不登校・ひきこもり

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会

2008年07月17日(Thu)▲ページの先頭へ
不登校研究会シンポジウム
不登校研究会シンポジウム
 
テーマ : みんなで不登校の子どもの支援を考えよう ! 
日時 : 2008年10月26日(日) 9:30〜11:30

開場 : 三重大学
 
・三重県下で不登校の児童生徒の心理的支援や学習支援を行っている人々が集まり、各組織の現状と連携を視野に入れて、皆で不登校の子どもの支援を考えましょう
 
シンポジスト
 森川 泉(三重県教育委員会研修企画・支援室教育相談グループ副室長)
 石山佳秀(三重シューレ代表)
 山川 中(三重県立伊勢まなび高校教頭)
 浜口 拓(三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会世話人)
指定討論
 小野昌彦(宮崎大学大学院教育学研究科教職実践開発専攻教授)
 
参加費 : 無料  申し込み : 不要

問い合わせ先
 三重大学教育学部附属教育実践総合センター
 学校臨床心理学研究室 岡田珠江
 
主催
 全国教育実践総合センター不登校研究会
 三重大学教育学部附属教育実践総合センター
 
共催
 三重スクールカウンセリング研究会
 
後援
 三重県教育委員会


2008年06月19日(Thu)▲ページの先頭へ
不登校とひきこもりを考える…生涯発達の視点からB
不登校とひきこもりを考える
 
…生涯発達の視点から…
  
2、大人の発達の「危機」としての不登校・ひきこもり
 
 
周囲の大人にとっても、子どもたちや若い世代に対する様々な支援は、大人として成熟する際に大切なこととなります。家計を経済的に支えるというのはもちろん大事ですが、子どもや若い世代を支援し、彼らが成長し、自立していくのを支える役割も大人にはあるのです。
 
不登校やひきこもりが家庭内で大きな問題となった時、当事者とその家族にとっては、他のところでの地震や津波や台風などの大災害や内閣や首長の交代、大企業の倒産などの大事件以上の大事件です。当然、無意識でそんな「現実」を受け入れたくないという思いが「犯人探し」を行うようなことも起こります。
 
原因を考えてそれを取り除くための努力は確かに必要です。けれども、大人としての自分自身の「責任逃れ」に通じるような「犯人探し」は家族をバラバラにして家庭の環境をさらに悪化させる原因にもなりかねません。実は、見方を変えれば、自分自身が「大人」として、きちんと次の世代を育てる役割を果たしてきたか…を人生の中で問いかけられている、とも言えるのですが、そうした人生の課題にきちんと向き合えず、「現実」から目をそらしてしまうと「犯人探し」をしてすべての責任を「犯人」に押し付け、自らの責任をうやむやにしようという「反応」を無意識的にしてしまったりするのです。
 
その際に、まず母親が家族や親戚の非難を浴び、孤立するような場合を少なからず見かけます。けれども、母親だけが子どもを育てる責任があるわけではありません。家族が父親としての役割、母親としての役割、祖父母としての役割などを果たしながら子どもを支えていくことで、子どもは次の次代を担う大人として成長していけるのです。
 
その意味において「お前が悪い」ではなく「一緒に何とかしていこう」という思いが家族の中に広がり、それぞれの大人が自分の役割を考えながら協力して支え合っていける形が作られていくと家庭内での環境は大きく変わっていきます。そしてそれは、それぞれの大人にとっても、自分を成熟させていく機会となり得るのです。
 
当然、父親としての支え方と母親としての支え方は異なりますし、祖父母の支え方もまた親の世代とは違ったものとなるでしょう。また、親戚として、あるいは教師や友人としての支え方もあるでしょうし、直接当事者に関わらなくても、直接関わっている人々を支えるという形の支援もあります。自分の位置や役割を見つめ直し、可能な範囲で支え続ける…というのが大人の役割であり、それができることが大人として相応に成熟しているという証しになると考えられます。
 
そして、いずれの立場であっても、今、目の前にある現実を受け入れ、状況を改善するために自分ができることを考え、実行する……単発のイベント的な努力の形ではなく、続けていく、ということが大切ではないかと思います。無理なく続けられる努力が、自分自身の発達・成熟をうながします。小さなことでも、続けること、積み重ねることが、自分自身の自信や関係する人達からの信頼につながっていきます。それを信じて、努力を続けていければ…と思います。
 
                          〔完〕
 


2008年06月18日(Wed)▲ページの先頭へ
不登校とひきこもりを考える…生涯発達の視点からA
不登校とひきこもりを考える
 
…生涯発達の視点から… 
 
 
1、少年期・青年期の「危機」としての不登校・ひきこもり
 
 
不登校やひきこもりの問題を、生涯発達という視点から考えてみると、その当事者については児童期や青年期の発達過程の「危機」において関係性などの問題からつまずいてしまっている状態であるとも言えるでしょう。ただ、人間の一生というサイクルで考えれば、学校に通う時期はそれ程長い時間ではありません。長い目で見たときに、家族と共に地域で生活できる状態になれば、学校に行けなかったりした事や、一時の間、他者との関係をうまく結べなかった事などは、それ程問題視する必要はないのです。
 
ただ、問題をこじらせてしまってひきこもりの状態が長期化すると、特に家族に大きな負担がかかりますし、本人としても成長・成熟へと至らずに足踏みし続けているマイナス面も大きくなるでしょう。だから、支援できる環境を整えながら、長期化しないように努力を続けることが大切になります。
 
私自身の経験や、日常的に不登校を経験した子どもたちと接している複数の先生方のお話から、不登校やひきこもりの経験を持つ子どもたちや学生、若者たちの中には、人間関係を結ぶのを苦手としている場合が少なくありません。そして、必ずしも不登校やひきこもりに至らないまでも、人間関係を結ぶのを苦手としている子どもや若者たちは、思いの外多いように見受けられます。その意味において、人間関係を結ぶ能力の問題は、現代の子どもや青年たちにとって非常に重要な発達課題と言えるかもしれません。
 
人間関係を結ぶ際の鍵を握るのはコミュニケーション能力です。現代の日本は、環境としては、ハード面はとても便利になっています。インターネットや携帯電話によって、個別のコミュニケーションを結ぶことも、匿名で不特定多数とコミュニケーションをすることも可能な世の中になっています。けれども、それによって失われてしまった機会もあります。
 
例えば、昔はガール・フレンドの「家」に電話をかけるために、本人だけではなく、その両親や家族とコミュニケーションをとらなければなりませんでした。それは、電話をかける側からすれば大変なプレッシャーでしたが、その結果、世代や年齢の違う相手と電話で話をする訓練にもなりました。けれども、確実に個人が出ることが期待できる携帯電話では、プレッシャーはないけれども、世代や年齢の違う相手と突然コミュニケーションをするような機会は失われます。そうしたことが積み重なれば、コミュニケーション能力が低下するのは、ある程度仕方のないことなのです。
 
もちろん、コミュニケーション能力だけが問題なのではなく、現代の青年期にも自立の問題をはじめとするさまざまな発達課題があります。それに、社会の変化によって、良くなった条件や、悪くなった条件など、環境も変化しています。若い世代は、その環境の中で、自分を成長させていかなければならないのです。
 
それでも、コミュニケーションの問題は非常に重要であることは確かです。が、それを向上させるには、やはり信頼できる「場」、安心できる関係の中で自分の考えや思い、感情を発信し、かつ、それをきちんと受け止めてもらえるという実感が必要です。家庭や、友人たちとのつながり、あるいは好きなことや楽しんで続けられる活動の中でそうした「場」や関係を作っていければ、それは今後の人生において、宝物となります。
 
けれども、人との関係に苦手意識を持つ場合は、ついつい「苦手」だから……としり込みしてしまいがちになります。しかし、話すのに多少失敗したって、それを理由に全面的に人を嫌ったり、無限に攻撃の対象にしたりするような人間はめったにいません。その意味では、自分の方から一歩踏み出す勇気が状況を変化させることにつながります。例えば、「こんにちは」と言って微笑むだけで、知らない相手であっても「私はあなたの敵ではありません」というメッセージを送っているようなものです。その繰り返しは、お互いの安心感を育み、心を近づけていくことにつながります。近所の人と笑顔で挨拶を交わすだけでも、そんな効果があるのです。
 
安心感が積み重なっていけば、いろいろなことが話せるようになり、それがまた、安心感を深めていきます。共通の趣味があったり、良く似た考え方や感じ方をしていたりすることが分かれば、お互いに過ごす時間はだんだん長くなり、それが積み重なっていけば、本当に親しい関係や安心して過ごしやすい「場」ができあがります。人間関係を結び、深めていくためには、そのような時間と努力が必要なのです。
 
ただ、そうは言っても、「どうしたら良いのか分からない」「自信がない」という場合は当然あるでしょう。そんな時にコミュニケーションの技術(スキル)というものが手助けになります。最近は、本屋さんに行けば、話すことや聞くことなどコミュニケーションのスキルに関する本はけっこうたくさん出ています。また、それをテーマにした講演や講座などもあります。それらの中で、自分がとりあえず実行しやすいようなもの・続けやすそうなものを参考にしながら、少しずつコミュニケーションの機会を増やし、経験を積んでいけばいいのです。
 
それに、すべてを1人で背負い込む必要はありません。誠実に対応していれば、必ず自分の周りに自分を支えてくれる友達や年長者を見つけることが出来るでしょう。そうした人たちとの関係を大切にし、支えてもらったり、支えあったりしながら生きていけば、人間として成長・成熟していけるはずです。
 


2008年06月17日(Tue)▲ページの先頭へ
不登校とひきこもりを考える…生涯発達の視点から@
不登校とひきこもりを考える

…生涯発達の視点から…
 
 
はじめに 
 
 
不登校やひきこもりの問題とけっこう長く関わってきましたが、最近、久しぶりに生涯発達心理学を勉強する機会があったので、人間のライフ・サイクル/生涯発達の視点から、不登校・ひきこもりの問題についてあらためて考えてみようと思いました。
 
以前は、発達と言えば、子どもや青年の問題であり、大人になってから「発達」という観点で能力の向上を見直すようなことはありませんでした。けれども、エリクソンの唱えたアイデンティティーや自己実現の問題や、高齢化社会が進むにつれて「人生」やライフ・サイクルを考える状況が広まってくる中で、生涯発達という考え方にも注目が集まるようになりつつあります。
 
人間の一生は平均寿命が延びていることもあわせて考えれば以前よりもずっと長くなってきています。それを考えれば、たかだか学校時代の10年程度のつまずきやトラブルは、それをうまく自分の人生に生かすことさえ出来れば、それほど大きな問題ではありません。ただ、問題は、不登校やひきこもりの経験を、どのように自分自身の人生に生かしていくかという点が問題なのです。
 
そこで、今回は、生涯発達…という考え方を通して、不登校とひきこもりの問題を考えて見たいと思います。
 


2008年01月17日(Thu)▲ページの先頭へ
話すこと・聴くこと・見つめること B
話すこと・聴くこと・見つめること B
 
 
 
3、 見つめること
 
 
 
自分自身を見つめる時、はっきりしていないもやもやとしたものを言葉にして意識化できるようにすることがとても大切になる。その際に、誰かが良い聴き手になってくれると、言葉にして整理しやすくなる。ただ、自分自身の「今」をきちんと言葉にすることができれば、ある程度、自分1人でも自分を見つめなおすことはできる。
 
今、自分は何しているのだろう。呼吸をしている。落ち着いてゆったり呼吸をしている。少し眠い。パソコンを長く使っているから、目が疲れているのかな。忙しいと感じている。少し、忙しすぎてイライラしているかな? 口に出しても出さなくても良いのだが、初めのうちは口に出した方が良いかもしれない。それによって、自分の中に、自分の声を聴き、自分を見つめなおすのを手助けしてくれるもう1人の自分が現れる。このもう1人の自分の助けを借りて、丁寧に自分自身の「今」を見つめなおしてみるのも、時には良いだろう。
 
ただ、その時に気をつけたいのは、あくまでも「今」を見つめるということである。「あの時、ああすれば良かったのに…」ではなく「今も、あの時のことを苦痛に感じている」という事実を見つめるのである。「明日は…をしなければいけない」ではなくて「明日…することを、今、気が重く感じている」事実を見つめるのである。しかし、よく考えてみれば、過去のことは過去のことであって「今」変更することはできないし、未来のことは状況が変化すればどうなるかわからないので「今」悩んでも仕方がない。イライラしたり、気が重くなったりしていても、「今」にこだわることで、感情に流されて動けなくなることから救われる。そして、過去ではなく、未来でもなく、「今」を精一杯生きれば良いということにもなる。
 
ただし、悩みや苦しみや辛さが大きい時は、やはり、専門的な知識や技術を持った聴き手に話を聞いてもらいながら整理する方が、1人で自分を見つめなおすよりも早く気付くことがあったりもする。それを、必要以上に怖がらないことも大切かもしれない。
 
人間は、1人で生まれ、1人で死ぬのだが、生きている間は周りの人々との関係の中で生きていて、決して1人ではない。だから、自分を見つめ直すということは、様々な関係を見つめ直すことにもつながっている。その意味では、必ずしも1人で何もかもする必要はないし、誰の助けもなく1人だけで何もかもを処理しなければならないわけでもない。身近な人々に支えられて、自分の「今」がある。
 
