は、本人のやる気を損ないませんし、また集中力や意欲も出てくると思います。精神的にも、将来のことを考えても、興味や長所を伸ばす工夫をしていけると良いでしょう。
 
それから、コミュニケーションがなかなかうまくいかない……という困り感がある場合、挨拶や対応などの基本的なことを【スキル】(対人関係の技術)として教え込む……というのも1つの方法です。挨拶をしてニコッとするだけで相手は悪い気はしなくて良い気持ちになるので挨拶が大事なんだ……と教えてあげる。あるいは、自分の思っていることばかりしゃべっていても相手にも都合があったり様々な感情があったりするのでトラブルになることがあるから相手の話をよく聞いてから自分が話すように心がけるとトラブルが少なくなる……というような形で話をしてあげる。そのような繰り返しの中で、本人が納得して心がけるようになれば、かなりトラブルも減ってくるでしょう。

また、仕事などでの優先順位を整理する(1人ではうまくいかない場合は家族や周りの人に手伝ってもらえるような体制を作る)ことや、食べること(料理と片付け)や身のまわりのこと(掃除や洗濯)に関わっての最低限の能力と習慣を身に付けるように訓練していくことも大切です。1人で全て完璧にするということではなく、苦手なものは苦手ななりに最低限のことはできるようにしておき、後はカバーしてもらう代わりに、自分の得意なことや優れている点を周りや社会のために役立てていけるような体制を作り上げることが大切です。全て世話してもらう、甘える……ということではなく、補ってもらいながらお互いに支えあって生きていけるようにする、ということなのです。
 
当然、職業選択についても、本人の「現実」(できること、得意なこと、苦手なこと)を良く考えた上で、集中してできそうなこと、続けられるような仕事を選ぶ必要があります。複雑な対人関係の中で進めなければならない仕事や、高度な対人スキルが必要なセールス系の仕事や、管理に関わるような仕事はあまり向いてない場合が多いでしょう。逆に、少数の分かってもらっている対人関係の中でできる仕事や、自然と関わるような仕事、独特の興味や関心、感覚を生かせるような仕事は本人に向いていることが多いのではないかと思われます。ストレス耐性の弱さを意識してサポートをしながら、お互いに支え、協力し合って生きていけるようにしていくことが大切であると言えるでしょう。

最後に、杉山登志郎さんの『発達障害のいま』での記述を参考に、発達障がいの診断上の新しい分類について紹介しておきましょう。アメリカのDSMという診断基準の近々出るであろう第5版(DSM-V)やWHO世界保健機関の作成している国際的診断基準(ICD)でも、以下のような形で整理されるとのことです。
 
 
第1グループ…精神遅滞、境界知能など
【精神遅滞】
標準化された知能検査でIQ70未満、それに加えて適応障害がある。
・幼児期に言葉の遅れ、歩行の遅れなど全般的な遅れがあり、学童期には学習は通常の教育では困難で学習の理解は不良。しかし感情の発達は健常児と同じである。青年期は特別支援教育を受けていない場合は学校への不適応がみられ被害者的な意識や思い込みが強くなってうつ病になることもある。
【境界知能】
標準化された知能検査でIQ70以上85未満。
・幼児期には若干の軽度の遅れが見られるだけだが、学童期には小学校中学年頃から学業成績が不良となりやすくばらつきも多い。青年期ではそれなりに適応する者が多いが、不適応が著しい場合は不登校などの形をとることも多い。第2グループ(自閉症スペクトラム)の併存症として認められることも多い。

第2グループ…アスペルガー症候群なども含む自閉症スペクトラム
【知的障害を伴った自閉症スペクトラム障害】
社会性の障害および想像力の障害がある。
・幼児期に言葉の遅れ、視線が合わない、親から平気で離れるなどの特徴が見られ、児童期になると様々なこだわり行動が確認できるようになり学校の枠の理解が不十分なため特別支援教育以外に教育は困難であるが、この頃から親子の愛着が進む。青年期では適応できる者はきちんとした枠組みの中であれば安定しているが、一方で激しいパニックを生じる場合もある。多動性行動障害や気分障害、てんかんなどの併存症が見られることもある。
【高機能自閉症スペクトラム障害】…アスペルガー症候群も含まれる
社会性の障害および想像力の障害があり、知的にはIQ70以上。
・幼児期に言葉の遅れ、親子の愛着行動の遅れ、集団行動が苦手といった特徴が見られ、学童期になると社会的状況の読み取りが苦手、集団行動の著しい困難、友人を作りにくい、ファンタジーへの没頭といった特徴が見られる。青年期では孤立傾向、限定された趣味への没頭、得手不得手の著しい落差といった特徴が見られる。併存症としては学習障害、発達協調性運動障害、多動、不登校、気分障害など多彩なものが見られる。
 
第3グループ…注意欠陥多動性障害、学習障害、発達性協調運動障害など
【注意欠陥他動性障害/ADHD】
多動、衝動性、不注意の特徴および適応障害がある。
・幼児期には多動傾向、若干の言葉の遅れがあり、児童期になると低学年における着席困難、衝動的行動、学習の遅れ、忘れ物など不注意による行動が見られる。青年期には不注意、抑うつ、自信の欠如、適応がうまく行かない場合には非行なども見られる。併存症としては、反抗挑戦性障害、抑うつ、非行などがある。
【学習障害/LD】
知的能力に比べて学力が著しく低く、通常の学習では成果が上がらない。
・幼児期は若干の言葉の遅れが見られることが多く、学童期になると学習での苦手さが目立つようになる。青年期になると純粋な学習障害の場合は、ハンディを持ちつつも社会的適応は良好な者が多い。併存症については、学習障害自体が様々な発達障害に併存して生じることが多い。
【発達性協調運動障害】
極端な不器用さが見られる。
・幼児期の特徴は不器用で他の障害に併発することが多く、学童期になると小学校高学年頃には生活の支障となるような不器用は改善される。青年期には不器用であるがそれなりに何とかなる。併存症としては、他の軽度発達障害との併存が多い。
 
第4グループ…子ども虐待
【子ども虐待】
子どもに身体的、心理的、性的加害を行う、あるいは必要な世話を行わない。
・幼児期には愛着の未形成、発育不良、多動傾向が見られ、学童期になると多動性の行動障害や徐々に解離症状が発現するようになる。青年期になると解離性障害および非行、うつ病などが見られ、最終的には複雑性PTSDに移行することもある。特に高機能自閉症スペクトラム障害に対する虐待は高リスクで、最も多い併存症は反応性愛着障害と解離性障害である。
 
 
 
脳科学の新しい成果などをベースに、発達障がいについての研究も飛躍的に進んでいます。そして、発達障がいが「大人になれば完治するものではない」ということが分かってきた現在、私たち1人ひとりが、そして私たちの社会全体が、どう発達障がいと向き合っていくかが問われています。学校現場でも、トラブルを避けようとするあまり、「個別指導という名の隔離」の形の対応をしてしまうケースがあります。それは、当事者本人の発達の機会ばかりでなく、周囲の子どもたちの関わる機会を奪ってしまう事にもつながりかねません。発達障がいとどう向き合い、どう共生していくのかが、今、まさに問われているのです。
 
いろいろと述べてきましたが、今、私が整理して伝えることができるのはこれくらいです。ただ、けっこう多くのことを述べてきましたので「あれも、これも…そんなにしなければならないのか」と感じた方があるかも知れません。しかし、大人ではあっても人間であり神様や仏様ではないので、1人であれもこれも完璧にしようと考えてしまってはすぐに疲れてしまい、やがて何も出来なくなってしまうでしょう。そのため、場所や相手を選ぶ必要はありますが、弱音を吐いても良いのです。
 
それに、完璧にできなくても、他の人たちがフォローしてくれるような形を作れれば問題はありません。だから、1人で抱え込んだり、一人でやらなければいけないし誰も分かってくれないというような考えを持って孤立しないことがとても大切です。自分で意識して出来ることを続けながら、他の人々といっしょにやっていければ良いと思います。
 
              【完】


2011年09月16日(Fri)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・高校中退や就労C
3、過程としての高校・高校中退と就労、そして発達障がい 
 
今、三重県でも就労状況は厳しく、特に南部に行けば行くほど、なかなか仕事が無い…というのが現状です。私の中学時代の同級生も、市内での仕事が無いために名古屋に出て行ったという人が何人もいますし、市内に住んではいても、毎日、片道1時間を越えるほど遠くの現場に働きに行っている人もいます。そんな中で、県の南部にある就労支援のNPOの話では、ハローワークで紹介してもらえる仕事で正規のものは勿論、常勤のものも派遣も含めて本当に少なく、パートやアルバイトばかりです。以前私が勤めた仕事場の人の話では、「配偶者がハローワークで仕事を探しているが、市内の仕事はなかなかない」とのこと。私の後輩も体調の問題があって転勤できないため仕事を辞めたのですが、1年以上経ってもいい仕事が見つからず、ハローワーク通いが続いているようです。
それでも、仕事を持ち、収入を得ることは、人間としての自立・成熟には必要となります。だから、仕事を持ってまとまった収入が得られ、暮していくことができればある意味では「高卒資格」など必要ありません。しかし、厳しい就労状況が続いている中では、「高卒資格」は「持っていて当然」というような見なされ方をする場合が圧倒的に多いのです。
 
一方、大学を出ていても就労できない……というようなケースもあります。かなりの有名大学であっても、人間関係でトラブルを起こしたり、うまく他者との関係が結べないような場合はけっこう就労が難しいことがあるのです。そのように、人間関係に問題を抱えている場合は、一足飛びに常勤の就労を目指すのではなく、無理の無い程度にパートやアルバイトで経験を積みながら就労時間を長くしていく取り組みが有効です。
先ほど出た、県南部の就労サポートNPOのスタッフの話によれば、就労に向けては最低限小学校5年生以上の能力・学力を身に着けていることが必要だ、とのことです。だから、不登校・ひきこもりが長引いて小学校5年生程度の読み書きや計算ができないような場合は、まず、その勉強からやり直さなければなりません。
 
そのNPOでは、学習のサポートなども行っていますが、その他にも就労の経験を積むための水耕栽培の施設の立ち上げ、サポート企業の開拓など様々な活動を行っています。けれども、人間関係の問題が大きい場合は、当然、そのためのサポートや訓練、人間関係の経験を積む活動に多くの時間を割くことになります。そこから始めなければならない、と思うと本人も家族もどうしても焦ってしまいがちです。けれども、基礎を積み重ねていく地道な活動を続けることが、長い目で見れば結局は早道であることが多いのです。
 
人間関係……ということに焦点を当てれば、発達障がい圏の生徒や若者たちは、良好な対人関係を結ぶのがなかなかうまくいかない場合が多いでしょう。ADHDにしろASなどの自閉症スペクトラムにしろ、それぞれ違ってはいても、対人関係がうまくいきにくい……というのは共通している特徴となっています。援助の仕方はそれぞれの今の状況によって異なってくるでしょうが、子どもたちの「現実」をきちんと受け止め、そこから「今できること」を積み重ね、未来への道筋を模索していければ良いのではないかと思います。
 


2011年09月15日(Thu)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・高校中退や就労B
2、発達障がいと不登校・ひきこもり、高校中退
 
冒頭で、不登校・ひきこもりの相談の場において「発達障がいかも知れない」と感じるケースがあることを述べました。何らかの発達障がいという条件があり、しかも周りに気付かれずに不適切な対応が続けられると、本人が意識しているかどうかは別として、周りから「困ったヤツ」と見られたり軽んじられたりし続けることが多くなります。そしてその結果、その言動や性格形成、精神的な成熟・成長にマイナスの作用がもたらされ、さらなる問題行動や精神的な疾患に至る場合が少なくありません。
 
例えば、やさしく分かりやすい記述でADHDについてまとめベスト・セラーになった『のび太・ジャイアン症候群』という本の著者である司馬理英子さんは、その著書の中でADHDが対応のまずさによっていじめや不登校にいたるケースが少なくないことを指摘しています。
 
司馬さんは、ADHDを多動性や衝動性が強く出る方のタイプを【ジャイアン型】、不注意が優勢でぼうっとしていて積極性の乏しい方のタイプを【のび太型】とニック・ネームをつけて分かりやすく説明しています。そして、【ジャイアン型】が環境の中で自己肯定感を失って他者への不信を増幅し、反抗的・攻撃的な行動パターンを繰り返していくと反抗挑戦性障害(大人にわざと逆らったり、周囲をわざといらだたせたりする行動を繰り返す)や行為障害(非行と見られる行動を繰り返す)といった人格障害に発展するような二次障害を引き起こし、いじめっ子になってしまうケースがあると言います。
 
一方、【のび太型】は引っ込み思案で攻撃に対しても言い返したり反撃したりできないためいじめられっ子になったしまうケースも少なくないようです。また、【のび太型】では普通の定形発達の子であれば不安を感じても自らを励ましながら乗り越えていく課題に足がすくみ、動けなくなってしまう形で不登校やひきこもりにいたったりする可能性があるということです。
 
他にも、【のび太型】【ジャイアン型】を問わず、集中力が続かないために練習量が不足して学習についていけなくなり、不登校へと至るケースもあるそうです。また、【ジャイアン型】で学校への不満や周囲に対する不満を問題行動や非行へとエスカレートさせてしまい、不登校へと至るケースもあるようです。(司馬理英子 『のび太・ジャイアン症候群』 主婦の友社 より)
 
加えて、ストレスに耐える力が、同年代の定型発達の子どもたちよりも弱いという特徴もあります。そのため、一般の子たちが何とか折り合いをつけられるような出来事であっても、発達障がい圏の子どもたちは深く傷付き、また立ち直るのによけいに時間がかかってしまう、というようなことになりかねません。そうした特徴も、普通の定形発達の子どもたちよりも不登校・ひきこもりになりやすい要因と言えるでしょう。
 