だから、身近な人々や信頼できる人々の助けを借りて「今」を生きれば良いのだし、同時に、周りの人々の中に「今」助けの必要な人がいるのに気付いたら、可能な限り手を差し伸べてあげられれば良いのではないだろうか。「話す」ことも「聴く」ことも、必要に応じて自然にできる人間になれれば良いと思う。
 


2008年01月16日(Wed)▲ページの先頭へ
話すこと・聴くこと・見つめること A
話すこと・聴くこと・見つめることA
 
 
 
2、 聴くこと
 
 
 
良い聞き手の存在が、自分自身を見つめ直す助けになる訳だが、人と人との関係においては、話す場合ばかりでなく、聞く立場に立つことも当然ある。特に、家族や友人など自分にとって大切な人が悩んだり困ったりしている時には、当然、話を聞くような機会も出てくるだろう。その時に、私たちはきちんと相手の話を聞くことができるだろうか。
 
誰かが相談に来た時にけっこう多いのが、相手の話をきちんと丁寧に聞かずに「問題点」や「課題」を自分の解釈で判断し、すぐ「解決策」を出そうとしてしまう「聞き方」である。もちろん、それが的を射ていて相手もその「解決策」を受け入れて実行する場合も少なくない。けれども、きちんと聞かなかったために的外れの「答え」を出してしまい、相手を失望させてしまう場合だってある。特に、相手が自分自身を見つめ直す必要がある時や、単に話を聞いて欲しいだけの時は、性急に「解決策」や「答え」を出してしまうと返って信頼を損なってしまうこともなりかねない。それは、その聞き方が「きちんと丁寧に」話を聞いていないからである。
 
では、「きちんと丁寧に」聞くとはどういうことなのか。これからそれを【聴く】という字を使って考えてみよう。「聞く」と「聴く」では「聴く」の方が丁寧に耳を傾けるというイメージになる。日常的には話を「聞く」ことは多いが、話を「聴く」ことはそれ程多くはない。それは、「聴く」のがけっこう大変だからである。「聴く」ためには、意識を相手に集中させなければならない。そして、相手に意識を集中させることで、同じ言葉であってもその言葉の奥にある微妙なニュアンスの違いから、相手の思いや感情に心を合わせていけるようになる。けれども、集中するのはけっこう大変で、ある程度慣れないと長時間は持たない。集中力が途切れてしまうのである。
 
とは言っても、やはりきちんと聴いてあげなければならない時、というのはある。相手ときちんと向かい合い、集中することによって、聴こうとする心の姿勢が相手に伝わる。それが相手との関係を深めていくことにもつながっていくのである。
 さて、話を聴くときには、どういう点に気をつければ良いだろうか。カウンセリングの場では、話し手の思いや感情に寄り添うということを大切にしている。この話の中にある問題点は何で、どうすれば解決するのか…ということよりも、この話をしている今、どんな思いでしているのか…とか、今、どんなことを感じているのか…というようなことを大切にしながら聴くのである。
 
例えば、頭では分かっているけど、どうしてもできない…というようなことがある時、自分の中に気付いていなかったり押し殺していたりする感情があったり、意識していない(意識すると辛かったり悲しかったり苦しかったりする)何かがあったりする場合が多い。きちんと聴いてもらうことで、それらに自分自身で気付くことがある。自分の見つめ直しである。その時に、思いや感情に寄り添って聴いてもらうと気付きやすいのである。それに、感情や感覚の面で気持ちを重ねてもらえると「一人ぼっちではない」という実感も得やすく、孤独感からも解放されたりする。自分をわかってくれる人の存在を実感することによって、人は一歩前に踏み出す勇気とエネルギーを得ることができるのである。
 
そういったことから、聴いてくれる人の存在そのものが自分を見つめ直す際には大きな助けになる。だからこそ、自分の周りに聴いてくれる誰かがいて欲しいし、同様に、自分自身が大切な周りの誰かにとって、聴いてあげられる人でありたいと思う。
 


2008年01月15日(Tue)▲ページの先頭へ
話すこと・聴くこと・見つめること @
話すこと・聴くこと・見つめること@

 
はじめに
 
 
12月下旬に、鳥羽で行われたエンカウンター・グループに参加した。実は、不登校・ひきこもりの親の会も、エンカウンター・グループの一種である。日常の場から少し距離をとって深く話し込むことによって自分自身を深く見つめなおす機会をつくり、その体験で得たものを日常の場に生かしていく……という点からすれば、まさしくエンカウンター・グループの条件を満たすものだと言える。
 
ただ、今までの親の会というエンカウンター・グループの場においては、どちらかと言えば、まとめ役であるファシリテーターとしての参加であったのに対し、鳥羽での体験は、ファシリテーターではなく、初めて、一般の参加者の立場での参加であった。その中で、最近、童話や小説を書く時間を取れていないことが自分で考えていた以上に大きなストレスになっていたことを発見した。自分らしくあるために大切なものを再確認できたことは大きな体験だった。
 
それとは別に、話すことや聴くこと、そして自分自身を見つめることについて、あらためて考えてみる機会ともなった。今回は、そのことについて少し整理してみたいと思う。
 
 
1、 話すこと
 
 
話すということは、他者に自分の思いを伝えることだと一般には考えられている。けれども、よく観察してみると、自分の思いと話している内容には多少なりともズレがあるし、状況によっては、自分の思いを隠すために意識的に自分の思いや考えとずれている内容を話すことも少なくない。それに、話した内容と相手に伝わった内容の間にも、多少なりともズレが生じる。それを考えれば、思いを話すことによって他者に伝える…ということは意外と難しいのである。
 
人間関係にコンプレックスを持つ人は、その意味では、話すことの難しさを強く感じている場合が多い。自分のことを分かって欲しいという思いはあっても、思いを表現する適切な言葉がとっさに見つからなかったり、どういうタイミングで話に入ったらいいか…とか、どういう声のかけ方をしたらいいか…とか、どう言葉を返したらいいか…とかがわからなかったりして、どう相手と会話すればいいかが分からず自信もない。そのため、押し黙ってしまったり、その場から逃げ出したりして一層自信をなくし、話すことそのものまで苦手になってしまう場合も少なくない。
 
例えば、近所の人に「こんにちは」と声をかけられても、どう反応したらいいか分からなくて困ってしまう…などということも起こったりする。単純に、「こんにちは」と返して、ニコッと笑えばそれで済むことなのだが、考え込んでしまうためにそれができない。けれども、意識して行動を積み重ねていけば、次第に違和感がとれて、あまり考えずに対応できるようになる。そういうことも、「技術」として学び、トレーニングを重ねればある程度できるようになっていく。そんなケアも大切だろう。
 
ただ、「話す」ということは、他者とのコミュニケーションをする時だけでなく、自分自身を見つめ直す時にも大きな意味を持つ。例えば、会話をしている中で、少しずつ自分の考えが整理されていくという経験を持つ人はけっこういるのではないだろうか。人間の思考というものは、言葉に大きく依存している。だから、頭の中のイメージを言葉にすることで自分の考えや思いが整理できるのである。その時に、良い聞き手がそばにいてくれると、特に、自分自身では今まで気付いていなかったことに気付くことも少なくない。
 
エンデの有名な作品で映画にもなった『モモ』という童話では、主人公のモモが町の人々の良い「聞き手」になっているシーンが出てくる。誰かがいろいろな問題や悩みをかかえて困っていると、町の人々は「モモのところへいってごらん」と声をかける。モモは子どもなのでそうした問題や悩みに対する「解決策」を持っているわけではない。ただ、問題を抱えた大人がやってきた時に、その話を本当に一生懸命聞くだけである。だが、話しているうちに、人々は気付き、きっかけをつかむことができるのである。
 
カウンセリングの過程も、モモの話の聞き方に似ている。カウンセラーは、話し手の言葉に丁寧に耳を傾け、その思いや感情に寄り添って、話し手の中でモヤモヤとわだかまっている思いや感情に言葉の光をあてようとする。その思いや感情にピッタリと重なる言葉が、話し手の口から出る場合もあるし、話を聞いているカウンセラーの口から出る場合もある。ただ、思いや感情に明確な言葉を与える、というそれだけのことで、それまでは自分自身でも気付かなかったことに気付き、意識化していくことが可能になる。その意識化が、先へ進むための一歩を踏み出すきっかけになるのである。
 
そうした意味において、「話す」ということは他者とのコミュニケーションのためばかりでなく、自分とのコミュニケーション…つまり自分自身を見つめ直すためにも重要な意味を持つ。ある程度知識を持っていて、訓練も積んでいれば、自分1人でそれができる場合もあるし、人によっては日記や文章にすることによって自分を見つめ直すことができる場合もあるが、別に、すべて自分1人でしなければならない訳ではない。自分の周りに、良い聞き手を見つければ良いのである。壁を作らずに安心して話せる相手。それは、親友かも知れないし、先輩かもしれないし、配偶者かも知れないし、兄弟や姉妹かもしれない。あるいは、先生や上司であっても良いし、何かのグループの仲間の1人でもかまわない。とにかく、きちんと話に耳を傾けてくれる良い聞き手を持つことによって、自分自身を見つめ直すきっかけができるのである。
 


2007年09月19日(Wed)▲ページの先頭へ
いじめや不登校とひきこもりを考えるD
5、大人社会も……
  子どもや家族と過ごせる十分な時間を
   ・間違った「教育改革」の問題
   ・大人の心の荒廃とゆとりの喪失
   ・子どもや家族と過ごす時間
 
 
先月、不登校が調査で増加に転じたというニュースが紙面を飾る前日、中日新聞から電話インタビューを受けました。それに対して、教育基本法の改悪をゴリ押ししても未だに30人学級を全国規模で実現できていない教育行政の貧困やホワイトカラー・エグゼンプションやパート・人材派遣の規制緩和によって労働環境を悪化させ、結果として家庭にまとまった子どものケアの時間を物理的にうばっているという、間違った「改革」の問題点を指摘しておきました。
 
一方、私の住む地方都市で学校の統廃合問題を考える会議が開かれた時に、重要な立場にいる教育委員会の関係者が「35人学級の方が教育的効果はあがる」といった主旨の発言をしたような話を聞いています。それがもし事実であるとすれば、先進国で日本のみが30人学級を実現できていない恥ずかしい「現実」や、犬山市が独自に30人学級を完全実施して教育効果をあげている事実からすれば時代に逆行する呆れた発言です。本音は財政事情から合併を強行したいのでしょうが、都合の悪い事実を隠して議論を捻じ曲げ、結論の決まった会議を招集して「話し合った」というアリバイを作って一部の人たちの都合の良い方向に社会を動かそうとするような風潮は、大人の責任として変えていく努力が必要でしょう。
 
1月に多気郡のPTA連合会の依頼で「いじめ」についての講演をした時に、大人社会の問題についても少し時間を割いて話をしました。実は大人社会でもいじめはあり、場合によってはより陰湿で悲惨な事例もたくさんあるという事実……。リストラという言い方で行われた労働者削減の嵐が吹き荒れた時期には、「これがまともな大人のすることか」とやった人々の神経を疑うような陰湿・悪質な話がありました。また、パートや派遣労働者の待遇や扱いについては、いじめとしか言いようのないものも見かけることがあります。実は、大人社会にもいじめや差別、弱者切捨てが横行している「現実」があるのです。
 
私の関わっている事例では、就職まで何の問題もなくきちんとできた人が、会社での人間関係や仕事を通じて人間不信に陥り、ひきこもりになってしまった、という例もあります。日本における現実社会の矛盾が、弱い立場にいる人を追い詰めています。自殺者が3万人を越えて高止まりなのに、なかなか有効な手立てが講じられないのはどうしてでしょうか。サービス残業と言い方を変えて、不法な賃金不払い労働がごまかされている現実を考えれば、ウツや自殺が減らないのは、ある意味では当然なのです。
 
そうしたことも含めて考えると、日本における現実社会の矛盾が、弱い立場の子どもたちに投影され、事件となって噴出していると言えるのかも知れません。子どもたちによる「いじめ」事件の多発や不登校・ひきこもり問題の背景には、大人の心の荒廃やゆとりの喪失、「いじめ」の蔓延が考えられるのです。よく考えてみてください。大人に、子どもたちを十分にケアできるような時間的なゆとりがどれだけあるかを……。アメリカで起きたコロンバイン高校での射殺事件の加害者の母親は何時間もかけて職場に通い、一生懸命働いても貧困から抜け出せず、生活費を稼ぐための労働に追われて子どもたちと過ごせる十分な時間がとれない状態でした。
 
例えば、1日の労働時間の目安とされる8時間は、1日の3分の1になります。3分の1を労働に、3分の1を家族と共に過ごす時間や地域の人々と過ごす時間に、そして残りの3分の1を休息に充てることが出来れば、学校や家庭との連携や地域の中での連携はずいぶんしやすくなるのではないでしょうか。そして、十分な連携に支えられて育つ子どもたちは、心豊かな大人に成長していけるのではないでしょうか。
 
けれども、そう簡単にいかない「現実」は確かに存在します。でも、今、私ができる、多分あまり無理をしなくても続けられることが、何か必ずあるはずです。小さなことでも、お互いに支えあって出来ることを探し、みんなで子どもが健やかに育つような学校や地域社会を作っていければいいのではないかと思います。
 
ある意味では「現実」から出発する……というのは、大人自身にも言えることなのです。子どもたちばかりでなく大人自身もきちんと見つめ直し、自らの行動を修正し、社会を変えていく努力を続ける必要があるのではないでしょうか。おかしくなってしまった大人社会もまた、大人の責任で共生と弱い立場の存在への共感に満ちた社会へと変えていく努力が必要だろうと思います。
                                 〔完〕


2007年09月18日(Tue)▲ページの先頭へ
いじめや不登校とひきこもりを考えるC
4、どう関わっていくか
  子どもの自立が目的
   ・自信の回復
   ・受け止めてもらえる人、「居場所」
   ・スキルとしての人間関係の結び方
   ・1人で抱え込まず、協力していく体制を
 
 
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の例会や個別相談の場などで、時々、ビジョンとステップの話をすることがあります。ビジョンとは、中・長期的な目標、ステップとはそれを実現するための短期的な目標です。特にステップは、今の現実の上に立って、毎日続けられる努力の積み重ねによって実現できるのではないかと考えられるものであり、「お父さんに『おはよう』と挨拶する」などという短期目標を立てることもあります。難しすぎる場合は現状を確認しながら「お父さんと一緒の部屋で1分以上は過ごせるようにする」などに変更することもあったりします。
 
では、ビジョンは? という事になると、実は、必ずしも高校に入学することが大切なのではなく、自分の暮らす地域でそれなりに働き、家族と共に暮らしていければ良い、ということになるのではないでしょうか。それなりに収入を得る腕や技術を身に付け、全ての人ではなく、自分の周囲にいる直接関係ある人々とのコミュニケーションが普通に出来ればそれなりに生きていけるわけですから、そうした「自立」を目標に努力を重ねれば良い……ということになるでしょう。
 
その際、カギを握るのが「自信」ということになります。自己実現の過程として本人が意識している確信的なひきこもりを除いた多くのひきこもりの事例や、それなりにサポート体制がある高校に通い始めた不登校経験者の事例において、対人関係に不安を抱えている場合が少なからず見受けられます。そして今までの経験上、その奥には、自分に対する自信のなさが隠れている場合が多いのです。だから、本当の意味で自信をつけていくようにサポートしていく事が大切になります。
 
特に、本人の年齢が学齢(小学校から高校に行くくらいの年齢)である場合は、学校の存在や学校との関係がプレッシャーになっていることが少なからずあります。そのため、学校への過剰な拘りをほぐしていく為に「学力」面でのサポートが精神を安定させるという心理的側面からのアプローチとしても有効になったりする事もあります。実際に、個別で数学を教え始めたら、時間を重ねるうちにどんどん理解が進み、テストとして使ったプリント等でも8割から9割の正答率を誇るようになって数学だけは学校のテストも受けられるようになって、それなりの点数もとれるようになった子がいました。そうなると、それが自信になって不登校でもしてもらえる推薦入試……ではなく数学のある一般入試である公立高校を受験し、見事合格して、今では毎日元気に高校生活を送っているような事例もあります。
 
ただ、不登校の経験を乗り越えて高校に通っていても、対人関係を結ぶ場面での不安や問題を抱えている子どもたちは多いようです。その点については、三重県内にある不登校問題で文部科学省の研究指定を受けている公立高校の先生たちと研究発表会の時などに何度か話をした事があります。子どもたちのそのような現実は、ある意味では当然でしょう。だから、挨拶とその意味や対人関係上の役割などを「スキル(わざ・技術)」として教えるようなことがあっても良いのではないか……という提案をしたりもしています。それと合わせて、子どもたちが安心して生活できる「居場所」づくりや、「作品」を他の生徒を含めた多くの人々の目に触れるところに置き、それを楽しんでもらったり、喜んで使ってもらったりすることを通して自信や受け入れられているという実感を培っていくようなサポートも大切にしていけば良いのではないか……といった話もしています。
 
あるいは、当事者との関わりにおいては、「考えがどんどん悪い方へいってしまって抜け出せなくなる」という状態の時に、深く息を吐くことから始めて深呼吸を続け、呼吸を整えるようにしてはどうか、といったアドバイスをすることもあります。実は、心が不安定な時には呼吸が雑になったり荒くなったりすることがままあるのです。
 
スポーツにおいても座禅などの修養においても、実は、呼吸は非常に重要です。あがってしまったり落ち着きがなくなったりしたときに、深呼吸をするようにアドバイスをする場面が時々見られますが、しっかり息を吐くことによって自然に深く息を吸い込むようになり、それをくり返すと腹式呼吸になっていきます。腹式呼吸は歌を歌うときの重要なポイントですが、実は、座禅の呼吸法も腹式呼吸なのです。「悪い方へ考えすぎてはいけない」とアドバイスしても、それを止める具体的な手立てが本人に分からないとどうすることも出来ません。その意味で、呼吸・特に吐くことをしっかり意識させることは、自然に「悪い考えをどんどん進める」心の動きを止め、距離をおくきっかけにできるのです。
 
呼吸だけに意識を集中させるのが難しい場合は、今、この瞬間の自分の動きや状態を言葉化することを試みても良いでしょう。「今、座っている」「今、呼吸をしている」「今、右手をあげた」「今、左手を下ろした」…など、大きな声でなくても実際に声に出してみることで意識を「考えの悪循環」から多少なりとも逸らすことが可能になります。あるいは「どうしたらいいのだろう」ではなく「今、悩んでいる」といった具合に心の状態を口にすることで感情に流されて悪循環を繰り返す「考え」を冷静に見つめるきっかけをつくったりも出来るかもしれません。「今」「この瞬間」の自分を口にしたり書き出したりして「言葉化」することで心の堂々巡りから少し距離をとるのです。
 
その上で、「今、自分のこの状態でもできそうな何か」を探してやってみる。それが出来たら、また次の「今、自分のこの状態でもできそうなこと」を探し、実行する。できる。また次の「今、出来そうなこと」を探す。…その繰り返しが少しずつ自信を育て、その自信が次の一歩を踏み出す土台になっていく……。そんなサイクルへと「考えの悪循環」を変更していくということなのです。
 
行動を変えれば、考えや意識も少しずつ変化していくし、意識を変えることで行動も変わっていきます。人やその時の状況によって、行動か意識のどちらから手をつければ効果的になるか…という点は異なるでしょうが、本人が実行しやすい方を選んで試してみる。それが合わないような感触ならば、別の方法で試してみる。そんな風に考えていく事ができれば良いのではないでしょうか。
 
私は現在、市内の自閉症の子どもたちや肢体不自由の子どもたちとも関わっていますが、その子どもたちの将来的な自立……ということを考えると、今の貧弱な福祉政策の現実では大変だな、と感じています。その子どもたちと比較した場合、不登校やひきこもりの子どもたちは、少なくともコミュニケーション能力の面において非常に有利な立場にいます。少なくとも文字を読んだり書いたり、言葉を聞いたり話したりすることはできるのですから、心の問題を自分なりに折り合って一歩踏み出せば、それなりに先に進める可能性はあるのです。
 
ただ、心の「折り合い」がなかなか大変であることも事実です。だから、学校へ行く、あるいは働きにいく、というスタートは取りあえずできたとしても、途中で悩んだり、トラブルを深刻に考えすぎたりして順調に行かなくなる場合も当然出てくるわけです。そのため、途中のサポートも必要となります。何度となく陥ってしまう「考えの悪循環」…そういう癖…というか思考のスタイルが身についてしまっているのです。だから、その都度サポートを続けて何とか「考えの悪循環」を断ち切っていくような思考のスタイル…つまり「変化のサイクル」に乗せることができれば道は開けてくるのです。不登校やひきこもりの問題は、それを放置しておけば、家族や社会、そして当事者自身にとっても大きな負担となります。しかし、適切に対応・サポートできれば、彼らは、場合によっては普通の人以上に社会や地域に大きな貢献をする可能性を秘めていることはきちんと意識しておく必要があるでしょう。
 
では、どうすれば良いのか。周囲のサポートする大人の側からすれば、そうした「変化のサイクル」に本人が乗りやすいような環境を、「今」の「自分」の可能な範囲で少しずつ整えることを目標に行動していく……という形で考えると良いのではないかと思います。その時に注意したいのは、大人の側だけから見た「今」ではなく、本人の感じ方や考えも含めた「今」から出発する、ということです。
 
例えば母親として、あるいは教師として、もしくは家族や周囲の大人として、「今」の「自分」にできることはそれぞれ違うでしょう。けれども、まず「今」を見つめ、そこから「できること」を探して実行する……という点は同じだし、1人で背負わず、周りの協力してくれそうな人と力を合わせて環境を整えていくことが大切ではないかと思います。
 
私は、07年夏のフレネ教育研究会の場で不登校問題について話をしました。その時に、母親の過敏すぎる対応が周りの子どもたちや家族との距離を開いているのではないか……といった事例もからめての質問が出ました。それに対しては、そうした母親の反応自体にも、彼女の孤立…という現実が存在するように思われるので、話を聞く場を設定し、話をきちんと聞ける人を紹介するような形で彼女の孤立感を和らげ、その上で一緒に出来ることを考えていく方向での対応などがあることを話しました。それによって母親や家族が精神的に安定してくれば、当事者の日常の環境が少しずつ変化することにつながり、改善のきっかけをつかめるようになるかもしれないからです。
 
母親や担任教師が1人で抱え込む……ということは環境を悪化させると共に、抱え込んだ母親や教師の精神をも追い詰めていきます。それを避けるために、いろいろな立場から関わり、協力体制を作っていくことが大切だろうと思います。
 


2007年09月17日(Mon)▲ページの先頭へ
いじめや不登校とひきこもりを考えるB
3、不登校・ひきこもりについて
  なぜ、そうなってしまったのか…よりも、これからどうするか
   ・当事者の心、当事者の思い
   ・周囲の子どもたちの姿勢
   ・家族の姿勢、大人の対応
 
 
今度は、不登校や学齢時のひきこもりについても考えてみましょう。
 
家族の目からすれば、突然、子どもが不登校になったり、ひきこもってしまったりした時、驚くと同時に、怒りを覚えたりするでしょう。そして「なぜ、ウチの子が…」という思いにとらわれるのがほとんどです。そして「原因」や「理由」を、子どもの口から直接聞きだそうとします。それを子どもから聞けなかったり、聞いても納得できるような答えではなかったりすると、とにかく、無理やり子どもを学校へ引っ張っていこうとするような場合もあります。そうした反応は、ある意味ではごく普通であり、一般的にも理解できるものです。
 
けれども、当事者の子どもにとってはどうか。ある意味では、すっとそれを話せるならば簡単です。それが出来ないからこそ苦しんでいるのです。なぜ、子どもの口が重いのか。いじめなどのきっかけの場合は、子ども自身がそれを認めたくない……というプライドの問題があって話せない場合があります。それから、子ども自身にも「原因」や「理由」が分からない(つまりきちんと意識化できない)場合もあります。後者の場合は特に、様々な要因が重なって、学校や学級が本人にとって安心して生活できる「場」ではなくなってしまったので、原因がはっきりしている場合よりも対応は難しくなるでしょう。
 
周囲の子どもたちとしても対応はけっこう難しくなります。遊ぶことが多かったけっこう仲の良い子どもであっても、誘いに行っても断られたり、電話をしても話が出来なかったりすることが続くと、その後、どう対応して良いかが分からなくなります。その繰り返しの中で離れていく子どももいるでしょうが、それでもなお気にかけている子であっても、積極的に関わるのには躊躇してしまうようなことも起こります。そうなってしまうと、お互いに以前の状態に戻るきっかけを見失ってしまうのです。
 
では、子どもよりも精神的には安定していて人生経験も豊富なはずの大人はどうでしょうか。実は、家族が「なぜ、ウチの子が…」という思いにとらわれ、「犯人探し」を行い、とにかく「学校に行く」ことを目的化して子どもを追い込んでしまうような反応などは、子どもの「現実」を受け入れていない状態と言えるでしょう。
 
大人ではあっても、癌の告知など、今まで当たり前と思っていた日常を否定するような「現実」を突きつけられた時、多くの人が混乱し、荒れ、周りの人やものにあたる精神的に混乱した状態に陥ります。当然、そのような反応をしても「現実」が簡単に変わるわけではありませんので、「絶望」したり、「自暴自棄」の状態になってしまうこともあるでしょう。けれども、「現実」を受け入れられるようになると、少しずつ、「今、自分ができること」が見えてくるようになります。そして、「自分ができること」を少しずつ積み重ねるなかで「現実」にも変化が生じてくるようになるのです。
 