それから、中学校までは一応《義務教育》ですので、ほとんど出席しなくても…市町村に設置されている適応指導教室に通っているだけでも…「卒業」はさせてくれます。けれども、高校ということになると【単位】の取得が問題となります。何かのトラブルで深く傷付いたり、何らかの理由で学校へ行けなくなったりすると、それぞれの【単位】に必要な出席時数が足りなくなり、テストすらも受けられる資格を失って、その授業の単位を落としてしまうことになります。そして、多くの単位を落とせば当然、留年となる学校がほとんどです。(一部の単位制高校では「留年」については少し扱いが異なる場合があります。)そして、出席できない日々か3ヶ月とか半年とか続けばほとんど単位が取れなくなります。そうなった時には、一部の通信制高校等を除けば高校に在籍できる年限が決まっている場合がほとんどですから、高校中退や放校ということにもなりかねません。
 
発達障がい圏の子ども達/人々は、ストレス耐性の弱さゆえに、他の定型発達の子どもたちよりも不登校になりやすく、またそれゆえに高校中退をする可能性も高くなってしまうのです。そして、その挫折感が、たとえ表立ってはそう見えていなくても本人を深く傷つけているケースは多いでしょう。当然、プライドが傷付いて自己肯定感も低くなり、そのことが再チャレンジの敷居をさらに高くしてしまっている場合も少なくないと考えられます。
 
アスペルガー症候群(AS)の子どもなどでは、対人関係に困難さを抱えていても、その集中力ゆえに勉強の成績はけっこう良い場合もあります。テストの点だけなら、有名進学校や国公立・私立の有名大学に合格できるだけの点数を取っているケースは少なくないのです。それが、トラブルが引き金となって不登校になり、今まで行っていた高校を中退することになってしまった時、再度、別の高校にチャレンジしようとする意欲が高い場合も当然出てきます。
 
ただ、その際の学校の選択を点数だけでやってしまうと、不登校・高校中退を繰り返す可能性は高くなります。本人がどれだけ外に出て行けるのか、とかどれくらいの人数の人たちの間でなら居心地がそれほど悪くないのか、そういったことも考える必要があるのです。点数よりも、学校の雰囲気が本人に合っているのか……という点や、いざという時の学校や周囲のサポート体制の有無などにも注意して学校を選択する方が良いでしょう。
 
例えば、本人が普通に外に出て様々な活動が出来ている状態であれば、また、ショッピングセンターや映画館などの人ごみも特に気にならないのであれば、普通の自分の実力にあった高校を受験するという選択で良いと思います。人が多いということが多少気になるとしても、それ程不安や恐怖を感じることなく高校生活を過ごすことが出来るでしょう。そのように考えれば、少し慣れるまで時間がかかるだろうと覚悟をした上で普通の高校を選択する、という判断も悪くないでしょう。
 
けれども、本人が他の人との関係で不安が大きく、人が多いとかなりプレッシャーを感じるのであれば、そのプレッシャーの度合いに応じて、定時制や通信制を考えた方が良いでしょう。定時制や通信制高校の場合、学校やクラスの規模が一般の全日制高校よりも小さめですし、通信制では特に出席しなければならない日数も少ないので対人関係のプレッシャーは普通の全日制高校よりもずっと小さくなります。他の人との関係でのプレッシャーが多少なりとも小さくなれば、その分、高校生活は続けやすくなるでしょうし、高校を卒業できる可能性も高くなるでしょう。20人から30人程度の少人数なら強いプレッシャーを感じずに活動できそうであれば、夜間定時制(単位制)高校が続けやすい選択となるだろうし、その人数でもかなりプレッシャーだというのであれば、月に3~4回程度学校に行けばよいだけの通信制高校という選択が良いかも知れません。
 
ただ、通信制高校の場合は、締め切りに合わせて定期的にレポートを出していく必要があるので、レポートを完成するためのサポート方法も合わせて考えて置くと良いでしょう。1つの例としては、登校日でなくても学校に出かけて通信制高校の先生に指導を受けるという方法。勤務時間内であれば先生は教えてくれますし、「先生」という新しい他者と関係を作り、深めていく機会ともなります。また、塾や家庭教師などを利用するというのも本人が他者との関係を結ぶのに困難を感じないような相手や「場」として機能している、あるいは機能するような感じがある…というのであれば、それも1つの方法です。
 
それから、昼までなら何とかなるけれど、朝早くはどうしても起きることができない、というのであれば、定時制(単位制)高校の午後の部という選択肢もあります。午後の部だけの授業を取っていると卒業まで最低4年かかりますが、最近は午前の部や夜の部の授業も一部は取れる形をとっている定時制(単位制)高校が増えてきていますし、学校によっては通信制高校の単位も取れる制度が利用できるケースもあるので、そのような形でうまく単位を取っていけば3年で卒業することも可能です。
 
高校によってはアルバイト(夜間や通信の場合は仕事に就くこと)が認められる場合もあります。お金の問題、というだけではなく新しい人間関係を作っていくチャンス/練習ととらえることもできます。だから、無理のない程度に学校の勉強とのバランスを考えながら、アルバイトにチャレンジしてみることも、将来の事を考えればbetterではないか、と思われます。
 
それから、試験で単位を集めて高卒の資格をとり、大学に進んだり、専門学校に進んだりする、という選択もあります。試験に合格できるような学習を積み重ねていければ、「高卒」の資格を得る手段は別に問われませんから、これも一つの道です。ただ、学校ほどには他者との関わりは多くない場合がほとんどですから、対人関係の経験を積む機会は減少します。それは、その時点での対人関係に自信のない人には魅力ですが、他者と接する経験が積めないという面を考えれば、長期的にはデメリットの1つになる可能性はあります。
 
いずれにしても、高校はゴールではなく、通過点に過ぎない、ということを色々な意味で頭に置いておくことが大切でしょう。合格できればそれで良い、という訳ではありません。それに、将来、自立して家族と暮らしていければ、どんな形で高校を出ていようが関係ないし問題はない訳です。あるいは、それなりに自立して暮していける条件が整っているのであれば、必ずしも高校に行く必要はありません。そうした意味においても、高校は「通過点」なのです。


2011年09月14日(Wed)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・高校中退や就労A
1、発達障がいとは何か

最近、「発達障がい」という言葉を目にしたり耳にしたりする機会が多くなりました。私自身もカウンセリングの勉強の中で発達障がいについて何度も学びましたし、学習支援教員として発達障がい圏の子どもたちと実際に接したり直接指導したりするという経験も持っています。ところが、言葉そのものは現場ではそこそこポピュラーにはなっていますが、発達障がいについての社会一般の理解はそれほど進んではいません。
 
伊勢や志摩の行きつけの店で、お客さんと雑談していた時、「困った従業員がいて……」という話になったことがありました。よく話を聞いてみると、どうもADHD(注意欠陥多動性障害)やアスペルガー症候群(AS)の可能性があると感じたので、「他にこんな様子じゃないですか?」と言いながらそれぞれの特徴的な様子を話してみると「そうそう」とうなずくのです。そこで、その従業員は発達障がいの可能性があるので、このような対応の仕方をするとトラブルは少なくなり、その特徴を生かす部署につけられれば、会社にとってもプラスとなる可能性がある……という話をしました。また、学校の現場の様子からすれば、大体、1割程度は発達障がいの児童・生徒がいるような感触があるので、これからの企業経営は、彼らとどう共存していくか……ということも考える必要があるのではないか、という話もしました。
 
発達障がいの子どもたちはここ10年ほどの文献でも一割程度は存在していると書かれています。実際に学校現場で子どもたちと接しているとクラスに数人程度は発達障がいもしくはそのボーダーラインの少し上くらいにいる子ではないか……と思われる子はいますし、私自身の実感からしてもそれは増加傾向にあるようです。だから、ごく普通の日常的な仕事の中で発達障がいの傾向のある人たちと接する機会はあって当然なのです。
 
それでも、きちんとした知識を持って接すれば何でもないし、かえって発達障がいの人が、その対人関係面の不器用さと引き換えに持っている優れた能力を発揮して素晴らしい業績を上げる可能性もあるのです。ところが、それを知らずに接しているとお互いに嫌な思いをするし、内外でトラブルが頻発することにもなりかねません。加えて、アメリカなど制度として発達障がいをサポートするような社会になっている国々と比較して、日本は多くの面で遅れています。ようやく知的障がいなどの加えて障害年金に発達障がいが適応できるような改革もなされましたが、まだまだ認められるためのハードルは高いようです。結局、発達障がいの子どもや人々は、今の日本の社会の中では、まだまだ十分な支援が受けられるようにはなっていない現実があるのです。
 
では、発達障がいとは何なのか。心理内科医で『発達障害に気づかない大人たち』などの著作で有名な星野仁彦さんは『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』という最近の著作の中で、主な発達障がいを以下のようにまとめてくれています。


注意欠陥・多動性障害(ADHD)

・注意が散漫になりやすい、落ち着きがない、集中力がない、感情のコントロールがきかない、計画性がない、衝動的な行動を起こす
〔 感情のコントロールがききにくく活動的だが衝動性の強い、いわゆるジャイアン型と、集中力の維持が困難でぼうっとしているように見えることが多い、いわゆるのび太型など大まかに分けてもいくつかのタイプがある 〕
 
自閉症スペクトラム障害

・自閉症、アスペルガー症候群(AS)を含めた総称、根本的な障害が共通し、スペクトラム(連続性)があることから名づけられた。特徴としては、人の感情が理解できないため対人関係がうまくいかない、人との会話が成り立たない、コミュニケーション能力が乏しい、興味や関心を持つ範囲が限定的、こだわりが強い
〔 話をしている相手や周りの人たちの思いや感情、気持ちを想像して思いやる力が同年代の子どもや人たちよりも未熟で、言葉の裏にある真意や感情を感じ取ることが苦手であるために皮肉や比喩を言葉通りにストレートに受け取ってしまったりする傾向がある。自分の好きなことや興味のあることには素晴らしい集中力を発揮し、好きな教科の勉強では普通の同級生たちよりも優れていたりするが、対人関係や突発の出来事に際しての融通がきき難い傾向がある 〕
 
学習障害(LD)

・読む、書く、計算するなどの能力のうち、いずれかに支障をきたす
〔 話すことは普通にできるのに、極端に読めない、話したり読んだりはできても、なかなか文や文字を書けない、話したり読み書きは普通にできるのに計算はできない、あるいは非常に遅い…といった傾向が小さい頃からずっと続いている 〕
 
知的障害(精神発達遅滞)

・全般的な知的能力に遅れがある。
 
 発達性協調運動障害
 
・うまく走れない、ハサミが使えないなど、運動や手先の作業に困難をともなう
〔 手先の作業などが極端に不器用で、手足の連動したような動きや別々の動きがしにくく縄跳びなども苦手 〕
                           (波線と〔 〕は引用者)
 
      『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』 幻冬舎新書 p.14〜15
 

ただ、ここに列挙した説明を見ただけではピンとこない方も少なくないかも知れません。小さい子どもはだいたい落ち着かなかったり集中力が続かなかったりするものですし、普通の大人でも感情的な人は結構いるからです。けれども、発達障がいかも知れない…という判断は、同年齢の他の子どもたちと比べても落ち着きのなさや集中力のなさ、衝動性が際立っていて、その状態が成長していっても年齢に応じた改善があまり見られなかったりする場合は注意が必要です。また、こだわりが強すぎて融通がきかず、日常生活において相手との関係で極端にトラブルが多かったりする、といったような通常の定型発達の子たちとの比較において極端な差が長期にわたって目立つ場合に注意する必要がある、ということになります。
 
星野さんも指摘していますが、同じ「発達障がい」や「ADHD」という言葉でくくったとしても、それぞれのケースは人によってその差はまちまちで、複数の障がいを併せ持つ場合も少なくありません。ただ、感情のコントロールがし難かったり、授業中など常識的に考えれば集中しなければならない時にうまく集中できない(集中する「ふり」すらもできない)ような場面が多くみられたりします。また、相手の様子や表情から相手の思いや感情をうまく読み取れなかったりする、といったことからコミュニケーション能力に難があり、他者との関係をなかなか上手に結べなかったりするケースが多いようです。それに、普通の感覚では気にならないようなところで強いこだわりを示したりする場合も多いように思われます。
 
それから、聴覚や視覚的記憶などある種の感覚的な部分では一般の人々よりも優れている場合があります。優れているがゆえに他の子が聞こえない音が耳に入ってきたり、他の子が自然に無視してしまうようなことが無視できなかったりもします。そしてそのために他の人が無視しているところや無視できることにこだわってしまったり、逆に集中できなかったりして困ったりイライラしたりすることもあるようです。
 
過去においては、一部では普通の子たち以上に優れている面があったり日常のことはそれなりにこなしたりすることなどから、育て方(特に母親)が原因だとの誤解があり、家族や学校などから母親が責められることが少なからず見受けられたようです。けれども、最近の研究で、脳内の微細な傷や神経のつながり難さが原因らしいということが分かってきています。また、遺伝的な要因や環境ホルモンなどの影響なども指摘されています。
 
もちろん、遺伝がすべてではありません。置かれた環境によっては普通の人には出来ない素晴らしい仕事をする場合もあり、発達障害だから問題だ、ということではないのです。モーツァルト、ニュートン、ダーウィン、エジソン、アインシュタイン、チャーチル、ルイス・キャロル、エリック・サティ、太宰治などは今の診断基準であれば発達障がいの範疇に入ると考えられているようですし、俳優のトム・クルーズも文字を読む能力に問題を抱えているLDであるとのことです。
 
さらに星野さんは『発達障害に気づかない大人たち〈職場編〉』という著作の中で、大人の発達障がいの特徴について次のようにまとめています。

ADHD

ADHDを理解するうえで最も重要になるのは「不注意」「多動性」「衝動性」という3つの特徴です。
 
@不注意 ― 気が散りやすく、集中できない
 
不注意はADHDの中核的な症状です。気が散りやすく、1つのことに長い時間注意を集中できません。これは、脳の軽度の機能障害によって、目が覚めているときでも、自分の興味や関心のないことには覚醒レベルが低下して、注意散漫になってしまうためです。
 
具体的には
・会議の最中などにボーッとする/人の話を最後まで聞けない、自分の言いたいことだけを一方的に話してしまう/やるべきことをさいごまでやり遂げられず、何もかも中途半端になってしまう/忘れ物やうっかりミスが多い/仕事や雑務が計画的にできず、日課をこなすのが苦手/信号の見落としなどで事故を起こしやすい/機械や器具の操作ミスが多く、産業事故や労災事故につながりやすい
などの特徴があります。
 
A多動性 ― いつも落ち着きがなくソワソワしている
 
他動性の特徴を一言でいえば、「せっかちで、いつも何かしていないと落ち着かない」です。
 
このため
・長時間じっとしているとイライラする/用もないのにウロウロ歩く/すわっていても頻繁に姿勢を変えたり、手足を組み直す/貧乏ゆすりがひどい、指でコツコツ音を立てる/早口で絶え間なく一方的にしゃべる
などの傾向が見られます。多動傾向は、大人になるにつれてだんだん目立たなくなり、「何となく気ぜわしくソワソワしている」という別の形をとるようになります。
 
B衝動性 ― 後先考えずに思いつきでパッと行動してしまう
 
何か思いついたら後先考えずに行動し、失敗、トラブルなどを繰り返すのが衝動性の特徴です。命にかかわるなど、しばしば深刻かつ危険な影響を本人や周囲に与えます。
 
具体的には、
・キレやすく、些細なことで怒りが爆発する/TPO(時と場所、場合に合った方法)をわきまえた振舞いができない/そのときの思いつきや気分でパッと発言したり、行動したりする/その場にそぐわない”KY”(空気が読めない)発言をして顰蹙を買う/思ったことをすぐに口にするため、しばしば相手を傷つける/仕事でも突発的なミスを繰り返す/たびたび交通事故を起こす/ギャンブルや衝動買いに走りやすい/アルコール、タバコ、カフェインなどの嗜好に走りやすい/その場の雰囲気や勢いで異性と関係を持ちやすく、浮気や不倫が多い/唐突で無遠慮な言動から家庭内でもパートナーや子どものとのトラブルが多い/家庭内(夫婦間)暴力(DV : Domestic Violence)や児童虐待に走ることがあるなどが指摘できます
ADHDは、不注意、多動性、衝動性の現れ方によって@不注意優勢型A多動・衝動性優勢型B混合型の三つのタイプに分かれます。

広汎性発達障害(PDD)
広汎性発達障害(PDD)は包括的な概念で、そこには自閉症、高機能自閉症(HFPDD)アスペルガー症候群(AS)などが含まれます。中でもPDDを代表するのがアスペルガー症候群(AS)です。
 
ASには多動、不注意、衝動性、感情の不安定性、低いストレス耐性、対人スキル・社会性の未熟などADHDと共通する特徴があります。しかし、ADHDには見られない―あるいはADHDに比べてより顕著な―特有の問題もあります。ASを含むPDDには、英国の児童精神科医ローナ・ウイングは@社会性の問題Aコミュニケーションの問題B想像力の問題 という「三つ組の障害」があります。AS、ADHDとも人間関係では苦労しますが、ASは社会性の三つ組の障害を抱える分、より社会適応はむずかしくなります。
 
ASにはこのほか特有の症状として、感覚過敏・過鈍性の問題や協調運動(縄跳び、キャッチボールなど、体の複数の部分を同時に動かして一つの動作を行うこと)の不器用さがあります。
 
@社会性の問題 ― 人と親しくなる気がない
 
ASの人は深い人間関係を築くのが苦手です。ADHDも対人関係は不器用ですが、人と親しくなりたいという意欲はあります。それがうまくできないのがADHDです。
これに対してASは、そもそも人と親しくなりたいという意欲が希薄です。人とどう接すればいいか、人前ではどう振舞えばいいか、集団・組織においては何が大事かなど、普通であれば成長の過程で自然と身につくはずの社会性が著しく欠ける傾向にあります。
 
具対的な特徴としては、
・友人がいない/人と会話していても、視線をあまり合わせない/身振り、手振りの表情が乏しい/雰囲気や空気を読めないため、その場にそぐわない言動をとる/暗黙のルールがわからない/人と協調した行動がとれない/マナーや社会常識が身についていない
 などが指摘できます。
 
Aコミュニケーションの問題 ― 言葉のキャッチボールができない
 
ASの人は、自分の言いたいことだけ話して、相手の話には興味や関心を示しません。会話が一方通行で、言葉のキャッチボールが成立しないのです。
 
具対的な特徴としては、
・人の表情や態度、身振りなどから相手の気持ちをくみ取れない/会話の仕方は形式的で、同じ言葉の繰り返しや独特の言い回しをする/話し方に抑揚がなく、会話の間も取れない/話が回りくどく、細部にこだわる傾向が強い/話があちこちに飛ぶ/含みのある言葉や裏の意味がわからない/言葉の意味を字義通りに捉えるので、冗談やユーモアがつうじない
 などがあります。
 
B想像力の問題 ― 1つのことに強くこだわる
 
ASの人は想像力の欠如のため、新しいことには不安が強い一方で、自分の興味のあることに強いこだわりを持ち、極端にのめりこんで、マニアックにやりつづける傾向があります。この「過集中」と「こだわり」はADHDにも見られる傾向ですが、ASの場合はそれが特に顕著です。
 
それがプラスに出れば、無類の集中力につながりますが、マイナスに出ると、自らのこだわりに縛られてしまい、応用や融通がきかなくなってしまいます。
 
具体的には、
・興味や話題が限られ、範囲が狭い/特定の習慣や手順、規則、規律などに強くこだわる/変更や変化、予期せぬことを嫌う/突然、予定を変えられると不機嫌になったり、パニックになったりする/頑固な思考パターンで、柔軟な発想に欠ける/白か黒か、全てか無かの二者択一、完璧主義の思考になりやすい/融通がきかない/自分のやり方にこだわり妥協しない
 などの特徴が見られます。
 
C感覚過敏・過鈍性の問題 ― 感覚の異常で偏食になることもある
 
ASの人は聴覚、視覚、嗅覚、味覚、触覚に異常に敏感だったり、逆に鈍感だったりします。また気圧や温度の変化に過剰に反応する人もいます。
 
特徴としては
・味覚、嗅覚に過敏に反応するため、食物の好き嫌いが多い/人から触られることに異常に敏感である/痛覚が鈍く、自傷行為を繰り返すことがある/ある種の音を極度に嫌ったり、逆に好んだりする/自分の体がにおっていても気づかない
 などがあります。
 
D協調運動の不器用さ ― 縄跳びやひも結びなどが上手にできない
 発達障害では、スポーツや手先を使う作業などを苦手とする人が少なくありません。ASやPDDでは、その傾向が顕著な場合があります。

       『発達障害に気づかない大人たち《職場編》』 祥伝社新書 p.28〜41
 
 
これらは、あくまでも参考であり、小さい頃から発達障がいの特徴を示していたかどうかの確認なども必要で、専門家にきちんと判断をしてもらうことが大切です。そして、本人にしても周囲のサポートする人々にしても、発達障がいという現実を「受け入れ」「認める」ことから状況の改善に向けての道がスタートします。そして、サポートしてもらうことで状況を改善し、さらにその特徴を生かして周囲の人々や社会にプラスになるような活動や仕事が可能になっていくのです。



2011年09月13日(Tue)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・高校中退や就労@
 
はじめに 
 
登校・ひきこもりの相談の場で家族の方から話をうかがっていると、当事者の発言や行動の様子などから、もしかしたら何らかの発達障がいも関係しているのではないか、と感じることが時々あります。また、学校の現場の様子から、あくまでも個人的な感触ではありますが、発達障がい圏の児童・生徒が以前に比べて増加している傾向があるようにも思えます。そのため、去る5月29日にアスト津で発達障がいと不登校・ひきこもりについての話をしました。ただ、その際には内容的には小中学校の年齢までの話が中心で、高校や就労についての話はできませんでした。そこで今回は、発達障がいということをベースにおきながら不登校やひきこもりの問題と高校中退や就労について考えていくという形で前回述べられなかったところまで踏み込んでみたいと思います。
 
 


2011年06月11日(Sat)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・ひきこもり C
4、対応のポイント
 

 
さて、子どもが不登校やひきこもりの状態になった時、人間関係のトラブルが原因のひとつである可能性がありそうな時は、発達障がいの可能性もある、ということを心の隅に入れておく方が良いでしょう。その上で、「発達障がい」について知る努力をすると良いかも知れません。というのは、発達障がいではない不登校やひきこもりの子に対する対処方法として正しいことが、発達障がいの子にとっては不適切な対処となる場合もあるからです。一般の定型発達の子にとっては「心のエネルギーが弱まっている間は待つ」というのは適切な対応の1つです。けれども、それは本人が自由に決断するということにつながっているので、選択することや決断することが苦手なある種の発達障害の子にとっては混乱のきっかけになる可能性もあるのです。
 
そうしたことから、子どもの現実をよく見極めることも大切です。というのは、発達障がいといってもそのくくりは大まかなものですし、同じように「アスペルガー症候群」という診断を受けたとしても、子どもによって、その差は千差万別です。だから、今の時点で 子どもにどのようなことができて、何が出来ないのか、どんな時にトラブルをおこしやすくなるのか……というようなことを知っておくことも大切です。
現実をよく見極め、それを受け入れることは、言葉にするのは簡単ですが、けっこう難しいものです。以前、死と向き合うことをテーマにした話を聞いたことがあります。上智大学の教授であったアルフォンス・デーケンが、癌などの不治の病で死の宣告を受けた人の心の動きについてキュープラ・ロスの分析を紹介していました。自分の死という「現実」を前にして、多くの人はまず「なぜ自分はこんな運命に見舞われなければならないのか」と怒り、「そんなことあるわけが無い」と否認し、あるいは「まじめになる」とか「熱心な信者になる」といったような形で神や運命と取引しようとしたりするが、やがて現実を受け入れることにより心の平安を取り戻し、残りの人生を有意義に生きることができるというのです。ところが、キュープラ・ロス自身は、自分自身の死を前にして「受け入れる」ところまではいかず「怒り」の段階に留まったまま死を迎えた……というような話も聞いています。
 
自分の死……とまではいかないまでも、自分自身が発達障がいである……とか、自分の子どもが発達障がいである……という「現実」は、大人でも簡単には受け入れられない場合があります。また、受け入れるにはそれなりに時間も必要となる場合も少なくないようです。けれども、やはり「現実」を受け入れることで先に進むことが出来ます。それなりに、覚悟を決める/腹をくくる必要はありますが、それによって道も開けてくるものです。
 
さて、自分自身や子どもが発達障がいであることを受け入れることができれば、「本人の現実」を理解することが出来るようになってきます。その上で、得意なことや理解できること、苦手なことや限界(ここまでは出来るがこの先は難しい、あるいは非常に時間がかかって本人には負担が大きいというようなこと)を意識すれば、こうすれば良い……ということも見えてきたりしますし、やれることも少しずつ見つかってくるものです。
 
例えば、ADHDで集中できない子がいるとしても、あらゆることに対して1秒も集中できない……ということはまずありません。数学の計算問題の練習で1時間集中してやることは出来ないかも知れませんが、自分が「できそうだ」と感じられる問題なら15分程度なら集中できるかもしれません。観察によってその辺りを見極められれば(それこそ「現実」を受け入れることの1つです)、毎日15分練習をする……という目標設定をして、続けられるような工夫をすればいいのです。
 
あるいは、1人では集中できないならば、やっている間は大人(見守る人)が横にいてあげれば20分集中できるかも知れないのです。それから、実年齢よりも少し精神的に幼い感じがけっこうあるので、中学生くらいでも、シールや「よくできました」などのかわいい感じの判を押したりすることで「できたこと」を目に見える形で残してあげるとやる気を維持しやすい場合もあります。
  
他にも、学校では、学級の席は窓側や廊下側の後の方などでは気が散りやすいので、なるべく先生に近い前の席に置いてもらう方が本人は集中しやすくなる……というようなこともあります。それから、感情のコントロールが出来難くなりやすい傾向があるような場合は、教卓の下とか保健室とか、本人が怒りの感情に支配された時にクール・ダウンできるようなスペースをうまく確保してもらうことでトラブルが少なくなったりもします。
 
対応する側も感情的になってしまって大声で叱ったりすると余計に反発したり、逆に極端に萎縮してしまって何もできなくなってしまったりすることもあります。大人の側もすぐに対応を変えるのは難しいのですが、意識していくことで、あまり良くない対応が徐々に減っていきますし、それと比例して子ども本人も落ち着いてくる……ということにもなります。ですから、周囲の大人の側も、まず、自分の出来そうなことから意識して、続けられそうな対応をしていくことが大切です。そうしていくことで、少しずつ本人も周りも変わっていけるのではないかと思います。
 
また、出来ないことに時間をたっぷりかけて人並みにしようとするよりも、出来ないことはある程度までで諦めて、出来ることを伸ばしていくような形で接していくことも大切です。例えば、計算が苦手ならば、ある程度の基本的なことができるようになったら、後は「電卓を使っても良い」ということにして計算で苦しむ時間を少なくし、長所を伸ばしていくような「勉強」の仕方やスケジュールを考えてあげるような配慮は、本人のやる気を損ないませんし、また集中力や意欲も出てくると思います。精神的にも、将来のことを考えても、興味や長所を伸ばす工夫をしていけると良いでしょう。
 
それから、コミュニケーションがなかなかうまくいかない……という困り感がある場合、挨拶や対応などの基本的なことを【スキル】(対人関係の技術)として教え込む……というのも1つの方法です。挨拶をしてニコッとするだけで相手は悪い気はしなくて良い気持ちになるので挨拶が大事なんだ……と教えてあげる。あるいは、自分の思っていることばかりしゃべっていても相手にも都合があったり様々な感情があったりするのでトラブルになることがあるから相手の話をよく聞いてから自分が話すように心がけるとトラブルが少なくなる……というような形で話をしてあげる。そのような繰り返しの中で、本人が納得して心がけるようになれば、かなりトラブルも減ってくるでしょう。
 
また、子どもが小さい場合は、親が相手の子どもや親に、「こんな話し方をするけど悪気があるんじゃなくて、他の人の気持ちが分かり難いところがあるので許してあげて、気をつけてあげて」と声をかけたりフォローしたりすることで相手の様子や対応もずいぶん変わってきます。そんなサポートもしてあげられれば良いかもしれません。
 