不登校・ひきこもりの相談の現場では、まず、母親がやってくる、という形が非常に多いです。「子どもの教育」は母親の責任…という暗黙の了解、というか言葉にはなっていない影の役割分担、は割合としても現在でもかなり多く、母親がまず「子どもの不登校」や「子どものひきこもり」という現実をつきつけられることになります。では、他の家族はどうか……というと、父親や祖父母なども「お前の育て方が悪いから」という言葉で母親を「犯人」にしてしまったりするのです。そして、母親は孤立し、本来ならば真っ先に相談して協力してもらえると信じていた筈の家族からも責められ続けます。そして、自分自身も、本来の役割以上に子どもの不登校に対する「責任」を感じて、精神的に深く傷ついてしまうことも多いようです。
 
でも、冷静に考えれば、すべての「責任」が母親にあるはずはないのです。子どもを育てる責任は家族全員が負うべきものだし、学校が子どもたちすべての「居場所」になっているかという点から考えれば、教師の責任や学校の責任、教育委員会や文部科学行政の責任なども当然出てくるはずです。憲法26条に規定されている「義務教育」の【義務】は子どもに対する義務ではなく、保護者や国、地方公共団体にとっての義務であり、当の子どもには日本の社会で生きていく力の基礎を培う【権利】なのです。
 
そうした事を考え合わせると、「犯人探し」…例えば母親などへの過度の責任の押し付け…は、本来追わなければならない立場の人々の責任をごまかすことにもなりかねません。だから、結果として責任逃れに通じるような「犯人探し」をするくらいなら、そんなものはしない方が良いのです。それよりも、子どもの現状を改善していくためにそれぞれの立場で何が出来るかを真剣に考え、おたがいに協力し合いながら努力を積み重ねることの方がずっと大切であるといえるでしょう。
 


2007年09月16日(Sun)▲ページの先頭へ
いじめや不登校とひきこもりを考えるA
2、いじめと不登校
  不登校のきっかけとしてのいじめ
   ・いじめが不登校の直接の引き金になることも少なくない
   ・ある事例から
 
 
さて、私は現在、伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の事務局をしていると同時に、創立の前から三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会に関わり、その流れでずっと世話人を続けています。また、その関係で、06年末からいじめ電話相談ネットワークの一員にも名を連ねています。不登校やひきこもりの問題と、会が発足してから数えただけでも6年以上も関わっていることになります。でも実際は、もっと早くからこの問題と出会っているのです。私は大学の卒業論文で夜間中学を取り上げましたので、2週間に1度は大阪の夜間中学に通っていた時期があります。当時の夜間中学には既に登校拒否・不登校の経験者がいましたし、また、後に塾で相談を受けて不登校の子どもの学習支援に関わっていたこともあり、それも考え合わせれば20年以上の関わりになるのです。
 
そして、その関わりの中で聞いてきた相談を振り返ってみると、いじめが不登校やひきこもりの引き金になることも少なくありません。詳しく話す事は出来ませんが、プライバシー等も考慮した上で、簡単に事例をあげておきましょう。
 
ある高校で、1人の生徒がいじめられました。1度や2度で終わったのではなく、それが長引いたので、やがて家族にもわかりました。その間、中学校からの友達も心配して声をかけてくれたようです。もちろん、家族は学校に訴えたのですが、簡単には解決しません。結局、その生徒は学校に行かなくなりました。ご両親の話では、中学校の先生方が支えてくれてはいたようですが、高校の担任の先生の動きは鈍く、学校長は体面を気にするだけで、いじめられた子の立場に立って話を聞く姿勢は見られず、その生徒は家族とも相談して退学するという選択をしました。
 
しかし、家族は彼を理解し、支え続けました。半年ほどして知人の紹介でアルバイトをはじめました。すべての時間ではないにしても中学時代の友人も一緒でしたし、何よりも職場で可愛がられたようで、次第にアルバイトの時間も長くなり、バイト先の先輩と遊びに行ったり、その先輩のところに泊まったりもするようになって元気を取り戻しました。そして、アルバイトでお金をためて、そのお金で自分の好きな専門学校に行く……という目標を持つようになりました。現在は、その目標通りに故郷の町を離れ、アルバイトをしながらその学校に通っているということです。
 
別の例もあります。こちらは、もともと積極的な性格ではなく、授業中に先生に指名されても聞き取れないような声でしか返事が出来なかった子が、普段から周囲の生徒にからかわれつつも何とか学校に通っていたところ、突然、学級委員に選ばれてしまいました。そのため、授業の前後での号令をかけなければならなくなり、その度ごとに、クラスメートから「声が小さい」などと文句を言われたりしました。それ以外にも様々なことが重なり、やがてその子は学校にも出られなくなってしまいました。
 
後者の事例では、深く関わることが出来なかったので、その後のことは分かりません。大人の目から見れば些細なことや小さないじめであったとしても、重なってくればやがて耐えられなくなります。それに、いじめがエスカレートすると身の危険も感じるようなこともありますので、自分を守るためには本人の主観からすれば不登校が唯一かつ最善の選択となる場合があるのです。
 
もちろん、不登校の事例に、100%いじめが関わっているとは言えないでしょう。が、直接の引き金ではなくても、いじめによってクラスが安心して学習や生活のできる【居場所】ではなくなる要因が増えてしまう……ということはあります。いじめられないように、と自分の本心や感情を押し殺して周りに合わせることが取りあえず出来たとしても、自分の本心や感情を押し殺して生活することは精神的に大きなストレスを生みます。それでも無理をし続けると、突然、学校へ行けなくなったりすることもあります。結局、そこが安心して自分自身でいられる【居場所】かどうか、という点は、その場の1人ひとりとの関係の問題と大きく関わっているのです。
 


2007年09月15日(Sat)▲ページの先頭へ
いじめや不登校とひきこもりを考える@
いじめや不登校とひきこもりを考える

 …子どもの現実からの出発…


はじめに
 いじめと不登校・ひきこもり……人間関係を結ぶ力の弱さ
  ・犯人探しで責任を押し付けあうよりも、どう改善していくかが大切
 
 
近年、子どもたちの間の【いじめ】がニュースで取り上げられ、学校現場での【いじめ】やそれに関わっての自殺が大変な問題になっています。また、不登校問題については07年8月の前年度の調査結果の公表(8/10中日新聞06年度で126,764人/前年度より4,000人以上増加)で、不登校が増加に転じたというニュースもありました。
 
2つの現象は、一見するとまったく別のものに思えますが、人間関係を結ぶ力の問題として考えてみると、その増加は、関係を結ぶ力の弱さという共通の現実があり、それが別々の現れ方をしているのではないかと考えられます。自分や他者を受け入れ、相手に共感する力が弱まり、自分の心の内や外部の人間に対する攻撃性を制御する力の弱まり……。それが、様々な問題行動となって噴出しているのではないか、と考えられるのです。
 
相手との関係を言葉や行動を通して友好的にしていくためには、周りに流されずにある程度自分の意思をしっかり持ってそれを上手に伝えられる力と、相手の思いや立場を理解してそれを受け止めながら、自分の思いとのすりあわせを行い、調整していく力が必要です。ところが、そうした、お互いの関係を結ぶ力が弱くなっていることにより、感情の暴走によって生じる攻撃性が【いじめ】という形で外部に向かったり、【不登校】【ひきこもり】といった形で自分のうちに向かったりするのではないかと考えられるのです。
 
今回は、【関係】を結ぶ、という視点からいじめや不登校・ひきこもりの問題を考えてみようと思います。
 
 
 
1、いじめを考える。
  心の弱さとしてのいじめ
   ・子どもだけの問題ではない
   ・心の弱い人間が、自分と周りをごまかそうとしていじめに走る
   ・「犯人探し」よりも、成長のための「事件」に
 
 
いじめは、1人ひとりの人間の心の弱さが根本の原因です。特に、心が弱い人間ほど、自分よりも弱いと考えている相手を自分自身のストレスの発散のためや大人から見ればほとんど問題にすらならないような些細な理由でいじめます。そして、それによって、自分の弱さを他者の目からも、自分自身の目からもごまかしているのです。
 
学校現場でのいじめやそれが引き金となった自殺は新聞でも大きく取り上げられていますが、実は大人の社会でももっと陰湿で深刻ないじめがたくさんあります。1998年以降、日本の自殺者はずっと3万人を超えています。労働現場でのいじめが人々を追い詰め、ウツや自殺にまで至ってしまうケースが非常に多いのです。
 
上の立場にいる人からいじめや無理難題の押し付けをパワー・ハラスメント(パワ・ハラ)と言います。昨今の労働現場ではこのパワ・ハラも問題になっていますが、本当に上司としての能力がある人間ならば、部下が困っていたり行き詰っていたりする際には、その改善策を提示するか、助言できる人間を紹介してサポートしてあげられる筈なのです。けれども、そうした助言やサポートではなく、パワ・ハラが蔓延していく。これは、どう考えれば良いのでしょうか。実は、地位が高くなり権限が大きくなっても、その地位や権限に相応しい能力の無い人間は、本当は弱くて力がないから、権力によって相手を追い込み、成功の結果だけを自分の手柄にしようとするのです。
 
もちろん、そんなごまかしは、本当に心が強い人には通じず、見破られてしまいます。その意味で、本当に心が強い人はいじめなどしません。その必要がないからです。でも、ご存知のように、本当に精神的に強い人は大人でもなかなかいません。だから、いじめはなかなかなくならず、いつでも、どこでも子どもだけではなく大人の世界でも起こり得るものなのです。
 
特に、子どもの時期は、精神的に充分に成長しておらず、ちょっとしたきっかけでいじめが始まり、それが一気に暴走してしまう場合がままあります。ただ、あくまでも成長途上ですから、それを、大人の関わりによって1つの、単なる一過性の「事件」にしてしまい、関係した子どもたち1人ひとりの心を強くし、成長させていくための【良い経験】にしていくことが大切なのではないでしょうか。
 
事実関係を可能な限り明確にし、原因をある程度はっきりさせる必要はあるでしょう。けれども、それを「犯人探し」に終わらせ「いじめはいけない」で締めくくってしまっては、絶対に子どもたち1人ひとりの【良い経験】にはできません。大人としての責任の取り方……はある程度必要でしょうが、それよりも子どもたちのために関係者が協力し合って【未来】を考える契機にしていくことの方が大切ではないかと思います。
 


2007年07月25日(Wed)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップC
 
4、ステップ…短期的課題(周囲の人々について)
 
 
次に、当事者の家族やサポートをする周囲の人々の「ステップ」についても考えてみよう。

先に述べた当事者の「ステップ」をサポートするように動けば良い、というのが基本だが、家族や周囲の人に知識や外の世界と本人をつなぐ情報やネットワークを持っていれば、よりサポートは楽になる。そして、周囲の支えやサポートを受けて家族や当事者本人に接する人がある程度の知識を持ち、精神的に安定していれば、本人も安心して自分の当面の課題に取り組めるようになる。だから、当事者本人も大事だが、お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに自分自身も大切にするようにしなければならない。
 
不登校や引きこもり問題に取り組むに当たって「子ども本人が1番傷ついている。だから、子どもを1番大事にしなければならない」と言われる場合がある。それは確かに正しいし、それを貫ける精神的な強さを親や周囲が持ち得ている場合はそれで良い。しかし、大人であっても、すべての人が精神的に強い訳ではない。そうした「子どもが1番」を貫けない「弱さ」を残している場合も決して少なくない……というのが、親を始めとする大人の「現実」なのである。その意味では、自分の親や大人としての「弱さ」という「現実」を受け入れ、それから出発して、実行可能な「ステップ」を一つひとつ着実に刻んでいく……というのが、最も現実的な対応となる。
 
家族の誰かが不登校や引きこもりという状況になってしまった場合、それが数日や数週間、あるいは数ヶ月といった短い期間で改善する事は少ない。けれども、時間をかけてサポートを続ければ改善する可能性は高いし、その苦しみを乗り越えた当事者は精神的に大きく成長し、今までよりも強く、そして優しくなれるのである。
 
だから、本人の未来を信じ、息の長いサポートを続ける事こそが大事になる。逆に、親を始めとする周囲の大人たちが「本人が1番大事だから…」と、自分を殺して無理の多いサポートをしていると結局は周りがすぐに燃え尽きてしまい後が続かなくなるのである。サポートが消滅すれば本人の心もより不安定になるし、家族も含めた状況はより悪化する可能性が高くなる。
 
その意味で、自分自身の弱さも含めた「現実」から出発する事は自分のためというだけではなく、長い目で見れば当事者にとってもプラスになる事なのである。だからこそ、親や家族の一員である自分自身も大切にしなければならない。もちろん、その際にはある場面・場面で当事者の要求と自分自身の「現実」とがぶつかり合う場合も出てくるだろう。けれども、その中でお互いに折り合いをつけ、関係を良い方向に持っていく努力をする事は、当事者にとっても大切な経験となり得る。
 
そうした意味で、親や周囲の大人も「現実」を受け入れながら、続けられる努力を重ねれば良いと考えられる。そして、今の時点で行っている対応や努力が続けられない(あるいは非常に負担に感じる)ならば、それは、自分の「現実」をきちんと見つめきれていない可能性が高いので、もう一度「現実」を見つめ直せば良いのである。
 
その時には、すべてを1人で背負う必要はない。他の家族や、信頼できる友人や知人・仲間にサポートをしてもらっても構わないのである。そうやって、「現実」を見つめ直せば、親や家族としての「自分」の新しい「ステップ」が見えてくるだろう。それに合わせて、今の時点の努力を、長く続けられるものに修正していけば良いのである。
 
その際に、親や家族としての思いを伝えていく事も大切である。それが、親としての自分・家族としての自分を大切にする事にもつながってくる。本人と自分、どちらかではなく両方ともが大切であり、自分にとっても当事者本人にとってもかけがえのない存在なのである。
 
が、そうした「思い」を伝える際には、解決を焦って《イベント》を企画しないように心がけた方が良いだろう。何かをきっかけに状況が好転する事は確かにあるが、安易な「きっかけ」を周囲の大人の側が用意しても、当事者本人に見透かされたりして、返って状況が悪化する事も少なくない。それよりも、日常的な努力の積み重ねの過程で起こる《アクシデント》が、本当の意味での「きっかけ」となる確率が高いのである。
 
サポートを地道に続けていけば、機が熟した時に《アクシデント》が起こる。その時を逃さずに、そうした《アクシデント》を当事者本人が自分の力で越えていけるようにサポートしてやる事が大切なのである。その際に必要なのは「焦らずに待つ」という心の姿勢と、小さな事でも愛情を持って見守り続ける粘り強さである。このような努力と配慮を続けていれば、ゆっくりとでも、確実に歩みは進んでいく。それを信じて、自分の能力・体力・時間の可能な範囲で続けられる事をしていけば良いだろう。
 
とは言っても、地道に努力を続ける事は確かに苦しい。けれども、正しい努力を続けていれば、必ず、手を差し伸べてくれる人が出てくる。確かに、今もまだ、苦しく辛いかもしれない。しかし、この文章を読んでいる人には、少なくとも1つ以上は、共に考え、サポートしてくれる人や「場」が存在している筈である。15年前にはなかったけれど、今は存在する「場」も、いくつかあるだろう。その意味では、環境も少しずつ変化してきている。小さな努力でも、それを積み重ねていけば、いつの間にか出来るようになっている事がある。
 
「ぼちぼちいこか」
 
この言葉を、これを読んでいただいたすべての方に贈りたいと思う。
 
                           〔完〕 


2007年07月24日(Tue)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップB

3、ステップ…短期的課題(当事者について)
 
 
今まで「現実」を受け入れる事が「ステップ」につながっていく事を述べたが、この「ステップ」についても「ビジョン」と同様にそれを必ずしも固定的に考える必要はない、という事を記しておこう。と言うよりも、「現実」は常に変化するものである以上、「ステップ」は方向性さえしっかりしている限りは「ビジョン」以上に状況に応じて変えていけば良いものである。
 
まずは、当事者本人の「ステップ」について考えてみよう。
 
例えば、高校卒業の資格を取るために、定時制や通信制の受験を考え始めたとしよう。本人の「現実」として中1から学校へ行ってない状況があるとしたら、中1の勉強を始める事が取りあえずの「ステップ」となり得る。しかし、問題を解いてみたら、まったく分からない…という「現実」があったとしたら、分数計算から良く分かっていなかったというような新しい「現実」が見えてくる。それを本人が受け入れられない場合は「わからない」「集中できない」といって逃げたり、自分をごまかしたりする事もあるかも知れない。あるいは「どうせ自分はできないのだ」とやけになって勉強そのものをやめてしまうような場合も少なくないだろう。が、新しい「現実」を本人が受け入れられたら話は簡単になる。そう、中1の問題と「現実」の間に、《分数計算をできるようにする》というさらに細かい「ステップ」を追加すれば良いのである。
 
と、文章で書けば簡単に思えるかも知れない。が、決してそうではない。私が高校で数学を教えていた時でも、こちらが観察していれば〔分数の計算のところでつまっている〕ことか分かっていても、本人がなかなか「分からない」が言えないで、結局、授業そのものが止まってしまう場合が何度もあった。「分からない」の一言が出れば、その時点から例えば分数の計算まで含めた説明をしていけるので授業も進むし、本人以外の分数計算の分からない生徒にとってもプラスになるのだが、それが出ないためにただ時間だけが過ぎていく。その背景には本人のプライドやその他様々な心理的な問題がいろいろとあるが、とにかく、「分からない」と言うだけの簡単な「1歩」がどうしても踏み出せないのである。
 
自分の能力が不足している事を認めるのは辛い事である。そして、点数主義や能力・成果主義の環境に傷つけられて不登校や引きこもりになってしまったような場合は、「分からない」「出来ない」が、単なるその場での否定的評価にとどまらず、いじめや攻撃のきっかけの1つになった場合も少なからずあるように思われる。そのような経験が積み重なっていれば、簡単に「分からない」「出来ない」が言えなくなってしまうのも当然であろう。
 
しかし、考えてもらいたいのは、人間という存在を評価する場合に、点数主義や能力・成果主義は、たくさんある評価のうちの1つに過ぎないという事である。そして、社会の中には、それ以外の様々な視点で人間を見るちからを持った人が少なからず存在する。その様な人々と出会い、関係を深めていく事で、道は開けてくるのである。
 
そしてもう1つ、「分からない」「出来ない」というのは、現時点での事であって、その「現実」から目をそらさずに必要な努力を続ければ、やがて、「分かった」「出来た」と言える可能性がある、という事も事実である。だから、「今、分からない」という事実は、決して「分からない人間は能力がなく、価値もない」という事とつながっていない。「分からない」という現実を受け入れる心の強さを持つ事が出来るようになれば、そこから「分かるようになる」ためのステップが見えてくる。そして、周囲の信頼できる人のサポート受ければ、より効率的に学習や訓練を進められるようになっていくのである。
 
けれども、引きこもりが続いているような状況がある場合は、その周囲のサポートを受ける事自体に困難を伴う場合がある。そのような場合には、そうした〔人間関係を結ぶのに不安や恐怖を感じる〕という「現実」から出発すれば良い。確かに、その「現実」を改善するのは簡単な事ではないかも知れない。しかし、時間をかけて地道に取り組めば、必ずしも不可能なわけではない。ポイントは、2つある。知識と継続できる地道な努力である。
 
対人関係に対する不安や恐怖……というのは、ある意味では感覚・感情的なものなので、知識を持っている場合であっても簡単に直せる訳ではない。けれども、知識として知っていれば、慌てたりパニックになったりする事なく、多少なりとも冷静に自分で対処する事が可能になる。
 
例えば、私は5年程前の冬、何事に対してもやる気が起きなくなり、また眠りたくない……というような状態になった。多少なりとも心理学的な知識があった私は、「今、少し鬱状態になっている」と判断し、流れに身を任せる事にした。つまり、目前に迫った必要最低限の仕事以外はすべて可能な限り先送りをし、夜は身体が疲れて眠くなるまでひたすらTVゲームを続け、音楽(実はかなりの音楽好きで、クラッシックからジャズ、シャンソンやニューミュージック、TVや映画のサントラなど、持っているCDだけでも500枚は下らないのだが)はと言えば通常はあまり長時間は聞きたくないと思っている陰鬱な森田童子の歌だけをひたすら聞き続けたのである。そして、およそ1ヶ月程でその状態から抜け出し、1月の終わり頃には普通の状態に回復していた。
 
引きこもり状態が長引いている場合は、対人関係に対する不安や恐怖感は私の例とは比べものにならない程強いので、こんなに簡単に回復するわけではないが、多少なりとも心理学的な知識があれば、その知識がない場合よりも自分をコントロールしやすくなる。例えば、「お父さんに毎日挨拶をする」というような持続可能な行動目標を「ステップ」として自分で設定し、それを繰り返していく。最初はぎこちないだろうし、やっていく際の違和感も半端なものではないだろうが、それを1週間…1ヶ月…半年…と続けていく中で、徐々にお父さんと言葉を交わす時に感じる不安や違和感が小さくなって、やがては知らない間にそれが消えている事に気づくだろう。
 
周囲の知識のない人から見れば「そんな簡単な事が…」と思われるかも知れないが、当事者の不安の大きさと日常化する中での解消効果は一般的に考えられているよりも大きいのである。だから、簡単な事でも続ける事が大切だし、必要に応じて「ステップ」は修正していくらでも細かく刻めば良い。時間をかけて努力を重ねれば、知らないうちに心の中の重しや違和感は小さくなって消えていくのである。あせらずに、続けられる努力を積み重ねていく事で、少しずつ周囲との折り合いがつき、崩れてしまっていた周囲の人々や「世界」との関係を再構築できるだろう。
 
そのように考えて、息の長い努力を続けていく事が、結局は、自分の状況を改善する早道となる。あせらず、自分の未来を信じて地道に努力を続ければ、やがて少しずつ理解してくれる人が現れてくる。やがてその先で、「世界」と和解できる日が訪れるであろう。



2007年07月23日(Mon)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップA
 
2、 「居場所」と現実
 
 
ビジョン…それは未来への夢を描く力、と言えるかも知れないが、それはまた自分を精神的に支える「居場所」の存在と、自分自身の現実をきちんと見つめる能力によって支えられているものである。
 
不登校の場合は主に「学校」の中での関係に問題を抱えていると思われるが、引きこもりの場合は「周囲」を取り巻く関係で深く傷ついているために関係をほとんど閉ざしてしまっている、という状態であると考えられる。
 
その意味では、先へ進む以前に、傷ついた心を癒す「居場所」の構築が最優先の必要事項となる。ここで言う「居場所」とは、単なるスペース(空間)という意味にとどまらず、その場における人間関係をも含める。自分自身の悪い部分や嫌な部分も含めて丸ごと受け入れてくれる人がいる「場」、「良い子」を演じ緊張し続けなくても良いその時の「ありのままの自分」でいられる「場」、疲れきった自分を無防備にさらけ出しても危険のない「場」、ゆっくり心身ともに疲れを癒す事のできる「場」……。それが、1人の人間にとっての「居場所」であり、多くの人間にとってその最も大切で基本的な「居場所」と信じられているのが「家族」であろう。
 
ここで、1人ひとりが自分自身を振り返ってみると良いかも知れない。「家族」が自分にとっての「居場所」となり得ているか、そして他の家族にとってはどうか……と。皆が「家族」を大切な「居場所」だと感じているように思われる場合はそれで良い。が、そう感じられない誰かがいるように思う場合は、それを少しずつでも改善するために自分が出来そうな事を併せて考えてみよう。無理なく、続けられる小さな努力……。必ずしも、引きこもりの当事者のみではなく、お父さんやおばあさんに対しても何か考える必要があるかも知れない。
 
表面に出ている誰かよりも、実は隠れている誰かの抱える問題が、状況を変えていくきっかけとなる場合がある。そして、隠れている誰かの問題への取り組みの方が簡単で取り組み易かったりもする。その結果、隠れていた問題を解決した誰かが、やがて大きな支えとなってくれたりもする。最初の努力は、無理なく続けられる小さなものかも知れない。けれども、そうした「小さな努力」を積み重ねて、家族全員の「居場所」を再構築するのである。それが、「周囲の人」に出来る第1歩ではないか、と思われる。
 
しかし、注意して欲しいのは、すべてを「家族」で背負う必要はないと言う事と、誰もが「居場所」を複数持てる方がより安心・安定して、他の事や新しい事に取り組んでいけるという事である。
 
私自身を振り返って見ても、実は、たくさんの「居場所」に恵まれている事に気づく。家族はもちろんだが、他にも文学の関係で「青い鳥」と「石の詩」という居場所がある。フレネ教育研究会や三重フレネ研究会も大切な「居場所」の1つである。鳥羽子どもの本の会や、鳥羽国際交流ボランティアの仲間たちもいる。美味しいウィスキーとカラオケを楽しむ常連として通う店も安心して楽しめ、くつろげる「居場所」かも知れない。それらの「居場所」に様々な形で支えられながら、教育実践や文学、不登校ひきこもり問題や日本語教育に取り組み続ける事が出来るのである。
 
そして、新しい「場」は、自らが心を開き、関係を続け、深めていく中で「居場所」となっていく。1人で悩んでいないで、まず、扉を叩く事で、扉は開かれる。そして、そこでの出会いが新しい道を開いてくれる。
 
最初は、その場にいて話を聞くだけの関わり方でスタートしても、「お父さんも連れて参加しよう」と考えたり、他の人の話を聞いて「私のところでは、……でした」というような形で体験を語り、少しでも参考になれば……と心を砕くことが出来るようになったりしていくかも知れない。それらのすべてが、関係を深める行動であると同時に、「居場所」を作っていく事にもつながっているのである。
 
子どもの不登校や引きこもりで悩んでいたお母さんが、例えば、三重県・考える会に参加したとしよう。そこで悩みを話す事で、自分の考えや行動を再確認できるし、経験者や助言者からのアドバイスを聞く事も出来るかも知れない。それによって不安が小さくなれば、同じ様に参加しているけれどもまだ心のゆとりを持てない様な誰かのために自分の体験を話してあげられるようになるかも知れない。そうなった時、そこはそのお母さんにとっての「居場所」となる。「居場所」が増えれば、精神的にも安定してくるし、精神的な安定は他の人への接し方の変化につながっていく。そこに「居場所」としての「家庭」の変化・「家族」の変化の第1歩につながる何かが生じているのである。
 