いろいろと述べてきましたが、今、私が整理して伝えることができるのはこれくらいです。ただ、けっこう多くのことを述べてきましたので「あれも、これも…そんなにしなければならないのか」と感じた方があるかも知れません。しかし、大人ではあっても人間であり神様や仏様ではないので、1人であれもこれも完璧にしようと考えてしまってはすぐに疲れてしまい、やがて何も出来なくなってしまうでしょう。そのため、場所や相手を選ぶ必要はありますが、弱音を吐いても良いのです。
 
それに、完璧にできなくても、他の人たちがフォローしてくれるような形を作れれば問題はありません。だから、1人で抱え込んだり、一人でやらなければいけないし誰も分かってくれないというような考えを持って孤立しないことがとても大切です。自分で意識して出来ることを続けながら、他の人々といっしょにやっていければ良いと思います。
                                  【完】


2011年06月10日(Fri)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・ひきこもり B
3、教育の発想とカウンセリングの発想 
 
ところで、発達障がいにどう対応していくか、ということについてですが、実は、医療的な対応とカウンセリング的な対応、そして教育的な対応では微妙に考え方が違います。非常に極端な言い方をすると、医療的には「生きている」ことが目標、カウンセリング的には周りと「適応」できるようにすることが目標、教育的には高校にいける程度の「学力・能力」をつけることが目標……などということになるかも知れない、という事です。
 
どうサポートしていくか、という観点から見れば、「生存」も「適応」も「学力・能力」も、それぞれ大切なポイントだとは考えられますが、状況によって、医者とカウンセラーと教師の判断が違う……ということが出てくる場合があります。ただ、それは、それぞれの立場で真剣に対応しようとする結果でもある訳です。
 
例えば、フレネ教育の仲間が特別支援学校で生徒と関わっていた時の実践で、教師として「外」/色々な他者と関わっていける力を身に付けていって欲しい、という考えである程度自由に動ける子どもたちのクラスとほとんど寝たきりの子どもたちのクラスとの交流を積極的に進めようとしたことがありました。が、医療的な立場からは寝たきりの子どもたちの安全面を考えるとかなりの不安があったようです。そのため、当初はその実践に対して否定的な声も上がったそうです。それでも、教師は諦めず地道に本人たちやスタッフとの交流を進めていきました。そうして様々な形で交流が進められた結果、双方の子どもたちの感情の発達の面や心の教育の面で大きな効果があったようです。
 
それから、こんな例もあります。教師の側からすれば、先のことを考えれば「せめてこれだけのこと」はできるようになって欲しい……という思いから多くの課題を出して練習させようとしました。ところが、集中力が続かず、一度教えられたこともなかなか身に付かないような状態ではその課題の量がプレッシャーになり、精神的にしんどくなって、勉強や学校がいやになる……あるいは頭痛や腹痛などの症状が出てしまう、というようなケースが見られるのです。
 
悪意はなく、真剣にその子のことを考え、何とか良い方向に……と願っていても、その専門的な知識や立場によって、「ここまで」という目標設定は違ってくることがあります。だからこそ、様々な立場で接する人たちの連携の有無が大きなポイントになってくるのです。そのためには、親でも先生など周囲のサポートをする立場の人でも、1人で抱え込まないことが重要になります。孤立したまま悩まないで、SOSの声をあげるというのも大切なことなのです。
 


2011年06月09日(Thu)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・ひきこもり A
2、発達障害と不登校・ひきこもり
 
冒頭で、不登校・ひきこもりの相談の場において「発達障がいかも知れない」と感じるケースがあることを述べました。何らかの発達障がいという条件があり、しかも周りに気付かれずに不適切な対応が続けられると、本人が意識しているかどうかは別として、周りから「困ったヤツ」と見られたり軽んじられたりし続けることが多くなります。そしてその結果、その言動や性格形成、精神的な成熟・成長にマイナスの作用がもたらされ、さらなる問題行動や精神的な疾患に至る場合が少なくありません。
 
例えば、やさしく分かりやすい記述でADHDについてまとめベスト・セラーになった『のび太・ジャイアン症候群』という本の著者である司馬理英子さんは、その著書の中でADHDが対応のまずさによっていじめや不登校にいたるケースが少なくないことを指摘しています。
 
司馬さんは、ADHDを多動性や衝動性が強く出る方のタイプを【ジャイアン型】、不注意が優勢でぼうっとしていて積極性の乏しい方のタイプを【のび太型】とニック・ネームをつけて分かりやすく説明しています。そして、【ジャイアン型】が環境の中で自己肯定感を失って他者への不信を増幅し、反抗的・攻撃的な行動パターンを繰り返していくと反抗挑戦性障害や行為障害といった人格障害に発展するような二次障害を引き起こし、いじめっ子になってしまうケースがあると言います。
 
一方、【のび太型】は引っ込み思案で攻撃に対しても言い返したり反撃したりできないためいじめられっ子になったしまうケースも少なくないようです。また、【のび太型】では普通の定形発達の子であれば不安を感じても自らを励ましながら乗り越えていく課題に足がすくみ、動けなくなってしまう形で不登校やひきこもりにいたったりする可能性があるということです。
 
他にも、【のび太型】【ジャイアン型】を問わず、集中力が続かないために練習量が不足して学習についていけなくなり、不登校へと至るケースもあるそうです。また、【ジャイアン型】で学校への不満や周囲に対する不満を問題行動や非行へとエスカレートさせてしまい、不登校へと至るケースもあるようです。(司馬理英子 『のび太・ジャイアン症候群』 主婦の友社 より)
 
それから、ストレスに耐える力が、同年代の定型発達の子どもたちよりも弱いという特徴もあります。そのため、一般の子たちが何とか折り合いをつけられるような出来事であっても、発達障がい圏の子どもたちは深く傷付き、また立ち直るのによけいに時間がかかってしまう、というようなことになりかねません。そうした特徴も、普通の定形発達の子どもたちよりも不登校・ひきこもりになりやすい要因と言えるでしょう。



2011年06月08日(Wed)▲ページの先頭へ
発達障がいと不登校・ひきこもり@
はじめに 
 
不登校・ひきこもりの相談の場で家族の方から話をうかがっていると、当事者の発言や行動の様子などから、もしかしたら何らかの発達障がいも関係しているのではないか、と感じることが時々あります。また、学校の現場の様子から、あくまでも個人的な感触ではありますが、発達障がい圏の児童・生徒が以前に比べて増加している傾向があるようにも思えます。そこで今回は、発達障がいということをベースにおきながら不登校やひきこもりの問題について考えてみたいと思います。
 
 
1、発達障がいとは何か

最近、「発達障がい」という言葉を目にしたり耳にしたりする機会が多くなりました。私自身もカウンセリングの勉強の中で発達障がいについて何度も学びましたし、学習支援教員として発達障がい圏の子どもたちと実際に接したり直接指導したりするという経験も持っています。ところが、言葉そのものは現場ではそこそこポピュラーにはなっていますが、発達障がいについての理解はそれほど進んではいません。
 
先月もこんなことがありました。隣接する市内の行きつけの喫茶店のカウンターで紅茶を飲んでいた時、たまたまある会社の重役と話をしていたら、「こまった社員がいて…」という話になり、配置転換をした途端にトラブルが続出したというのです。もう少し詳しく話を聞いてみて、どうも発達障がいらしい特徴があると感じました。そこで、1人でもくもくとやる決まった仕事はとても丁寧でしっかりやれていなかったかを尋ねてみたら、配置転換の前はそういう仕事できちんとやれていた、という事でした。それが、営業の仕事に回った後、トラブルが続出したということだったので、その社員はアスペルガー症候群のような発達障がいの可能性があり、人間関係を調整するのが苦手である可能性が高いから、できれば元の配置に戻して能力の発揮できる仕事をさせれば本人にとっても会社にとってもプラスになる、という風に話をしました。

また、市内の行きつけのショット・バーでも以前話をしたことのあったお客さんに話しかけられ、少し会話をしているうちに「困った従業員がいて…」という話になりました。これまた詳しく話を聞いてみると、気は良いんだけど集中を持続して仕事を続けたり、資格取得のための勉強がなかなかうまくいかなかったり…ということでしたので、不注意方のADHD系の発達障がいの可能性かあるように思われました。そこで、そのような人たちに対する接し方としての注意やサポートの仕方について話をしました。

発達障がいの子どもたちはここ10年ほどの文献でも一割程度は存在していると書かれています。実際に学校現場で子どもたちと接しているとクラスに数人程度は発達障がいもしくはそのボーダーラインの少し上くらいにいる子ではないか……と思われる子はいますし、私自身の実感からしてもそれは増加傾向にあるようです。だから、ごく普通の日常的な仕事の中で発達障がいの傾向のある人たちと接する機会はあって当然なのです。
 
それでも、きちんとした知識を持って接すれば何でもないし、かえって発達障がいの人が、その対人関係面の不器用さと引き換えに持っている優れた能力を発揮して素晴らしい業績を上げる可能性もあるのです。ところが、それを知らずに接しているとお互いに嫌な思いをするし、内外でトラブルが頻発することにもなりかねません。
 
現在、発達障がいについては、サポートする施設や学校や当事者・その家族の間でこそ多少は理解され始めていますが、一般の人にはまだまだ理解が進んでいないのだ、ということを、私はこれらの体験から実感しました。ただ、学校や当事者、その家族の間でも十分理解されているか、ということについても、実際はかなり心もとない状況です。
 
例えば、一昨年でしたか、知人から連絡があり、知り合いの人が「子どもが、発達障がいだ」と言われたが、どうしていいか分からずに途方に暮れている…という電話がありました。そこでその後、その人にあって発達障がいについての説明をし、いくつかの気をつけることや、今後の対応などについて1時間ぐらいかけて詳しく説明をしてあげました。そして、このような例は、決して特別な例だとは言えないと感じられるのが現状です。

では、発達障がいとは何なのか。心理内科医で『発達障害に気づかない大人たち』などの著作で有名な星野仁彦さんは主な発達障がいを以下のようにまとめてくれています。


注意欠陥・多動性障害(ADHD)
・注意が散漫になりやすい、落ち着きがない、集中力がない、感情のコントロールがきかない、計画性がない、衝動的な行動を起こす
〔 感情のコントロールがききにくく活動的だが衝動性の強い、いわゆるジャイアン型と、集中力の維持が困難でぼうっとしているように見えることが多い、いわゆるのび太型など大まかに分けてもいくつかのタイプがある 〕
 
自閉症スペクトラム障害
・自閉症、アスペルガー症候群(AS)を含めた総称、根本的な障害が共通し、スペクトラム(連続性)があることから名づけられた。特徴としては、人の感情が理解できないため対人関係がうまくいかない、人との会話が成り立たない、コミュニケーション能力が乏しい、興味や関心を持つ範囲が限定的、こだわりが強い
〔 話をしている相手や周りの人たちの思いや感情、気持ちを想像して思いやる力が同年代の子どもや人たちよりも未熟で、言葉の裏にある真意や感情を感じ取ることが苦手であるために皮肉や比喩を言葉通りにストレートに受け取ってしまったりする傾向がある。自分の好きなことや興味のあることには素晴らしい集中力を発揮し、好きな教科の勉強では普通の同級生たちよりも優れていたりするが、対人関係や突発の出来事に際しての融通がきき難い傾向がある 〕
 
学習障害(LD)
・読む、書く、計算するなどの能力のうち、いずれかに支障をきたす
〔 話すことは普通にできるのに、極端に読めない、話したり読んだりはできても、なかなか文や文字を書けない、話したり読み書きは普通にできるのに計算はできない、あるいは非常に遅い…といった傾向が小さい頃からずっと続いている 〕
 
知的障害(精神発達遅滞)
・全般的な知的能力に遅れがある。
 
発達性協調運動障害
・うまく走れない、ハサミが使えないなど、運動や手先の作業に困難をともなう
〔 手先の作業などが極端に不器用で、手足の連動したような動きや別々の動きがしにくく縄跳びなども苦手 〕
                          (〔 〕は引用者)
 
      『発達障害を見過ごされる子ども、認めない親』 幻冬舎新書 p.14〜15
 
 
ただ、ここに列挙した説明を見ただけではピンとこない方も少なくないかも知れません。小さい子どもはだいたい落ち着かなかったり集中力が続かなかったりするものですし、普通の大人でも感情的な人は結構いるからです。けれども、発達障がいかも知れない…という判断は、同年齢の他の子どもたちと比べても落ち着きのなさや集中力のなさ、衝動性が際立っていて、その状態が成長していっても年齢に応じた改善があまり見られなかったりする場合は注意が必要です。また、こだわりが強すぎて融通がきかず、日常生活において相手との関係で極端にトラブルが多かったりする、といったような通常の定型発達の子たちとの比較において極端な差が長期にわたって目立つ場合に注意する必要がある、ということになります。
 
星野さんも指摘していますが、同じ「発達障がい」や「ADHD」という言葉でくくったとしても、それぞれのケースは人によってその差はまちまちで、複数の障がいを併せ持つ場合も少なくありません。ただ、感情のコントロールがし難かったり、授業中など常識的に考えれば集中しなければならない時にうまく集中できない(集中する「ふり」すらもできない)ような場面が多くみられたりします。また、相手の様子や表情から相手の思いや感情をうまく読み取れなかったりする、といったことからコミュニケーション能力に難があり、他者との関係をなかなか上手に結べなかったりするケースが多いようです。それに、普通の感覚では気にならないようなところで強いこだわりを示したりする場合も多いように思われます。
 
それから、聴覚や視覚的記憶などある種の感覚的な部分では一般の人々よりも優れている場合があります。優れているがゆえに他の子が聞こえない音が耳に入ってきたり、他の子が自然に無視してしまうようなことが無視できなかったりもします。そしてそのために他の人が無視しているところや無視できることにこだわってしまったり、逆に集中できなかったりして困ったりイライラしたりすることもあるようです。
 
過去においては、一部では普通の子たち以上に優れている面があったり日常のことはそれなりにこなすことなどから、育て方(特に母親)が原因だとの誤解があり、家族や学校などから母親が責められることが少なからず見受けられたようです。けれども、最近の研究で、脳内の微細な傷や神経のつながり難さが原因らしいということが分かってきています。また、遺伝的な要因や環境ホルモンなどの影響なども指摘されています。