心が安定してくれば、今まで見ようとしなかった「現実」、気づく事を恐れていた「現実」を見つめる強さが生まれてくる。アルフォンス・デーケンは、癌などの不治の病に直面した時の一般的な反応について、現実否認・怒り・悲しみ・孤独などを味わう場合が多いと述べている。が、そうした怒りや苦しみ・悲しみを乗り越えて自分の運命を受容出来た人は新しい希望を見出し、豊かな生を全うしている、という事を指摘している(A・デーケン『死とどう向き合うか』 NHK出版 1996年)が、こうした【現実否認・怒り・悲しみ・孤独・そして現実の受容】という一連の経過とその立ち直りの過程は、不登校や引きこもりに悩む当事者やその家族にも、ある種、共通するものがあるように思われる。
 
例えば、誰かが不登校や引きこもりになったとしよう。当事者である本人自身も、どうしてそうなったのか分からない場合が少なくないので、苦しみ、怒り、荒れ、同時に「誰も分かってくれない」という孤独感にさいなまれる事がけっこう多いだろう。だが「学校へ行けない」とか「外に出られない」という現実をまず受け入れれば、その中で、今できる事と、今はまだ出来ない事、これからの一生の中で時間がかかっても出来るようになりたい事などがだんだんと形になってはっきりしてくる。そこまでくれば、「今やれる事」を積み重ねていく中で、徐々に自分の力を伸ばし、周囲の人々や社会との関係性を再構築していけるようになっていくだろう。
 
家族の立場からも同じような事が言える。子どもが不登校や引きこもりになった時、多くのお父さんやお母さんはその「現実」を受け入れられず、怒り、苦しみ、当事者を責めたり、あるいは周囲に相談出来ずにひた隠しにして孤独感にさいなまれ、「なぜ家の子だけが…」と思い、苦しんだり悲しんだりする事が多いのではないだろうか。そして、「なぜお前は…」と本人を責めたり、「お前が甘やかすから…育て方が悪かったから…」とお母さんだけに責任を押し付けたりする場合も少なくないように思われる。その結果、お互いを信じられなくなり、「家族」が「居場所」としての機能を果たせなくなってしまう。「現実」を受け入れるのは大変な作業だが、それから逃げている限り苦しみは続くのである。
 
だが、子どもが不登校や引きこもりになってしまったという「現実」を誰かが受け入れ始めた時、「家の子だけではない」という事が分かってくるし、周りには敵ばかりではなく、理解し、手を差し伸べてくれる人や「場」がある事も見えてくる。そうなれば、「家族」や「学校」が本人の「居場所」となり得ているかを確認出来るし、その中で、「今やれる事」もだんだんと見えてくるようになる。
 
いずれにしても、「居場所」を確保し、「現実」を受け入れていく事で、ゆっくりとではあるが確実に歩みは進み始める。そして、本人なりの、あるいは本人を支える家族の人それぞれ独自の、これからの「ビジョン」と、「今やれる事」や「もう少ししたら出来るようになるかも知れない事」が見えてくるようになる。これらが「ステップ」すなわち(短期的な課題・目標)である。これについては、次回に詳しく検討してみよう。


2007年07月22日(Sun)▲ページの先頭へ
ビジョンとステップ@
はじめに
 
伊勢志摩地区での相談や三重県・考える会での発言の中で、時々、ビジョン(将来的な目標)とステップ(それに向かって持続的に努力可能な短期的課題)について触れる事がある。本人にとっての具体的な課題としてのステップという視点ばかりでなく、家族をはじめ周囲で支える人々の具体的な課題としてステップを考えていく事は、さまざまな意味で重要な事を多く含んでいるので、現時点での私の考る必要を痛感し、その思いがこのレポートである。これからそうした意味のビジョンとステップについて丁寧に考えてみようと思う。
 
 
1、 ビジョン…将来的な目標

 
小泉政権から安倍政権へと首相と内閣は移ったが、政府の、日本の将来に対するビジョンの欠如は一層深刻になった。それを隠蔽するために、安倍政権は議論を回避して強行採決を繰り返し、パフォーマンスによって放置されたより深刻な問題は改善の方向性がまったく見えていないにも関わらず、首相と与党は自画自賛の無責任な言葉を撒き散らして【政治ごっこ】にウツツをぬかしている。が、家族や周囲に不登校やひきこもりの問題をかかえている私たちは、小泉元首相や安倍首相の様に自らの権力維持のために必要な説明をごまかし、追及を受けると感情的な暴言と居直りで相手の論理的な質問をずらし、重大な決定を政争の道具にして権力を弄ぶような時間的・精神的余裕はない。当事者のために、今、必要なものは、将来に向けての納得でき、努力する気力を失わせないような希望である。それが、本人と家族や周囲の人々の中で明確になれば、努力する方向が見えてくる。そうした意味でのビジョンについて…本人のビジョンとそれを支えようとする家族のビジョンについて考えてみたいと思う。
 
まず、当事者本人について考えてみよう。不登校・ひきこもりの問題で苦しむ当事者の中で少なからず見受けられるのが「どうせ私なんか…」という否定的な思いである。それは、1つは自分に対する自信のなさと将来に向けての展望が見えてこない事による焦りや苛立ちに由来するケースが多い。したがって、ある意味ではそこがはっきりしてくれば、精神的にも落ち着きを取り戻し、目標に向かって努力するための第1歩を踏み出す事が可能となる。そして、可能な範囲での努力を確実に積み上げていく事が自信につながり、自己肯定にもつながっていく。
 
だが、自信や自己肯定は、実は不登校や引きこもりとはまったく無関係に見える「普通の人」にとっても、けっこう重要な課題になっている場合がある。授業中に携帯電話でメールをしたり、大人に怒られるような事を繰り返したりする「元気な高校生」たちの中にも、自分の夢や希望が見えない苛立ちから反抗や非社会的行動を繰り返す者が少なからずいる。
 
高校生たちばかりではない。その意味では、どこかの国の総理を務めた小泉純一郎や時代遅れの「情」で身内だけをかばい、国民の激しい怒りに対しては非常に鈍感な某国の安倍晋三などもそうした例に当てはまるかも知れない。国の将来に対するビジョンも何もないがゆえにまともな説明も出来ず、「丸投げ」や「感情的な言い逃れ」を繰り返す。国の将来ではなく「権力維持」のための「自分の決定」に固執し、状況が変化してもそれを認め改めるという事ができず(改めれば権力の座から滑り落ちるという恐怖感があるからかも知れないが…)、自分を守るという目的だけのために、矛盾が露呈している方向へしゃにむに周囲を強制して進んでいこうとする。この様な子どもっぽい行動を見ても、「現実認識能力」を持たない彼らの「現実」やその頼りない力量が浮かび上がってくる。
 
こうした例からも分かるように、ビジョンを持つ事はかなり大変である。それは、人間関係に問題を抱えている不登校や引きこもりに悩む当事者にとっては「普通の人」以上に重い…と感じられる「大変さ」かも知れない。その「大変さ」を意識しつつも、私はやはり「ビジョンを持つ事が大切である」と伝えたい。その上で、付け加えたいのは、何も「完全無欠」の変更のきかない「ビジョン」である必要はない、という事である。
 
それを探すキー・ワードは「自分の好きな事」あるいは「自分が穏やかな心で取り組める事」であろう。例えば、花に囲まれていると落ち着く…というような人は、それを生かして何かをする事を考えればよい。華道から日本文化の研究へ進んでいくかも知れないし、園芸から農業への道を選択するような場合もあるかも知れない。とりあえずの方向性を決めて、それにそった活動や勉強を続けていく中で自分の中に見えてくるものがある。地道に続けられる活動や勉強が、自分の心を安定させ、力を育てていき、自信と自分を取り巻く世界に対する信頼感を回復させる。その中で新たな道が見えてきた場合は、ビジョンを修正していけば良いのである。
 
そうした発想は、ある意味では周囲の人々、特に家族においても同様だが、正直な話、家族の立場からすれば、それなりに自立して、地域の中で社会生活を営んでいけるような力を身につけ、将来的に自立していければ良いと考えれば取りあえずは十分ではないかと思われる。
 
何も、本人が接触する、あるいは出会うすべての人と上手に関係を結ぶ必要はないし、世間一般と比較して飛びぬけた収入や地位を望むような「押し付け」は、真摯に不登校やひきこもりの問題と向き合い、その現実から多くを学んだ人たちとは無縁の考えだと想像できるからである。
 
しかし、大切な家族や関わりを持つ相手の事を真剣に思っていれば、「それなりの自立」という実体は必要だと考えるであろう。自分たちの暮らす地域社会で、多少不器用ではあっても、それなりに生活を維持していければ、それは「自立している」と見てもかまわないだろう。だから、非常に大まかな表現になるが当事者の「それなりの自立」という事は、家族や周囲の人々にとって、当面のビジョンとなり得るのである。
 
何も、東京へ行っても札幌へ行っても、パリやバンコクへ行っても、すぐに自立できるような能力が普通の人間に必要なわけではない。必要なのは、自分が暮らす地域で、周囲の人や自分にとって大切な人との関係をきちんと結びながら、家族トータルとして経済的にもやっていけるという確信が持てることが「それなりの自立」の中身だと考えて良いだろう。
 
そのように肩の力を抜いて考えると、精神的にも日常的にもゆとりが生まれてくる。時間の経過の中で「ビジョン」は微妙に変化していっても良いだろうし、当事者の「現実」が変化していけば、当然「ビジョン」そのものも変化してくる事を前提に、周囲のサポートもその変化に合わせて変えていけばよいと言う事になる。
 
ゴールという意味ではなく、当面、高卒の資格を取ることを目標として設定するとしよう。当事者の現実を見つめていけば、通信制・定時制・大検など様々なルートの中で、当事者の個性やその時点の力量から考えて何とかなりそうなルートが見えてくるかも知れない。
 
それに伴って、学力面、体力面、対人関係面など、様々な課題もまた見えてくるだろう。どこから手をつけ、どこを後回しにし、それぞれについて誰から、どのようなサポートが受けられるのか。それらの点は状況によって異なるし、また変化もするだろう。そして、場合によっては「高卒の資格」を必要としないルートに進む事になるかも知れない。けれども、きちんと取り組み、1歩ずつ歩みを進めていった結果の変更であれば、それはそれでかまわない。大切なのは自分で考え、納得して進んでいく事なのである。
 
それぞれの状況や個性に合った方向性、それが必要な「ビジョン」であり、それはまた、状況の変化に合わせて修正していけるものでもある。短期的な「結果」に拘ったりせずに、じっくり、そしてゆっくりと歩みを進めていくという覚悟と決意が、結局は状況を好転させていく事につながっていくだろう。そのような気持ちで日々の努力を続ければ良いのである。
 


2007年07月06日(Fri)▲ページの先頭へ
いじめにどう取り組むか 〜不登校の現場から〜 D
5、大人社会の問題
・大人社会にもいじめはある
・地域や学校との連携
・家族の時間

 
さて、いじめについていろいろ述べてきました。が、お気づきの方もおいでだと思われますが、実は、今まで述べてきたのは「子どものいじめ」に限定しての話になります。けれども、実は大人社会でもいじめはあり、場合によってはより陰湿で悲惨な事例もあります。リストラという言い方で行われた労働者削減の嵐が吹き荒れた時期には、「これがまともな大人のすることか」とやった人々の神経を疑うような陰湿・悪質なものがありました。また、パートや派遣労働者の待遇や扱いについては、いじめとしか言いようのないものも見かけることがあります。実は、大人社会にもいじめや差別、弱者切捨てが横行しているのです。
 
私の関わっている事例では、就職まで何の問題もなくきちんとできた人が、会社での人間関係や仕事を通じて人間不信に陥り、ひきこもりになってしまった、という例もあります。それを考えれば、「いじめ」は子どもの問題に矮小化してはいけないのです。
 
ホワイトカラー・エグゼンプションの導入に関わっての議論でも、残業に対する保護規定を大企業が都合の良いように、つまり働く労働者に対する残業代の支払いの規定を緩めて労働者の不利益になるように進めようとした経緯があり、結局、多くの反対にさらされて法制化は一旦見送られました。障がい者自立支援法も、実態として障がい者自立【阻害】法になってしまい、自殺者まで出しています。
 
大人が低賃金の長時間労働に縛り付けられてストレスをため、余裕をなくした結果、それを無意識的な「いじめ」によって発散するような事例。あるいは、自覚も能力も無い「上に立つもの」が、目先の利益、自分の利益のために意識的に下の者をいじめて追い込んでいく事例。ある人を辞めさせるために、自分の部下を使って「いじめ」をさせるような現実もたくさんあります。
 
こうした日本における現実社会の矛盾が、弱い立場にいる人をさらに追い詰めています。自殺者が三万人を越えて高止まりなのに、なかなか有効な手立てが講じられないのはどうしてでしょうか。サービス残業と言い方を変えて、不法な賃金不払い労働がごまかされている現実を考えれば、ウツや自殺が減らないのは、ある意味では当然なのです。
 
そうしたことも含めて考えると、日本における現実社会の矛盾が、弱い立場の子どもたちに投影され、事件となって噴出していると言えるのかも知れません。子どもたちの「いじめ」事件が多発する背景には、大人の心の荒廃やゆとりの喪失、「いじめ」の蔓延が考えられるのです。よく考えてみてください。大人に、子どもたちを十分にケアできるような時間的なゆとりがどれだけあるかを…。
 
アメリカで起きたコロンバイン高校での射殺事件の加害者の母親は何時間もかけて職場に通い、一生懸命働いても貧困から抜け出せず、生活費を稼ぐための労働に追われて子どもたちと過ごせる十分な時間がとれない状態でした。
 
具体的な事件としての「子どものいじめ」は、大人として対処してあげなければならないでしょう。しかし、それだけではいじめは減っていきません。自分自身が「いじめ」に関わっていないか、「いじめ」を許していないか……ということを、子どもたちばかりでなく大人自身もきちんと見つめ直し、自らの行動を修正し、社会を変えていく努力を続ける必要があるのではないでしょうか。おかしくなってしまった大人社会もまた、大人の責任で共生と弱い立場の存在への共感に満ちた社会へと変えていく努力が必要だろうと思います。
 
例えば、1日の労働時間の目安とされる8時間は、1日の3分の1になります。3分の1を労働に、3分の1を家族と共に過ごす時間や地域の人々と過ごす時間に、そして残りの3分の1を休息に充てることが出来れば、学校や家庭との連携や地域の中での連携はずいぶんしやすくなるのではないでしょうか。そして、十分な連携に支えられて育つ子どもたちは、心豊かな大人に成長していけるのではないでしょうか。
 
けれども、そう簡単にいかない「現実」は確かに存在します。でも、今、【私個人】ができる、多分あまり無理をしなくても続けられることが、何か必ずあるはずです。小さなことでも、お互いに支えあって出来ることを探し、みんなで子どもが健やかに育つような学校や地域社会を作っていければいいのではないかと思います。
 
〔終わり〕


2007年07月05日(Thu)▲ページの先頭へ
いじめにどう取り組むか 〜不登校の現場から〜 C
4、どうケアをしていくか
・いじめられている子
 まず、守る/登校させないことも一つの選択
   心のケア 生活のケア 学習のケア
・いじめている子
 自分の行動の意識化
   不安やストレス、いじめや虐待などの問題はないか
・周囲の子
 いじめを許さない集団を作る
 ひとりではなく皆と止める
・大人の協力体制
 
 
さてここで、【いじめ】に対してどう向き合い、どのように対応していくかについて、もっと詳しく考えてみましょう。先ほど簡単に述べたものもありますが、具体的にどう考えてどう行動していけば良いかを知りたいというのが皆さんの思いでしょうから、あらためて述べることは特に大切なことであると思ってお読み下さい。
 
教育相談の中で何度も言った経験がありますが、最初に手を打たなければならないのは、いじめられた側の心身の安全と安定の確保です。これは、【いじめ】が分かった時点で、何をおいても最優先に手を打つ必要があります。早急に、その「いじめ」の現場から保護するのです。学校でいじめがあるなら、学校を休ませる……というのも1つの選択肢になります。「現場」から引き離して保護することによって、いじめられていた子を落ち着かせるのです。つまり、緊急避難の選択としては「不登校」もその1つになり得ると考えてください。
 
次に、いじめられ続けていると、自分の存在に対して自信を失い、「いても仕方がない」「生きていても仕方がない」などという自己否定感につながる思いに取り付かれてしまっている場合が少なくありません。ニュース等で報道される遺書の中身にこのような言葉が入っているのを見かけることが少なからずあるのはそうした理由からです。だから、周囲が、「あなたはかけがえのない存在なのだ」ということをきちんと伝え、自信を回復させていく手立てを取る必要があります。それも、早急に取り掛かることが要求されます。
 
ただ、場合によってはそれなりに時間がかかるのだ、と覚悟しておく必要はあるでしょう。具体的には、本人が好きなことに関わる活動や続けて取り組めるような活動を通じて、「やりとげた」という実感と、周囲からの肯定的な評価が積み重ねていく事が良い結果につながりやすいです。「やりとげた」という実感や周囲からの肯定的な評価が積み重なってくると、少しずつ自信も回復し、自己肯定感も出てきます。けれども、いじめられている期間が長いほど、自信や自己肯定感を回復させるのは大変で、時間もかかります。場合によっては半年や1年ですまないこともあります。それでも、愛情を持って辛抱強く接していくことが大切なのです。
 
学校を休んだりしている場合はもちろん、そうでない場合も学習に集中できるような精神状態ではないことも少なくありません。だから家族はもちろん本人も、たとえ口に出してはいないとしても、学習面での遅れは気になるところです。だから、ある程度精神的に落ち着いてきた段階で、学習面でのサポートをしてあげられれば一層良いと思われます。割と真面目なタイプも多いでしょうから、本人としても、学習の遅れは多少なりとも気になっているでしょう。
 
ただ、その時に、ブランクの期間のすべての学習内容に意識を向けさせ過ぎないように注意する必要はあるでしょう。すべての子が、すべての学習内容を完璧に分かっているわけではありません。だから、出来ることから少しずつ積み上げるように、小さな目標を設定して、それを少しずつ確認しながらクリアしていく…という形で学習を続けられるようにしていけばいいのです。積み重ねた時間とクリアした量がやがて自信につながり、自己肯定感になっていけば、他の面にも積極的になれる場合も出てきます。本人に「こんなにやらなければいけないのか…」という思いを持たさないように、そして「ああ、ここまでできるようになったんだ」という実感が持てるように接していくことが大切なポイントとなるでしょう。
 
それから、当然のことながら、加害者のケアも大切です。1つは、いじめだと気づいていないケース……。先ほども述べましたが、遊びのつもりでからかい続けていることが「いじめ」になってしまっていると本人たちが気づいていない場合は、それを教えてあげる必要があります。友達関係の中でお互いにからかい合うのは時々見かけられることですが、それが一方向で続いてしまっている場合は「いじめ」になるのだと強く認識させなければならないでしょう。自分がからかい続けられる立場だったらどんな気持ちになるかをきちんと考えさせ、相手への共感を育てていく。同時に、からかい続けている背景には、何らかのストレスの発散である場合も少なくないので、その原因を見つめ直し、改善できることは改善していけるようにサポートしてあげることも必要ではないかと思われます。家や学校でのその子の生活を見つめ直し、大人としてその子との関わりの中でできることを、その子の心に寄り添いながら考えていけると良いのではないでしょうか。
 
しかし、「いじめ」だと知っていながらやっている場合は、いじめている子どもの心の闇は深く、いじめそのものを止めるにも、その子どもをサポートしていくにもより一層きめ細やかな対応が必要になります。恐喝や悪質な暴力行為など刑事事件に発展してしまうような深刻な「いじめ」になっていくような可能性もありますので、場合によっては警察など法的な介入も含めて、まず強制的に「いじめ」を停止させる手立てが必要になります。ただ、子どもである以上そこまで精神的に荒廃してしまっている背景に目を向け、立ち直っていけるような丁寧できめ細かいサポート体制を周りに作っていかなければならないでしょう。時には、心から信頼している人間がその子どもの周囲にいないこともあります。そのようなケースでは、他者との関係作りや、その子の居場所作りから始めていかなければならないし、当然、時間もより一層長くかかるであろうということも覚悟しておく必要もあるかも知れません。
 
もう1つ、周囲の子どもたちに対するケアも大事になります。「いじめ」そのものを許さない雰囲気を作ることによって、関係は豊かになっていくものです。だから、子どもたちの集団を「いじめ」を絶対に許さないものに変えていくことは、子どもたち1人ひとりのこころを豊かに育てていくこととつながっているのだ…ということを大人たち自身がしっかりと心に刻んでおく必要があると思うのです。
 
確かに、1人で行動を起こすのは大変かも知れない…ということは共感しつつ、それならば他の子どもたちと一緒になって「いじめ」を止めるアクションを起こせるようにする、という方向に導いていくことが大切でしょう。具体的には、他者、特に止めてもらえそうな相手に事実を伝えることから始め、やがては、その「場」でも、「いじめ」を制止できる仲間や関係を育てていく……ということになるのではないかと思われます。
 
例えば、「ドラえもん」を例に考えてみましょう。ノビ太がジャイアンにいじめられている時に、静香ちゃんや出来杉くんが止めれば、いじめは止まるのです。けれども、スネオが止めても多分止まらないだろうし、返ってスネオがジャイアンにいじめられる危険性は高いでしょう。だから、スネオはジャイアンのいじめを止めることはできません。でも、スネオがいじめを止めたら静香ちゃんや出来杉くんが必ず一緒に止めてくれると信じられたら、スネオもいじめを止めることが出来るようになるのではないかと思われます。
 
実際、子どもから「クラスの子がいじめられている」ということで相談を受けた事があります。その時には、まず、そうやって言えた事を褒め、それから、言ってきた子どもたちにも確認して、私から担任の先生に伝えることにしました。加えて、本当は、その場で止めてあげられると一番良いけれど、1人では難しいなら、仲の良い友達と一緒に止められると良いね…という話をしました。それができなくても、誰か信じられる大人に話して、何とかいじめを止めさせるように動くということはとても大切だ…という話もしておきました。もちろん、時間をかけて丁寧にやっていかなければならない事ですが、いろいろな形で子どもたちを支えてやるような努力を積み重ねることが大人としての責任だろうと思います。
 
そのために必要なのは、大人の協力体制です。「犯人(原因)探し」や「責任逃れ」で時間を浪費してしまうと、肝心の子どもたちの心がより深く傷ついてしまいます。当事者や周囲の子どもたちの立ち直りや人間関係を深める経験としての「事件」にしていけるように、家庭と学校、地域の大人たちの力を結集していけるような体制を作っていけるようにしていく努力が大人の側にも必要ではないかと思います。
 
もちろん、時間もかかります。というよりも、子どもと一緒に過ごす時間をそれなりにきちんと取っておく必要があるでしょう。それだけでなく、親同士で、あるいは親と学校の間で安心して話が出来る関係を作っておくことも大切です。そして、みんなの力を結集して子どもたちを育てていくのです。



2007年07月04日(Wed)▲ページの先頭へ
いじめにどう取り組むか 〜不登校の現場から〜 B
3、いじめについて
・なぜ、いじめが起きるのか
   被害者の心
   加害者が意識している場合/意識していない場合
   周囲の子どもたちの姿勢
   大人の姿勢
 
ここで、【いじめ】そのものについて、もう少し詳しく考えてみましょう。昨年からずっといじめに関係するニュースが続いています。そして、最初に触れたように、【いじめ】そのものは今の日本の学校だけに多発している訳でもありません。しかし、今の子どもの間での【いじめ】が昔以上に被害者の心に深い傷を残す可能性が高いことに気づいている大人はそれ程多くはありません。そして、加害者や周囲の子どもたちの心にも悪影響を及ぼしてしまうことを理解している大人はさらに少ないのではないか……と思われます。ある意味では、【いじめ】はその被害者や加害者だけの問題ではなく、彼らを含めた子どもたち全体に影を落とす問題なのです。
 
それを考えれば、「うちの子はいじめられていないから…」とか「うちは関係ないから…」といった態度でいては、子どもに対する大人としての責任を果たしてない…ということになり兼ねません。直接、いじめたりいじめられたりしていなくても、知っていながら周りで見ているだけの場合だってあるのです。それが、子どもの心の成長に悪い影響を与えるとしたら、親として、教師として、大人として放置してはおけないと思います。
 
今の子どもたちは、昔の子どもたちと比較して、兄弟姉妹や地域の異年齢の子どもたちの間で遊んだりけんかをしたりする経験が以前よりも減少しているために、全体的に対人関係のストレスに対する耐性(がまん強さ・うたれ強さ)が弱くなっています。そのため、少しのことで暴発したり、自信を失ったりする不安定なところがあります。それが、いじめ問題に悪影響を与えるところがあるのです。だから、逆に、明らかになった【いじめ】を《1つの事件》として、大人たちの適切な関わりによって、子どもたち皆の【良い経験】にしてやれるように導くことができれば、子どもたち1人ひとりの心の成長につなげられます。そのような関わり方ができるように大人たちも協力し合い、力をつけていくことが必要ではないかと思われます。
 
少し話が逸れました。いじめ関係の中での子どもたちの心について考えてみましょう。
 
まず、いじめられた側の子の心について。特に、いじめを長期間にわたって受けた子どもは心に深い傷を負っています。私は、大学4年生の頃から5年ほど、被差別部落にある児童館の館長さんの努力でスタートした【子ども村】に参加した経験があります。1週間の間に、何人かの他の大学生たちと地域のお寺に泊まり、皆で協力して、地域の小・中学校の子どもたちと一緒に遊んだり、勉強を教えたりしていました。その時に子どもたちが良く言っていたのが「どうせ俺はあほやもん」という言葉でした。家で、学校で、そう言われ続けることによって、自分は勉強が出来ないのだと思い込み、勉強する意欲そのものを失っていたのです。それが、1週間の大学生たちの励ましの中で、その言葉を否定する力が生まれ、実際に勉強に少しずつ取り組めるようになり、今までどうしても出来なかったことがわずか数日で出来るようになっていきました。逆に言えば、否定的な言葉や対応がどれ程子どもたちの心を傷つけ、意欲や自信を奪っているかが実感できた出来事でした。
 