もちろん、遺伝がすべてではありません。置かれた環境によっては普通の人には出来ない素晴らしい仕事をする場合もあり、発達障害だから問題だ、ということではないのです。モーツァルト、エジソン、アインシュタイン、チャーチル、太宰治などは今の診断基準であれば発達障害の範疇に入ると考えられているようですし、俳優のトム・クルーズも文字を読む能力に問題を抱えているLDであるとのことです。
 
とは言っても、実際にそのような子どもたちと接している家族にとっては、特に基本的な知識がない場合は「育てにくい子」と感じる場合は少なくないでしょう。また、学校で接する教師にとっても、「教えにくい子」と感じられる場面もそれなりにあることだと思われます。けれども、それなりに知識を得て、一般の定形発達の子どもたちにはOKでも彼らにはマイナスとなる対応を避けながら根気強く接していくと、根は優しく素直な性質を持っていることも多いので、独特の才能を開花していくことにもつながっていきます。
 
親として、家族として、悩みや混乱の真っ只中にいる人は今もたくさんいます。その中でどう対応して良いか分からなくなり、親としての自信を失ってしまうようなこともあるかもしれません。また、周りの無理解に遭遇すると、いやになってしまうことも時にはあるでしょう。それは、親自身の「現実」として当然あり得ることです。でも、本当に何も出来ないのか、というとそうでは無いはずです。とりあえず、出来そうなことを続けてみる…そしてその積み重ねが状況を変えていく。これは子どもたちばかりでなく、親や周囲のサポートする立場の人にも言えることなのです。
 


2011年03月01日(Tue)▲ページの先頭へ
ステップとしての高校と社会参加(講演原稿) E
これからの人間関係を広げ、深めるために 
  
高校受験が目前に迫っている時期ということもあり、高校がゴールでなく通過点である、ということを中心に今まで話をしてきました。では何の通過点なのでしょうか。それは、就労・社会参加をするための通過点であり、人生の通過点である、ということなのです。通過点である以上、当然、先は長いという事になるのですが、それでも、高校生活という時間そのものも自分の人生を豊かにするたくさんのものを与えてくれる可能性があります。高校生活の中で経験する様々なこと、先生など新しい人との出会い、新旧の友達との様々な体験や心の交流、それらが思いもかけず、その後の人生に様々な影響を与えます。だから、新しい環境になることを利用して、今までの自分の殻を破り、前向きにやっていこうとする気持ちを持つことがより豊かな出会いや経験を開いてくれます。
 
私が高校に入学した時、1年生だから後輩はもちろんいませんが、同級生にも先輩にも同じ中学校を卒業した人は1人もいなかったので、けっこう心細さを感じていました。それに、私自身、内にこもる傾向のある性格でしたから、自分から積極的に周りの生徒に声をかけることもなかなか出来ませんでした。それでも、3年間の間に何人かの親しい友達が出来ました。その連中とは、今でも一緒に酒を飲んで騒いだり、相談をしたりされたり、と温かな交流が続いています。突然、昼間の仕事が無くなって困った時に親身になって新しい仕事を探してくれたのはそんな高校時代の友人の中の1人でした。
 
私は、1人でいることが好きですが、中学や高校、大学の親友たちと共に過ごす時間もまた、大好きなのです。でも、私自身は、20代の終わり頃まで「自分は人間関係をつくったり深めたりするのは下手だ」と感じていました。それでも、友人達との関係に支えられてそれなりにコミュニケーションもこなせるようになり、今ではコミュニケーションや人間関係のことを書いたり、話をしたり出来るようになりました。友人達を含めた他者との時間を積み重ねた経験が、内向的でコミュニケーションが下手だった男を変えてくれたのです。今では、1人でお酒を飲みに行っても、すぐに他のお客さんとうちとけます。そして、そのような利害関係のない人との出会いが、思いがけないところで生きてくることもあります。私の離婚した妻が来日した直後に仕事を探していた時、仕事を見つけ、派遣ではなく正規の従業員となるように世話してくれたのは派遣会社の仕事をしていた飲み友達でした。
 
若い頃の私と同じように、いやそれ以上に、「自分はコミュニケーションが下手だ」と思い「人間関係は苦手だ」と感じている若い人は、もしかしたらけっこう多いかも知れません。その中には、この春の高校受験を考えている人もいるでしょう。
 
ただ、バスケット・ボールでたくさんシュート練習をすればシュートが入る確率が上がってくるのと同じように、コミュニケーションや人との関係の結び方も、経験を積む中でそれなりに上達してくるところがあります。加えて、学校は実社会ほど経済的な生々しい利害関係のない「場」であり、「結果」だけではなく「努力」もそれなりに考慮してくれるという、とてもありがたい「場」でもあります。また、損得を離れた様々な出会いも、多分、実社会よりも多いと考えられます。その意味では、コミュニケーションに多少失敗しても会社に損害を与える訳ではありませんし、気の利いた先生がいれば関係の修復をサポートしてくれたりすることもあるでしょう。
 
そのように考えれば、学校は「学習」の「場」であるけれども、コミュニケーションや人間関係を作る練習の「場」として使っても良いのです。高校という通過点を、そのように考え、自分自身の人間的成長と社会参加のためのコミュニケーションや人間関係の訓練として位置付け、将来のために活かしていく、という考え方も悪くないのではないでしょうか。機会を作る、そして機会を活かしていく……そんな機会の1つとして高校を考え、自分のために生かしていけると良いと思います。
 
                                  〔完〕


2011年02月28日(Mon)▲ページの先頭へ
ステップとしての高校と社会参加(講演原稿) D
今の「現実」と受験校選択、そして家族にできること 
  
では、受験する高校を選択するに際して、どのようなことに気をつけると良いでしょうか。受験する本人の学力はもちろん重要なポイントですが、集団に対するプレッシャーの有無や大小、現在のコミュニケーション能力、朝起きられるかどうか、といったことも頭に入れて、合格してから高校生活を続けていけるかをも含めて考えながら受験する高校を決定すると良いでしょう。
 
例えば、本人が普通に外に出て様々な活動が出来ている状態であれば、また、ショッピングセンターや映画館などの人ごみも特に気にならないのであれば、普通の自分の実力にあった高校を受験するという選択で良いと思います。人が多いということが多少気になるとしても、それ程不安や恐怖を感じることなく高校生活を過ごすことが出来るでしょう。そのように考えれば、少し慣れるまで時間がかかるだろうと覚悟をした上で普通の高校を選択する、という判断も悪くないでしょう。
 
けれども、本人が他の人との関係で不安が大きく、人が多いとかなりプレッシャーを感じるのであれば、そのプレッシャーの度合いに応じて、定時制や通信制を考えた方が良いでしょう。定時制や通信制高校の場合、学校やクラスの規模が一般の全日制高校よりも小さめですし、通信制では特に出席しなければならない日数も少ないので対人関係のプレッシャーは普通の全日制高校よりもずっと小さくなります。他の人との関係でのプレッシャーが多少なりとも小さくなれば、その分、高校生活は続けやすくなるでしょうし、高校を卒業できる可能性も高くなるでしょう。20人から30人程度の少人数なら強いプレッシャーを感じずに活動できそうであれば、夜間定時制(単位制)高校が続けやすい選択となるだろうし、その人数でもかなりプレッシャーだというのであれば、月に3~4回程度学校に行けばよいだけの通信制高校という選択が良いかも知れません。
 
ただ、通信制高校の場合は、締め切りに合わせて定期的にレポートを出していく必要があるので、レポートを完成するためのサポート方法も合わせて考えて置くと良いでしょう。1つは登校日でなくても学校に出かけて通信制高校の先生に指導を受けるという方法。勤務時間内であれば先生は教えてくれますし、「先生」という新しい他者と関係を作り、深めていく機会ともなります。また、塾や家庭教師などを利用するというのも1つの方法です。
 
それから、昼までなら何とかなるけれど、朝早くはどうしても起きることができない、というのであれば、定時制(単位制)高校の午後の部という選択肢もあります。午後の部だけの授業を取っていると卒業まで最低4年かかりますが、最近は午前の部や夜の部の授業も一部は取れる形をとっている定時制(単位制)高校が増えてきていますし、学校によっては通信制高校の単位も取れる制度が利用できるケースもあるので、そのような形でうまく単位を取っていけば3年で卒業することも可能です。
 
高校によってはアルバイト(夜間や通信の場合は仕事に就くこと)が認められる場合もあります。お金の問題、というだけではなく新しい人間関係を作っていくチャンス/練習ととらえてチャレンジしてみることも、将来の事を考えればbetterではないか、と思われます。
 
いずれにしても、高校はゴールではなく、通過点に過ぎない、ということを色々な意味で頭に置いておくことが大切でしょう。合格できればそれで良い、という訳ではありません。それに、将来、自立して家族と暮らしていければ、どんな形で高校を出ていようが関係ないし問題はない訳です。そうした意味においても、高校は「通過点」なのです。

親や家族の対応としては、本人の状況を頭に入れた上で、続けやすい選択ができるように相談にのり、1つひとつの小さなハードルを越える時にもしっかり励まし、支えてあげることを中心に考えていけば良いと思います。本人にして見れば、朝きちんと起きることや服装を整えることなども小さなハードルになっている場合もあります。当然、それを乗り越える過程では大人が思っている以上にエネルギーが必要となり、思いの他疲れるようなことも少なくありません。その際の不安や辛さを理解してもらえている、と実感できると新たなエネルギーも湧いてきます。親も人間ですから、総てを完璧にできる訳ではありませんが、親自身が続けてできることを積み上げていくことでできることも増えてくるものです。
 
そのためにも、親自身が信頼できる人や場を持つことも大切になります。グチをこぼせる場、安心して相談できる場、意見を交換できる場を持つことで、親自身も自分を見つめ直したり、協力し合えたりできるようになります。そのことで心の余裕も生まれてきますし、それが子どもの心や状態をキャッチするセンサーの感度の向上にもつながります。
 
それに、1人ではできることは少なくでも、分かり合い協力できる仲間どうしとして力を合わせることが出来れば、少しずつ周りを動かしていくことも出来るようになっていくでしょう。不登校・ひきこもりの親の会も、そのようにして各地で生まれ、社会に不登校ひきこもりの問題を認知させる力を持ったのですから。



2011年02月27日(Sun)▲ページの先頭へ
ステップとしての高校と社会参加(講演原稿) C
自分の現実との折り合い(2) 【対人関係面】

β、次に対人関係について考えてみましょう。
 
現時点において、対人関係に特に大きな問題を感じることがなく、普通に家庭教師と接したり、塾に通ったり、無理なく外出できるようであれば、この2月の時点で学校に出ていなくてもそれなりに手は打てるでしょう。また、高校に入学して、新しい環境の中で新たな人間関係を作っていくことも、多少のトラブルはあるとしても、対人関係に不安を抱える人に比べればそれほど困難は伴わないと思われます。

逆に、高校入試を考えるに当たって、対人関係の面で不安を抱えていると、学力面ではクリアできても入学後の高校生活が問題になります。受験校の選択に際して、本人は他の人との関わりについてあまり意識していない場合は少なくありません。今の時点で外に出られなくても、高校に合格すれば4月から何の問題もなく通える…と信じているケースはけっこうあるのです。確かに、中学時代とは環境がガラリと変わったことにより、高校に入ってからは何の問題もなく毎日学校に通える人はいます。けれども、きちんと入試の準備をして、入試に合格して高校生活に入っても、人付き合いの面での問題が大きい場合は高校入学以降に問題が噴出してくることがあります。せっかく合格しても、結局、他者に対する不安や恐怖心が大きくなって家から出られなかったり、何とか高校に通い始めたけれど何かのきっかけで行けなくなってしまい、そのまま休学や中退となったりするようなケースもあるからです。そのような場合は「また失敗した」という挫折感が尾を引き、入試前よりも状態が悪くなることもあります。

家族としか話が出来ない、あるいはお母さんだけ、お母さんと兄弟姉妹(あるいはそのうちの特定の誰かだけ)だけしか話が出来ないようでしたら、高校に入っても先生や同級生と関係を結んでいくことが出来にくく、ちょっとしたことがきっかけでまた通えなくなってしまうケースは少なくありません。それに、家族以外とはなかなか関係を結べない場合は、当然、新しい他者との関係には消極的になりますから、家庭教師や塾という形で学習面を補う手段は取り難くなります。また、何とか入試に合格し、高校に入学できても、対人関係の不安やトラブルが原因や直接の引き金となって、また高校に通学でき難くなっていくでしょう。

けれども、本人が自分自身の現実…他の人と関係を結ぶ力が弱いということ…をごまかしたり強がって否定したりせずに受け入れ、本気でそこから脱出したいと願うのであれば、家庭教師や塾も、対人関係を開いていくための機会やステップとなります。他の人たちと関係を結ぶ際の自分自身の課題にきちんと向き合えば、家庭教師との関わりや塾に通うことなども学習面を補うばかりでなく他者との関わりを結んだり深めたりする訓練の場ともなるからです。それに、そうした人間関係の面にも課題があると本人も家族も認識していれば、家庭教師や塾の先生にそれを伝えることで配慮もしてもらえるでしょうし、その中で学力面ばかりでなく対人関係の面でも経験を積んでいくことが出来ます。そして、高校に合格できれば、先生や同級生との関わりもまた、就業や自立に向けての対人関係の訓練や経験となるのです。

いずれにしても、高校入試に際して自分自身の学力面(志望高校に入学できるような点数が取れるかどうか)と対人関係面の両方の「現実」を考えて受験する高校を決定することが、通学や卒業のためには重要となるでしょう。



2011年02月26日(Sat)▲ページの先頭へ
ステップとしての高校と社会参加(講演原稿) B
自分の「現実」との折り合い(1) 学力面 
  
さて、「高校」が【目的】ではなく、通過しておかないと不利になる【条件】の1つである、ということを述べましたが、ゴールではなく通過点に過ぎないとしても、高校に入学し、卒業資格を手にするにあたっては、それなりにハードルもあります。それは、大きく分ければ、学力面と対人関係面ということになるでしょうか。

α、まず、入試をクリアする学力について考えてみましょう。

中学校を卒業するまでに不登校を経験している人には、それがどのような理由であったとしても、それなりの時間、学校での授業を抜けていることになります。ですから、単純に考えてもその分だけハンディがある訳です。当然、その分の学力面は、何らかの形で補わなければ、高校入学のハードルを越えることが困難である場合も出てきます。
ただ、高校入試につい考えれば、中学で学習する内容をすべての教科で100%理解している必要はありません。トップクラスの進学校に進むのでなければ、それなりの点を取れればけっこうその受験校の合格点には達するものです。
 
公立高校の入試において一教科でも0点を取るとかなりマズイですが、苦手な教科であっても5点なり10点なりは取れていて、しかも全体としてその高校の合格点に達していれば高校入試に合格できる可能性は高いのです。だから、私自身、高校入試に当たっては「3年生の学習内容は捨て、1,2年の内容の復習をしっかりやれ」という指導をする事も少なくありません。そして、今までの私の経験では、それを守って勉強した子で不合格になった生徒は1人もいません。
 
私の過去の経験で一番大変だったのは、中学校3年の2月から私のところに来て、一年生の英語の教科書と正の数負の数の計算から始めた子の例です。その子に対しては、知り合いを通じて事前に相談もあったので、その際に「せめて入試3ヶ月前に連絡してもらった方が良い」ということを伝えていたのですが、入試まで一ヶ月半となる時点まで決心がつかなかったようなのです。それでも、その子は腹をくくっていましたので、毎日の長時間の勉強と多量の宿題に耐え、3月の初めには中一の英語の教科書をざっと終え、数学も連立方程式の基本的な問題までは出来るようになっていました。当然、家でも必死で私からアドバイスされた勉強を続けていましたから、「こんなに勉強したことは今までなかった」と言ったほどです。それでも、何をどのように勉強するか…ということが自分自身でもイメージ出来ていたので、受験のためのハードな勉強を続けられたのです。そして、本当に何とかかんとか…という感じではありましたが高校入試で合格し、高校に進学することが出来ました。
 
そうした意味では、特に中学1年程度の学習内容までなら、本人の意欲と家庭の中だけの対応で学習面は何とかなる場合もあります。例えば、お父さんが理数系に詳しければ、数学の連立方程式なども教えられるかも知れないからです。けれども、中2辺りの学習内容になると、本人の努力と家庭の中での対応だけでは難しい場合が多くなってくるのではないかと思われます。私の姉も(学生時代は数学はけっこう得意だったのですが)、息子が小5の時に算数の宿題が分からず夜中に聞きに来た事がありました。小学校高学年でもそうですから、中学ではなおさらです。その場合、塾や家庭教師などで補えれば、少なくとも、レベルの高い進学校を除けば、高校入試のペーパーテストでそれなりに合格できる程度の点を取ることは不可能ではないでしょう。
 
その際に大切なポイントはどのように勉強していけば良いかという具体的なイメージが(家族や先生のサポートがあっても良いのですが)はっきりしている、という事です。あわせて、「勉強しなければならない内容すべて」を意識するのではなく、今日何をきちんと終わらせ、明日は何をしたら良いか、ということに意識を集中し、それを確実に遣り通す努力を続けることです。「勉強しなさい」と周りが口うるさく言っても、また本人が「勉強しなければ」と決意をしても勉強が続けられる訳ではありません。勉強を続けられる具体的なイメージを本人が頭に思い描ける、という事が大切なのです。それと合わせて、お父さんなりお姉さんなりといった家族の誰かが同じ部屋で資格所得などの勉強をしている…といったような環境があれば、そういうことも本人の励みになると思います。
 
ここで、ある程度各教科の勉強についても話をしておきましょう。
 
まずは数学について。公立の数学の入試問題の最初は基本的な計算問題になっています。問題は1年の正の数負の数の計算や文字式の計算が大体出題されていますから、それが出来れば、少なくとも数学で0点を取ることはありません。けれども、正の数・負の数の計算がよく分かっていないと計算問題も出来ない…ということになります。(もちろん、日常生活でもとても困ります。)そこで、正の数・負の数の計算や文字の式の計算を指導する際に、イメージしやすくするための道具として、私はよくトランプを使っています。

正の数を黒のカード、負の数を赤のカードで表し、例えば 8+(-9) という式を♠8 ♡9という具合にトランプを並べて表します。足し算(引き算も「項」という考え方で足し算に直る)の場合、色違いは数の大きい方から小さい方をひいた違いに大きい方の符号をつけ、同じ色の場合は数を合わせて、共通している符号をつける。

掛け算(割り算も分数の逆数の考え方で掛け算に直る)の場合は、色違いは数字をかけて−の符号をつけ、同じ色の場合は数字をかけて+の符号(普通は省略しているが、計算が身に付くまでは書くようにすると定着が早い)をつける…というように視覚的にやっていくと分かりやすい場合が多いようです。また、「項」という考え方を意識させるために式を+(たす/正の符号プラスではない)や−(ひく/負の符号マイナスではない)の前で式を切ると分かりやすい…というようにまとめてあげると、文字の式の計算で同類項の計算をする場合や方程式の移項の考え方も理解しやすくなります。

国語の場合は、教科書の音読(雑に読まず一語一語を明確に発音)や新聞のコラムや社説をまとめたり、読んだ感想を書いたりする練習をする…というような形の勉強法が漢字練習や問題集をする以外にもやりやすいと思います。文をまとめたり、感想を書いたりするのは「作品」としての読書感想文を作るのが目的ではなく、あくまでも読解の練習として位置づけ、書き終えたまとめや感想の出来を問題にしないように伝えれば、続ける際のプレッシャーは小さくなるでしょう。原稿用紙の使い方を覚えることも含め、ノートではなく原稿用紙を使うのも良いかもしれません。それから、書いたものをパソコンでタイプし直すことも文章や漢字の見直しや確認をする場合には非常に有効な手立てとなります。その方が自分の書いた肉筆原稿を自分で読みながら書き直すよりも本人にとって分かりやすくなり、また学習メディアを変えることにもなるので、学習意欲も維持できるのです。時間があれば、鉛筆などで書いてそれをタイプしなおし、また鉛筆などで清書する…ということを続ければ読み取る力と作文力の両方がつくようになるでしょう。また、読み取る力がついてくれば、理科や社会の教科書を音読するだけでも覚えられるようになっていきます。

英語については、英単語の意味とスペルを覚えるだけでもかなり違ってきますが、語順とbe動詞・一般動詞の知識を持っていると中一の範囲は特に分かりやすくなります。私はよく「英語は【主語】の部屋・《述語(動詞)》の部屋・〔その他〕の部屋に別れ、【主語】と〔その他〕が=となる場合はbe動詞になり、そうでない場合は一般動詞になる。〔その他〕の部屋はinやof、atなどの前置詞の手前のところでいくつかに分かれる場合があり、【主語】を訳してから、後から固まり順に訳していくときれいな日本語になることが多い」というような説明をします。I am 50years old. では「私 / I」=「50歳 / 50years old」ですが、「I like AKB48.」では「私 / I」と「AKB48」はまったく別の存在であり、それがBe動詞と一般動詞の違いになっていることが理解できれば、混乱は多少なりとも少なくなります。そういった文法的なことに合わせて音読CDなどを使いながら音読の練習を繰り返せば英語のリズムや発音にも少しずつ慣れていくと思われます。加えて、1年生の教科書に出てくる単語だけでもある程度覚えてしまえば、必ず点は取れるでしょう。

理科や社会は、総てではなく、例えば「生物」だけとか「歴史」だけというような形で得意なものや自分が勉強を続けやすいものに絞ってやれば、0点をとることはないでしょう。特に理科の生物や地学(天体や気候、火山活動と地震などの分野)や社会の地理・歴史・公民などは暗記していればそれなりに点が取れる場合が少なくありません。だから、自分が得意だったり覚えやすかったりするもの限定で丸暗記する、という勉強法もテスト対策としてはアリです。歴史はマンガ版もいろいろ出ていたりしますから、それに目を通しておおよその流れをつかんでから教科書を使って暗記したりする手もあります。その際にもやはり音読は黙読よりも記憶の効果は上がりやすいでしょう。学習心理学的に見れば、「目」だけでなく「口」と「耳」でも覚えるから…ということですが、自分なりにまとめることも、多少時間はかかる気はしてもそれゆえによく記憶していて忘れにくくなります。自分の頭をきちんと使って加工したり利用したりすることで頭の中に残りやすくなるしまた短い時間で思い出しやすくなるのです。



2011年02月25日(Fri)▲ページの先頭へ
ステップとしての高校と社会参加(講演原稿) A
先へ進む条件としての「高校資格」 
  
日本の経済は、まだまだ厳しい状況が続いていてなかなか先行きの希望が見えてこない、というのが、特に地方都市の一般生活者の正直な実感ではないか、と思われます。そんな中で、大人である親や中学校の先生たちの発想としては、「せめて高校ぐらいは出ておいて欲しい」という思いは、経済の状態が安定している時以上に切実になっているのではないでしょうか。それは、単なる大人の側からの見栄や押し付けではなく、今までそれなりに人生経験を積んできた大人として当事者の将来を考えた上での正直な思いでしょう。
 
不況が続く中、貧困が原因で高校を中退せざるを得ない高校生たちが全国規模で増えています。が、中退した後、パートやアルバイトも含めた仕事を見つけることが「高校生」という資格を失ったことで一層困難になる場合は少なくありません。その中での焦りや不安、ストレスと孤立化によって自暴自棄になり、犯罪などに手を染めるような若者も出てきます。逆に、ウツや精神的な症状が出て、重い場合には自殺に至ることもあります。それを知っている大人たちは「せめて高校だけは出て欲しい」という思いを強く持つのです。
 
けれども、子どもたちや若い世代の人たちの中には、なかなかそうした現実を実感できない人がけっこういます。中には薄々と感じている場合もあるでしょう。けれども、特にひきこもり状態が長引いているケースなどでは、家族が本人を守ることを最優先に考えた結果、意識的に現実から遠ざけている場合もあり、厳しい現実を認め、それに向き合うことがなかなか出来ない場合が少なくありません。
 
例えば、中学や高校の勉強や規則に縛られている生活に嫌気がさしていて、学校や教師に反発したり、校則違反や非行などの問題行動を繰り返したりして、「学校がウザい」と考えているタイプの子どもたちがいます。このような場合は、学校をやめて働けば、もっと好き勝手が出来るし自由になるだろうとぼんやりと考えている場合も少なくないのでしょう。けれども、学校をやめて学生/【高校生】でなくなった時点で、就職どころかアルバイトすらも探すのが大変で、時給などの収入も非常に低く抑えられてしまうシビアな現実を知ることになるのです。
 
あるいは、高校のクラスという「人の集まり」になじめずやめてしまうような場合もあります。が、人との関係づくりをことの他苦手として高校をやめてしまったり、中学校を出てひきこもってしまったりしたようなケースがそれに当たるでしょう。このような場合は、少数の人との人間関係づくりにも不安や恐怖を感じ、それが高じると外にも出られなくなったりします。そのようなケースでは、安定就労どころか短時間のアルバイトすらも敷居が高く、結局、家族に依存して暮らすことになります。
 
けれども、親がいつまでも若い訳ではないし、親が高齢化すれば収入も減少して、家族そのものが経済的・社会的に崩壊してしまうような場合も出てくるかもしれません。そうなってしまってからの就労や社会参加は非常に困難を伴い、問題がより一層深刻化してしまう可能性は一段と高まります。
 
現在の日本の社会は経済的に深刻な不況下にあり、しかも地方都市ではそれが大都市圏の何倍も厳しい状況です。私の同級生でも家族を地元において自分は大都市に働きに出ているケースがけっこうあります。それから、地元に住んでいても仕事のために片道一時間以上もかかる現場に早起きして通っていたりする者もいます。
 
しかも、国民の生存権を守るためのセーフティー・ネットが制度疲労をおこして上手く機能しないのに、小泉政権以降10年以上も、新しいセーフティー・ネットづくりは遅々として進んでいないような状況がずっと続いています。そのような社会の現実の中では、【高校】は就労し、社会に出て行くための重要なステップとしての意味が今まで以上に強まってきていると言えるでしょう。
 
もちろん、ずば抜けた才能があり、高卒の資格がなくても、その才能を活かして生活に必要な収入を得たり、普通の人々よりも高額の収入を得たりすることができる場合があることも事実です。けれども、そうして成功するだけの才能とチャンスに恵まれる例は少なく、割合からすれば、プロ野球の選手になる方がずっと楽でしょう。考えてみて下さい。現在、日本のプロ野球で活躍したり日本を飛び出してアメリカのメジャーリーグで活躍したりしている選手の中で、高校を卒業していない選手は1人もいないでしょう。中学や高校の部活で野球をしている生徒は全高校生のほんの一握りであり、さらに甲子園に出場するのはその中のごくごく一部です。その中でもプロ野球の選手となるのはさらに限られた人たちに過ぎません。けれども、プロ野球の選手名簿を見れば、そのすべてがいずれかの高校か大学を卒業しているのが分かります。それから考えれば、人数的にはプロ野球で活躍するような選手になるよりも東京大学に合格する方がずっと易しい…ということも言えるわけです。芸術家や小説家などでも同じようなことが言えるでしょう。そうしたことを考えてみても、今の日本で【高卒】の資格もなしに社会的に成功するのはプロ野球の選手になるよりも珍しいことであると同時に大変なことなのです。
 
だから、今の日本の社会でそれなりに生きていこうとすれば、【高卒】という資格はとても重要です。アルバイトも「高校生以上」という条件が自然についていることが多いですし、資格や技術を手にするために専門学校に通うことを考える場合でも【高卒】という資格が必要であるケースの方が圧倒的に多いのです。今の日本の厳しい社会情勢の中にあって、高校は、目的ではなく単なる通過点に過ぎません。そしてさらに言えば、それは「通過しておいた方が良い」というレベルではなく「通過していないと極端に不利になる」という風に考えておいたほうが良いレベルのものなのです。
 
その意味で、何らかの形で高卒の資格を得られる可能性があるならば、その道を模索する努力は、本人には勿論、家族や周囲の人にも大切です。ただ、努力の過程で他の道が見つかれば、必ずしも高卒の資格に固執する必要はありません。それはあくまでも【条件】の一つであり、何らかの形で人生を豊かにしてくれるような出会いや道が見えてくればそれで良いのです。ただ、何の努力もせずに、ズルズルと時を過ごしてしまうことだけは、避けたいものです。もちろん、エネルギーを溜めるために休むことは必要です。けれども休み続けて、結局、人生を無駄にすることのないように、自分自身と向き合い、成長していけるような生き方ができるようにすることが大切だと思います。



2011年02月24日(Thu)▲ページの先頭へ
ステップとしての高校と社会参加(講演原稿) @
2/20(日)の午後、アスト津での講演には30名近くの方が参加して下さいました。1時間の予定で話す内容を準備していたのですが40分しか時間がありませんでしたので、就業の問題についての部分が話せずに残りましたので、このブログに原稿をupしておきます。
 
ステップとしての高校と社会参加 
 
  
はじめに
 
 
現在、受験のシーズン真只中にあり、県内公立高校の後期選抜試験まで1ヵ月を切っています。不登校に悩む当事者・家族の皆さん、特に3月に中学や高校を卒業する人や一度は中退したけれど再度チャレンジしようと考える人たちにとっては、不安や悩み、ストレスがもっとも高まる時期ではないかと思われます。
 
高校は、確かに大切です。けれども、長い人生からすればたかだか3,4年程度の期間に過ぎません。それを考えれば、高校入学がゴールではなく、社会に出て仕事や役割を果たしながら自立し、人間的に成熟していくことの方がずっと大切です。ある意味では、高校を卒業していなくても、地域社会で働いて収入を得たり、様々な活動で社会参加をしたり、地域や家族との関わりの中で一定の役割を果たして自立出来ていればそれで十分だ、と言っても良いくらいです。だから、もしこの春の高校入試で失敗するようなことがあっても、それで人生が終わった訳ではないのだ、という事なのです。特に、自分自身を取り巻く厳しい現実から目を背けて甘い判断で受験した場合は、失敗する可能性は少なからずあります。もちろん、失敗すれば本人のショックは大きいでしょう。家族も少なからず衝撃を受けるかもしれません。けれども、その失敗を糧にして、困難を乗り越える力を身に付けることが出来れば、それは将来を切り拓くチャンスにつながっていきます。だから、高校入試にチャレンジすることの意味は大きいし、もし失敗しても周囲や家族がそれをチャンスに変えていくような経験にしていくようなサポートをすれば良いということになります。
 
それに、受験に成功すれば、新たな出会いもあります。高校という時期が受験での様々な関わりも含めて、人間関係を深めたり人間関係を広げたりするチャンスにもなります。そして、それらの人間関係がその後の人生において大きな意味を持つことになるかも知れないからです。英語のことわざに「まさかの友は真の友」というのがあるそうです。本当に辛く苦しい時に支えあえる関係が人生を豊かにするし、幸福にもするものです。
 
そのような意味で、この春を本人や家族にとって、どのような結果になっても意味のあるものになるように、手がかりとなるような話をしていければと考えています。
しかし、今の日本社会の状況からすれば、けっこう厳しい内容の話もしない訳にはいかない部分もあります。けれども、そこから今できること、これから続けられることのイメージを描き、毎日のステップを刻んでいくことができれば、それなりに道が見えてくるのでないかと私は考えています。今回は、そうしたことも含めて、あらためて高校受験について考えてみる機会を提供できればと思います。



2011年01月19日(Wed)▲ページの先頭へ
高校進学と社会参加 D
人間関係を広げ、深めるために
 
高校がゴールでなく通過点である、ということを今まで述べてきましたが、では何の通過点なのでしょうか。それは、就労・社会参加をするための通過点であり、人生の通過点である、ということなのです。高校生活の中で経験する様々なこと、先生など新しい人との出会い、新旧の友達との様々な体験や心の交流、それらが思いもかけず、その後の人生に様々な影響を与えます。だから、新しい環境になることを利用して、今までの自分の殻を破り、前向きにやっていこうとする気持ちを持つことがより豊かな出会いや経験を開いてくれます。
 
私が高校に入学した時、1年生だから後輩はもちろんいませんが、同級生にも先輩にも同じ中学校を卒業した人は1人もいなかったので、けっこう心細さを感じていました。それに、私自身、内にこもる傾向のある性格でしたから、自分から積極的に周りの生徒に声をかけることもなかなか出来ませんでした。それでも、3年間の間に何人かの親しい友達が出来ました。その連中とは、今でも一緒に酒を飲んで騒いだり、相談をしたりされたり、と温かな交流が続いています。
 
私は、1人でいることが好きですが、中学や高校、大学の親友たちと共に過ごす時間もまた、大好きなのです。でも、私自身は、20代の終わり頃まで「自分は人間関係をつくったり深めたりするのは下手だ」と感じていました。それでも、友人達との関係に支えられてそれなりにコミュニケーションもこなせるようになり、今ではコミュニケーションや人間関係のことを書いたり、話をしたり出来るようになりました。友人達を含めた他者との時間を積み重ねた経験が、内向的でコミュニケーションが下手だった男を変えてくれたのです。
 
若い頃の私と同じように、いやそれ以上に、「自分はコミュニケーションが下手だ」と思い「人間関係は苦手だ」と感じている若い人は、もしかしたらけっこう多いかも知れません。その中には、この春の高校受験を考えている人もいるでしょう。
 
ただ、バスケット・ボールでたくさんシュート練習をすればシュートが入る確立が上がってくるのと同じように、コミュニケーションや人との関係の結び方も、経験を積む中でそれなりに上達してくるところがあります。加えて、学校は実社会ほど経済的な生々しい利害関係のない「場」であり、「結果」だけではなく「努力」もそれなりに考慮してくれるという、とてもありがたい「場」でもあります。また、損得を離れた様々な出会いも、多分、実社会よりも多いと考えられます。その意味では、コミュニケーションに多少失敗しても会社に損害を与える訳ではありませんし、気の利いた先生がいれば関係の修復をサポートしてくれたりすることもあるでしょう。そう考えれば、学校は「学習」の「場」であるけれども、コミュニケーションや人間関係を作る練習の「場」として使っても良いのです。高校という通過点を、そのように考え、自分自身の人間的成長と社会参加のためのコミュニケーションや人間関係の訓練として位置付け、将来のために活かしていく、という考え方も悪くないのではないでしょうか。機会を作る、そして機会を活かしていく……そんな機会の1つとして高校を考え、自分のために生かしていけると良いと思います。
 
                                  〔完〕
*昨年「三重県・考える会」の会報に書いた「社会参加のステップとしての高校」に加筆したものです。


2011年01月18日(Tue)▲ページの先頭へ
高校進学と社会参加 C
自分の「現実」と受験校の選択
 
では、受験する高校を選択するに際して、どのようなことに気をつけると良いでしょうか。学力はもちろん重要なポイントですが、集団に対するプレッシャーの有無や大小、現在のコミュニケーション能力、朝起きられるかどうか、といったことも頭に入れて、合格してから高校生活を続けていけるかをも含めて考えながら受験する高校を決定すると良いでしょう。
 
例えば、普通に外に出て様々な活動が出来ている状態であれば、また、ショッピングセンターや映画館などの人ごみも特に気にならないのであれば、普通の自分の実力にあった高校を受験するという選択で良いと思います。人が多いということが多少気になるとしても、それ程不安や恐怖を感じることなく高校生活を過ごすことが出来るでしょう。そのように考えれば、少し慣れるまで時間がかかるだろうと覚悟をした上で普通の高校を選択する、という判断も悪くないでしょう。
 
けれども、人が多いとかなりプレッシャーを感じるのであれば、そのプレッシャーの度合いに応じて、定時制や通信制を考えた方が高校生活は続くだろうし、高校を卒業できる可能性も高くなるでしょう。20人から30人程度の少人数なら強いプレッシャーを感じずに活動できそうであれば、夜間定時制(単位制)高校が続けやすい選択となるだろうし、その人数でもかなりプレッシャーだというのであれば、月に3~4回程度学校に行けばよいだけの通信制高校という選択が良いかも知れません。
 
ただ、通信制高校の場合は、締め切りに合わせて定期的にレポートを出していく必要があるので、レポートを完成するためのサポート方法も合わせて考えて置くと良いでしょう。1つは登校日でなくても学校に出かけて通信制高校の先生に指導を受けるという方法。勤務時間内であれば先生は教えてくれますし、「先生」という新しい他者と関係を作り、深めていく機会ともなります。また、塾や家庭教師などを利用するというのも1つの方法です。
 
それから、昼までなら何とかなるけれど、朝早くはどうしても起きることができない、というのであれば、定時制(単位制)高校の午後の部という選択肢もあります。午後の部だけの授業を取っていると卒業まで最低4年かかりますが、最近は午前の部や夜の部の授業も一部は取れる形をとっている定時制(単位制)高校が増えてきていますので、そのような形でうまく単位を取っていけば3年で卒業することも可能です。
高校によってはアルバイト(夜間や通信の場合は仕事に就くこと)が認められる場合もあります。お金の問題、というだけではなく新しい人間関係を作っていくチャンス/練習ととらえてチャレンジしてみることも、将来の事を考えればbetterではないか、と思われます。
 
いずれにしても、高校はゴールではなく、通過点に過ぎない、ということを色々な意味で頭に置いておくことが大切でしょう。合格できればそれで良い、という訳ではありません。それに、将来、自立して家族と暮らしていければ、どんな形で高校を出ていようが関係ないし問題はない訳です。そうした意味においても、高校は「通過点」なのです。



2011年01月17日(Mon)▲ページの先頭へ
高校進学と社会参加 B
自分自身の「現実」との折り合い
 
さて、「高校」が【目的】ではなく、通過しておかないと不利になる【条件】の1つである、ということを述べましたが、ゴールではなく通過点に過ぎないとしても、高校に入学し、卒業資格を手にするにあたっては、それなりにハードルもあります。それは、大きく分ければ、学力面と対人関係面ということになるでしょうか。
 
中学校を卒業するまでに不登校を経験している人には、それがどのような理由であったとしても、それなりの時間、学校での授業を抜けていることになります。ですから、単純に考えてもその分だけハンディがある訳です。当然、その分の学力面は、何らかの形で補わなければ、高校入学のハードルを越えることが困難である場合も出てきます。
 
ただ、高校入試につい考えれば、中学で学習する内容をすべての教科で100%理解している必要はありません。トップクラスの進学校に進むのでなければ、それなりの点を取れればけっこう合格点には達するものです。高校入試において一教科でも0点を取るとかなりマズイですが、苦手な強化であっても5点なり10点なりは取れていて、しかも全体としてその高校の合格点に達していれば高校入試に合格できる可能性は高いのです。だから、私自身、高校入試に当たっては「3年生の学習内容は捨て、1,2年の内容の復習をしっかりやれ」という指導をする事も少なくありません。そして、今までの私の経験では、それを守って勉強した子で不合格になった生徒は1人もいません。
 
私の過去の経験で一番大変だったのは、中学校3年の2月から私のところに来て、一年生の英語の教科書と正の数負の数の計算から始めた子の例です。その子に対しては、知り合いを通じて「せめて入試3ヶ月前に連絡してもらった方が良い」ということを伝えていたのですが、入試まで一ヶ月半となる時点まで決心がつかなかったようなのです。それでも、その子は腹をくくっていましたので、毎日の長時間の勉強と多量の宿題に耐え、3月の初めには中一の英語の教科書をざっと終え、数学も連立方程式の基本的な問題までは出来るようになっていました。当然、家でも必死で私からアドバイスされた勉強を続けていましたから、「こんなに勉強したことは今までなかった」と言ったほどです。それでも、何をどのように勉強するか…ということが自分自身でもイメージ出来ていたので、受験のためのハードな勉強を続けられたのです。そして、本当に何とかかんとか…という感じではありましたが高校入試で合格し、高校に進学することが出来ました。
 
そうした意味では、特に中学1年程度の学習内容までなら、本人の意欲と家庭の中だけの対応で学習面は何とかなる場合もあります。例えば、お父さんが理数系に詳しければ、数学の連立方程式なども教えられるかも知れないからです。けれども、中2辺りの学習内容になると、本人の努力と家庭の中での対応だけでは難しい場合が多くなってくるのではないかと思われます。その場合、塾や家庭教師などで補えれば、少なくとも、レベルの高い進学校を除けば、高校入試のペーパーテストでそれなりに合格できる程度の点を取ることは不可能ではないでしょう。
 
その際に大切なポイントはどのように勉強していけば良いかという具体的なイメージが(家族や先生のサポートがあっても良いのですが)はっきりしている、という事です。あわせて、「勉強しなければならない内容すべて」を意識するのではなく、今日何をきちんと終わらせ、明日は何をしたら良いか、ということに意識を集中し、それを確実に遣り通す努力を続けることです。「勉強しなさい」と周りが口うるさく言っても、また本人が「勉強しなければ」と決意をしても勉強が続けられる訳ではありません。勉強を続けられる具体的なイメージを本人が頭に思い描ける、という事が大切なのです。それと合わせて、お父さんなりお姉さんなりといった家族の誰かが同じ部屋で資格所得などの勉強をしている…といったような環境があれば、そういうことも本人の励みになると思います。
 
それから、対人関係において特に大きな問題がなく、普通に家庭教師と接したり、塾に通ったり、無理なく外出できるようであれば、今の時点で学校に出ていなくてもそれなりに手は打てるでしょう。また、高校に入学して、新しい環境の中で新たな人間関係を作っていくことも、多少のトラブルはあるとしても、それほど困難は伴わないと思われます。
 
逆に、高校入試を考えるに当たって、対人関係の面で問題を抱えていると、学力面ではクリアできても入学後の高校生活が問題になります。受験校の選択に際して、本人はあまり意識しておらず、かつ入試の準備に際しても、合格して高校生活に入っていくに際しても、対人関係面の問題が大きい場合は高校入学以降に問題が噴出してくることがあります。せっかく合格しても、結局、不安や恐怖心が大きくて家から出られなかったり、何とか高校に通い始めたけれど何かのきっかけで行けなくなってしまい、そのまま休学や中退となるようなケースがけっこうあるからです。家族としか話が出来ない、あるいはお母さんだけ、お母さんと兄弟姉妹(あるいはそのうちの特定の誰かだけ)だけしか話が出来ないようでしたら、家庭教師や塾という学習面を補う手段は取り難くなります。また、何とか入試に合格し、高校に入学できても、対人関係の不安やトラブルが原因や直接の引き金となって、また高校に通学でき難くなっていくでしょう。
 
けれども、本人が自分自身の現実を受け入れ、本気でそこから脱出したいと願うのであれば、家庭教師や塾も、対人関係を開いていくための機会やステップとなります。対人面の自分自身の課題にきちんと向き合えば、家庭教師との関わりや塾に通うことなども学習面を補うばかりでなく対人関係の訓練の場ともなるからです。そして、高校に合格できれば、先生や同級生との関わりもまた、就業や自立に向けての対人関係の訓練や経験となるのです。
 
いずれにしても、高校入試に際して自分自身の学力面(志望高校に入学できるような点数が取れるかどうか)と対人関係面の両方の「現実」を考えて受験する高校を決定することが、通学や卒業のためには重要となるでしょう。



2011年01月16日(Sun)▲ページの先頭へ
高校進学と社会参加 A
先へ進む条件としての「高校」
 
日本社会の経済状況は、まだまだ厳しい状況が続いていてなかなか先行きの希望が見えてこない、というのが、特に地方都市の一般生活者の正直な実感ではないか、と思われます。そんな中で、大人である親や中学校の先生たちの発想としては、「せめて高校ぐらいは出ておいて欲しい」と切実に考えているのではないでしょうか。それは、単なる大人の側からの見栄や押し付けではなく、今までそれなりに人生経験を積んできた大人として当事者の将来を考えた正直な思いでしょう。
 
不況が続く中、貧困が原因で高校を辞めざるを得ない高校生たちが全国規模で増えています。が、辞めた後、パートやアルバイトも含めた仕事を見つけることが「高校生」という資格を失ったことで一層困難になる場合は少なくありません。その中での焦りや不安、ストレスと孤立化によって自暴自棄になり、犯罪などに手を染めるような若者も出てきます。逆に、ウツや精神的な症状が出て、重い場合には自殺に至ることもあります。それを知っている大人たちは「せめて高校だけは出て欲しい」という思いを強く持つのです。
 
けれども、高校に行ってない生徒たちは、なかなかそうした現実が見えていません。中には薄々と感じている場合もあるでしょうが、厳しい現実を認め、それに向き合うことがなかなか出来ない場合が多いのです。高校の勉強や規則に縛られている生活に嫌気がさしていて、学校や教師に反発したり、校則違反や非行などの問題行動を繰り返したりして、「学校がウザい」と考えているタイプの場合は、学校をやめて働けば、もっと好き勝手が出来るし自由になるだろうとぼんやりと考えている場合も少なくないのでしょう。けれども、学校をやめ【高校生】でなくなった時点で、就職どころかアルバイトすらも探すのが大変で、時給などの収入も非常に低く抑えられてしまうシビアな現実を知ることになるのです。
 
あるいは、高校のクラスという「人の集まり」になじめずやめてしまうような場合もあります。が、人との関係づくりをことの他苦手として高校をやめてしまったり、中学校を出てひきこもってしまったりしたような場合は、少数の人との人間関係づくりにも不安や恐怖を感じ、それが高じると外にも出られなくなったりします。そのような場合は、安定就労どころか短時間のアルバイトすらも敷居が高く、結局、家族に依存して暮らすことになります。けれども、親がいつまでも若い訳ではないし、親が高齢化すれば収入も減少して、家族そのものが経済的・社会的に崩壊してしまうような場合も出てくるかもしれません。そうなってしまってからの就労や社会参加は非常に困難を伴い、問題がより一層深刻化してしまう可能性は一段と高まります。
 
現在の日本の社会は経済的に深刻な不況下にありしかも地方都市ではそれが大都市圏の何倍も厳しい状況です。私の同級生でも家族を地元において自分は大都市に働きに出ているケースがけっこうありますし、地元に住んでいても仕事のために片道一時間以上もかかる現場に早起きして通っていたりする者もいます。しかも、国民の生存権を守るためのセーフティー・ネットが制度疲労をおこして上手く機能しないのに、新しいセーフティー・ネットづくりは遅々として進まない状況がずっと続いています。そのようなの中では、【高校】は就労し、社会に出て行くための重要なステップとしての意味が今まで以上に強まってきているのです。
 
もちろん、ずば抜けた才能があり、高卒の資格がなくても、その才能を活かして生活に必要な収入を得たり、普通の人々よりも高額の収入を得たりすることができる場合があることも事実です。けれども、そうして成功するだけの才能とチャンスに恵まれる例は少なく、割合からすれば、プロ野球の選手になる方がずっと楽でしょう。考えてみて下さい。現在、日本のプロ野球で活躍したり日本を飛び出してアメリカのメジャーリーグで活躍したりしている選手の中で、高校を卒業していない選手は1人もいないでしょう。中学や高校の部活で野球をしている生徒は全高校生のほんの一握りであり、さらに甲子園に出場するのはその中のごくごく一部です。その中でもプロ野球の選手となるのはさらに限られた人たちに過ぎません。けれども、プロ野球の選手名簿を見れば、そのすべてがいずれかの高校か大学を卒業しているのが分かります。それから考えれば、人数的にはプロ野球で活躍するような選手になるよりも東京大学に合格する方がずっと易しい…ということも言えるわけです。芸術家や小説家などでも同じようなことが言えるでしょう。そうしたことを考えてみても、今の日本で【高卒】の資格もなしに社会的に成功するのはプロ野球の選手になるよりも珍しいことであると同時に大変なことなのです。
 
だから、今の日本の社会でそれなりに生きていこうとすれば、【高卒】という資格はとても重要です。アルバイトも「高校生以上」という条件が自然についていることが多いですし、資格や技術を手にするために専門学校に通うことを考える場合でも【高卒】という資格が必要であるケースの方が圧倒的に多いのです。今の日本の厳しい社会情勢の中にあって、高校は、目的ではなく単なる通過点に過ぎません。そしてさらに言えば、それは「通過しておいた方が良い」というレベルではなく「通過していないと極端に不利になる」という風に考えておいたほうが良いレベルのものなのです。



2011年01月15日(Sat)▲ページの先頭へ
高校進学と社会参加 @
はじめに
 
今年も推薦入試なども含め、高校受験のシーズンが近づいてきました。不登校に悩む当事者・家族の皆さん、特に3月に中学卒業をする年齢にとっては、不安や悩み、ストレスがもっとも高まる時期ではないかと思われます。
 
高校は、確かに大切です。けれども、長い人生からすればたかだか3,4年程度の期間に過ぎません。それを考えれば、高校入学がゴールではなく、社会に出て仕事や役割を果たしながら自立し、人間的に成熟していくことの方がずっと大切です。ある意味では、高校を卒業しなくても、地域社会で働いて収入を得たり、様々な活動で社会参加をしたり、地域や家族との関わりの中で一定の役割を果たして自立出来ていればそれで十分だ、と言っても良いくらいです。
 
しかし、今の日本社会の現実からすれば、高校卒業の資格がないと、専門学校の選択肢が狭くなる、なかなか安定した仕事に就くことは難しい、といったような現実もあります。高校中退で何一つ資格を持たないような状況では、パートやアルバイトなどの不安定な仕事しか見つけられないことが多く、しかも不況の中でそんな仕事の求人さえも減っているという状況が、特に地方都市においてより悲惨な形で出てきているのです。
 
そこで今回は、そうした現実を踏まえた上で、あらためて高校受験について考えてみたいと思います。



2010年12月04日(Sat)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップ2010 C

四、ステップ…短期的課題(周囲の人々について) 
 
次に、当事者の家族やサポートをする周囲の人々の「ステップ」についても考えてみましょう。
 
先に述べたように、当事者の「ステップ」をサポートするように動けば良い、というのが基本ですが、家族や周囲の人に知識や外の世界と本人をつなぐ情報やネットワークを持っていれば、よりサポートは楽になります。そして、周囲の支えやサポートを受けて家族や当事者本人に接する人がある程度の知識を持ち、精神的に安定していれば、本人も安心して自分の当面の課題に取り組めるようになります。だから、当事者本人も大事ですが、お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに自分自身も大切にするようにしなければならないのです。
 
不登校や引きこもり問題に取り組むに当たって「子ども本人が1番傷ついている。だから、子どもを1番大事にしなければならない」と言われる場合があります。それは確かに正しいし、それを貫ける精神的な強さを親や周囲が持ち得ている場合はそれで良いでしょう。しかし、大人であっても、すべての人が精神的に強い訳ではありません。大人の側が、そうした「子どもが1番」を貫けない「弱さ」を残している場合も決して少なくない……というのが、親を始めとする大人の偽りの無い「現実」なのです。その意味では、自分の親や大人としての「弱さ」という「現実」を受け入れ、それから出発して、実行可能な「ステップ」を1つひとつ着実に刻んでいく……というのが、最も現実的な対応となります。
 
家族の誰かが不登校や引きこもりという状況になってしまった場合、それが数日や数週間、あるいは数ヶ月といった短い期間で改善する事は、実はあまり多くはありません。けれども、時間をかけてサポートを続ければ改善する可能性は高いし、その苦しみを乗り越えた当事者は精神的に大きく成長し、今までよりも強く、そして優しくなれるのです。
 
だから、本人の未来を信じ、息の長いサポートを続ける事こそが大事になります。逆に、親を始めとする周囲の大人たちが「本人が1番大事だから…」と、自分を殺して無理の多いサポートをしていると、結局は周りがすぐに燃え尽きてしまって息切れし、後が続かなくなるのです。サポートが消滅すれば本人の心もより不安定になるし、家族も含めた状況はより悪化する可能性が高くなります。その意味で、自分自身の弱さも含めた「現実」から出発する事は、自分のためというだけではなく、長い目で見れば当事者にとってもプラスになる事なのです。だからこそ、親や家族の1員である自分自身も大切にしなければならない、という事になります。もちろん、その際にはある場面・場面で当事者の要求と自分自身の「現実」とがぶつかり合う場合も出てくるでしょう。けれども、その中でお互いに折り合いをつけ、関係を良い方向に持っていく努力をする事は、当事者にとっても大切な経験となり得るのです。
 
そうした意味で、親や周囲の大人も「現実」を受け入れながら、続けられる努力を重ねれば良いと考えられます。そして、今の時点で行っている対応や努力が続けられない(あるいは非常に負担に感じる)ならば、それは、自分の「現実」をきちんと見つめきれていない可能性が高いという事です。そのような場合、実は話はあまり難しくはありません。もう1度「現実」を見つめ直せば良い、というだけなのです。
 
そしてその時には、すべてを1人で背負う必要はありません。他の家族や、信頼できる友人や知人・仲間にサポートをしてもらっても構わないのです。そうやって、「現実」を見つめ直せば、親や家族としての「自分」の新しい「ステップ」が見えてくるでしょう。それに合わせて、今の時点の努力を、長く続けられるものに修正していけば良いのです。
 
その際に、親や家族としての思いを伝えていく事も大切であるという事になります。それが、親としての自分・家族としての自分を大切にする事にもつながってくるのです。本人と自分、どちらかではなく両方ともが大切であり、自分にとっても当事者本人にとっても、自分自身とお互いの存在そのものがかけがえのない存在なのです。
 
しかし、そうした「思い」を伝える際には、解決を焦って《イベント》を企画しないように心がけた方が良いでしょう。何かをきっかけに状況が好転する事は確かにあるのですが、安易な「きっかけ」を周囲の大人の側が用意しても、当事者本人に見透かされたりして、返って状況が悪化する事も少なくありません。それよりも、日常的な努力の積み重ねの過程で起こる《アクシデント》が、本当の意味での「きっかけ」となる確率が高いのです。
 
サポートを地道に続けていけば、機が熟した時に《アクシデント》が起こる。その時を逃さずに、そうした《アクシデント》を当事者本人が自分の力で越えていけるようにサポートしてやる事が大切になります。例えば、今までがんばっていたお母さんが体調を崩して動けなくなったことがきっかけになり、当事者本人が動き出す、という例はよく聞きます。それは、体調を崩すというのは大人の側が意識的にそう仕向けた《イベント》ではなく《アクシデント》だからです。
 
その際に必要なのは「焦らずに待つ」という心の姿勢と、小さな事でも愛情を持って見守り続ける粘り強さです。このような努力と配慮を続けていれば、ゆっくりとでも、確実に歩みは進んでいきます。それを信じて、自分の能力・体力・時間の可能な範囲で続けられる事をしていけば良いだろうと思われます。
 
とは言っても、地道に努力を続ける事は確かに苦しいものなのです。けれども、正しい努力を続けていれば、必ず、手を差し伸べてくれる人が出てくるということは、実は、経験的にも数多くの例があるのです。確かに、今もまだ、苦しく辛いかもしれません。しかし、この文章を読んでいる人には、少なくとも1つ以上は、共に考え、サポートしてくれる人や「場」が存在している筈です。10年前にはなかったけれど、今は存在する「場」も、いくつかあるでしょう。その意味では、環境も少しずつ変化してきているのです。小さな努力でも、それを積み重ねていけば、いつの間にか出来るようになっている事があります。
 
「ぼちぼちいこか」
 
この言葉を、私のこの小文を読んでいただいたすべての方に贈りたいと思います。

〔完〕 


1 2 3    全82件


【サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】は、事務局の浜口が、【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)の世話役をしていたところ、「伊勢志摩にも家族会を!!」という声が上がったため作られたものです。


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浜口 拓/志摩市志摩町片田で小中高15校20年の経験とフレネ教育やカウンセリングの知識を生かした《浜口塾》を開いています。教育相談にも応じます。また文学活動などもしています。よろしければ【TAC雑想記】 【TAC文芸樹】のblogも覗いて下さい。

カレンダ
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