長期間いじめられ続けた子どもも同じです。自分に自信を失い、意欲を失って、自分の存在そのものが意味のない、つまらないものに感じられ、他者と接するのが怖くなるのです。DV…パートナーによる暴力などでも構造は同じで、被害を受け続けることにより、自分が取るに足らない存在だからこそいじめられ、暴力を受けるのだと信じ込んでしまい、悲惨な日常を受け入れてしまうのです。そうなってしまうと、自分も周りの人も信じられませんから、いじめや暴力が理不尽であり、自分が被害を受けているのだというSOSを発することもなかなかできません。そこまで心が傷ついていると、被害者からの発言を得るのは本当に難しいのです。ニュースなどで【いじめ】の事件の報道を聞いていると、「なぜ、言えないのか」という疑問がわいてくるのではないかと思います。その理由の1つは、弱い自分を家族に知られたくないというプライドの問題がありますが、もう1つ、自分に自信を持てなくて取るに足らない、助けを求めるにも値しないつまらない存在なのだ…と思い込んでいる部分もあるからではないだろうかと思われるのです。
 
次に、いじめる側の心についても考えてみましょう。実は、いじめる側には、それをいじめだと意識していない場合と、意識している場合の2つがあります。
 
意識していない場合は、それに気づかせることで状況はかなり改善されるものです。とても仲の良い友達同士の場合でも、時には相手をからかうことがあります。からかわれた方は、多少、嫌な思いやバツの悪い思いをしますが、場面が変われば逆になるような場合はお互い様で、関係を深めるちょっとしたアクセント、お寿司のワサビのようなものです。少し前でしたか、中学校時代の親友と話をしていた時、彼に酒が入っていたこともあり、ひどく絡まれ不快な思いをしたことがありました。けれども、長年の親友ですし、まあ時にはそんな事もある。お互い様なのです。けれども、からかいが一方的で、ずっと続いているようなら、それは「いじめ」になっていくのだ…ということを周りの大人が教えてあげればいいのです。
 
それと共に、生活や勉強の中でムシャクシャしたり、イライラしたり、ストレスをためたりしていることはないかを考え直してみるように仕向けてやるといいでしょう。大人だって、ストレスがたまったりイライラしたりしていると、他の人をからかったり、イライラをぶつけたりするものです。成長期の不安定な子どもは、大人よりもストレスには弱いでしょうし、自分の心を見つめなおす力も十分には育っていませんから、あまり深く考えずに、つい周りの子どもにあたってしまう。それが、本人も気づかないうちに「いじめ」になってしまうこともあるのだ…ということです。それを意識させ、同時にストレスやイライラと上手に折り合っていけるように周りの大人が手助けしてあげられると、「いじめ」も消えていくでしょう。
 
意識していじめている場合は、もう少しやっかいなことになります。その場合は、過去にいじめられた経験を持っているか、他の場でいじめや虐待、耐え切れないようなストレスやプレッシャーを受けて深く傷つき、心が荒んでしまっているからではないか…と思われるからです。他者を大切にできないことは、実は、自分がかけがえのない大切な存在であると実感できていないこととつながっています。自分が大切な存在だとは実感できないからこそ、未来も何も関係ない、今さえ良ければ良い…ということになり、今のイライラやストレスを発散するために弱いと思われる人間をいじめたり、自分が面白おかしく生きるために弱い相手に圧力をかけて思い通りに動かそうと考えたりしているからです。あるいは、暴力を誇示することで自分自身が「強い存在」であり、「大切に扱われてしかるべき存在」であると認めてもらいたい、と望んでいる場合もあります。しかし、努力の方向が間違っていますから、当然、そうした思いは周りには伝わらず満たされない。けれども、別の努力の方法は知らないので、さらに言動をエスカレートさせ心が荒んでいく……ということもあります。
 
だから、大人の側でいじめそのものを強制的に止めると共に、実は深く傷ついて荒んでいるその子自身の心ときちんと向き合い、しっかり関わってあげながら、その子自身も、他の子もかけがえのない大切な存在であることを実感させていくような息の長いサポートをしていくしかないでしょう。時間はかかるでしょうが、それこそ、その子が立ち直り、人間的に成長していくのに必要なことなのです。
 
それから、意外と目が向かないものですが、周りのいじめを知っていながら止めようとしない子どもたちにもいじめの悪影響は及びます。「ドラえもん」で言えば、ジャイアンがノビ太をいじめているのを見て知っているのに、止めようとしないスネオや静香ちゃん、出来杉くんにも問題はあるのです。学校で作文を書かせれば、ほとんどの子どもが「いじめはいけない」「いじめは悪いことだ」と書くでしょう。家で話をしていても「いじめはいけない」と、みんなが口にするでしょう。その意味において、子どもたちも分かっているのです。けれども、誰も止めない。あるいは、止められない。それは、どうしてなのでしょうか。
 
以前、中学校で公民の授業をしていたとき、平等権を教える際に「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」のビデオを見せたことがあります。沖縄出身のシナリオライター・上原正三が脚本を書いているもので、冒頭から中盤にかけてひどいいじめのシーンが出てきます。子どもたちばかりでなく、町中の人々が少年をいじめるのです。パン屋へお金を持っていってもパンさえ売ってくれません。たった1人、とぼとぼと帰ろうとする少年に「うちはパン屋だから」と言ってパンを手渡したパン屋のお姉さんを除いて……。それを見た後の感想で、1人の女の子が「私は、パン屋のお姉さんのようにはできません。それをしたことで、今度は、自分がいじめられるようになるかも知れません。それが、とても怖いからです」という感想を書いてきました。これが、子どもたちの正直な声なのです。
 
いじめが悪いことだと思っていてもそれを止められない、という体験を積めば、子どもたちはどうなるでしょう。悪いこと、不正があっても、声を上げられない大人に育ちます。その結果、悪はどんどん社会にはびこり、地域社会は荒れ、すさんでいくでしょう。自分の子どもを、自分の受け持っている子どもを、そのような大人に育てたい、荒れてすさんでいる地域社会で暮らさせたい、そんなことを望んでいる方はいるでしょうか。1人もいないと思います。
 
しかし、いじめを止めに入ったら周りの子どもたちも同調してくれる、先生も周囲の大人も助け、支えてくれるという信頼があれば、1人でも止めに入ることはできます。そのような信頼関係、実感を、子どもたち1人ひとりの心に育てていくことが大切なのです。



2007年07月03日(Tue)▲ページの先頭へ
いじめにどう取り組むか 〜不登校の現場から〜 A
2、いじめと不登校
・いじめが不登校の直接の引き金になることも少なくない
・一つの事例

 
さて、私は伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の事務局と三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の創立から関わっている世話人をしています。また、その関係で、昨年末からいじめ電話相談ネットワークの1員にも名を連ねています。不登校やひきこもりの問題と、会が発足する準備の頃から数えただけでも7年ほど関わっていることになります。実際は、大学の卒業論文で夜間中学を取り上げ2週間に1度は大阪の夜間中学に通っていた時期もありますから、当時の夜間中学には既に登校拒否・不登校の経験者がいましたし、また、後に不登校の子どもの学習支援に関わっていたこともあり、それも考え合わせれば20年以上の関わりになります。
 
そして、その関わりの中で聞いてきた相談を振り返ってみると、いじめが不登校やひきこもりの引き金になることも少なくありません。小さな相談グループ場でならばともかく、講演と言う場ですので、それらを詳しく話す事は出来ませんが、プライバシー等も考慮した上で、1つだけ、簡単に事例をあげておきましょう。
 
ある高校で、1人の生徒がいじめられました。1度や2度ではなく、長引いたので、やがて家族にもわかりました。中学校からの友達も心配して声をかけてくれたようです。もちろん、家族は学校に訴えたのですが、簡単には解決しません。結局、その生徒は学校に行かなくなりました。ご両親の話では、中学校の先生方が支えてくれてはいたようですが、高校の担任の先生の動きは鈍く、学校長は体面を気にするだけで、いじめられた子の立場に立って話を聞く姿勢は見られず、その生徒は家族とも相談して退学するという選択をしました。
 
彼は、高校には不信感を持ちましたが、家族や中学校の先生や友人たちがきちんと支えていたので、大人や人間に対する不信感を持つには至りませんでした。もちろん、精神的には苦しんでいましたので、すぐに新しい活動へと進むことはできませんでした。いじめや退学という経験の中で、精神的な疲れもあったのでしょう、半年ほどあまり外へは出ませんでした。

しかし、家族は彼を理解し、支え続けました。半年ほどして知人の紹介でアルバイトをはじめました。すべての時間ではないにしても中学時代の友人も一緒でしたし、何よりも職場で可愛がられたようで、次第にアルバイトの時間も長くなり、バイト先の先輩と遊びに行ったり、その先輩のところに泊まったりもするようになって元気を取り戻しました。そして、アルバイトでお金をためて、そのお金で自分の好きな専門学校に行く…という目標を持つようになりました。現在は、その目標通りに、アルバイトをしながらその学校に通っているようです。



2007年07月02日(Mon)▲ページの先頭へ
いじめにどう取り組むか 〜不登校の現場から〜 @
いじめにどう取り組むか 〜不登校の現場から〜

 
 
1、いじめ……どこでも起こり得るもの
・犯人探しで責任を押し付けあうよりも、どう改善していくかが大切
 
【いじめ】は、いつでも、どこでも起こります。ニュースでは、日本の学校現場での【いじめ】やそれに関わっての自殺が取り上げられ、大変な問題になっていますが、実はオーストラリアやアメリカなどでも大きな問題になっていますし、タレントとして日本で活動しているアグネス・チャンさんも香港でいじめられた体験を本の中で書いています。日本の大人社会においても職場でのセクハラやパワハラという言葉をよく耳にしますが、あれも【いじめ】と言って良いでしょう。あるいはリストラという名の首切りを目的とした無視や仕事を与えないなどの陰湿な【いじめ】が数多くあります。また、昔の日本でも学校生活において、あるいは地域での活動や遊びの中で、それなりに【いじめ】はありました。
 
例えば、私にも、いじめられていた時期がありました。発端は、クラスのある男の子が持ってきたギンヤンマが死んでいたのを、私が踏んだという言いがかりをつけて、数人で責めてきたことでした。もちろん、私は知らなかったし、誰かがそれを見ていたわけでもありません。それから毎日のように学校でいじめられるようになりました。そのいじめは、3、4ヶ月は続いたのではないかと思います。
 
けれども、私には彼らとは別に友達がいましたし、算数や国語の勉強も彼らよりはよく出来ました。当時は「となりのトトロ」の時代よりも少し後、大阪万国博覧会の少し前の頃でしたから、子ども社会・特に男の子たちの間では虫取りの技術や早く走れること上手に泳げることなど、外での活動がみんなの中では高く評価され、勉強など日常生活ではあまりたいしたことはありません。それに私自身は外で遊ぶよりも本を読むことが好きでしたから、外での活動は他の男の子たちよりも不器用でした。それでも、何かしら彼らよりも上だ、と自他共に認めることのできるものがあることが支えになって、何とか和解することができました。
 
その後、いじめていた中の1人がひどく担任の先生に叱られ、他の子が寄り付かなくなったことがありました。しかし、私は1人で彼の家に遊びに行ったり彼と一緒に勉強をしたりしていました。後になって、彼や彼の家族にとても感謝されていたらしいことを聞いたりもしました。今も彼はもちろん他の同級生たちとも、とても仲良くやっていますが……。
 
とにかく、いじめは、1人ひとりの人間の心の弱さが根本の原因です。特に、心が弱い人間ほど、自分よりも弱いと考えている相手をストレスや些細な理由でいじめます。そして、それによって、自分の弱さを他者の目からも、自分自身の目からもごまかしているのです。もちろん、そんなごまかしは、本当に心が強い人には通じず、見破られてしまいます。その意味で、本当に心が強い人はいじめなどしません。その必要がないからです。でも、ご存知のように、本当に精神的に強い人はなかなかいません。だから、いじめはなかなかなくならず、いつでも、どこでも起こり得るものなのです。
 
特に、子どもの時期は、精神的に充分に成長しておらず、ちょっとしたきっかけでいじめが始まり、それが一気に暴走してしまう場合がままあります。ただ、あくまでも成長途上ですから、それを、大人の関わりによって1つの、単なる一過性の「事件」にしてしまい、関係した子どもたち1人ひとりの心を強くし、成長させていくための【良い経験】にしていくことが大切なのではないでしょうか。
 
事実関係を可能な限り明確にし、原因をある程度はっきりさせる必要はあるでしょう。けれども、それを「犯人探し」に終わらせてしまっては、絶対に子どもたち1人ひとりの【良い経験】にはできません。大人としての責任の取り方…はある程度必要でしょうが、それよりも子どもたちのために関係者が協力し合って【未来】を考える契機にしていくことの方が大切ではないかと思います。

〔つづく〕


2007年07月01日(Sun)▲ページの先頭へ
耳をすませて
耳をすませて
 
 
先日、久しぶりに『モモ』(エンデ/岩波書店)を読み直しました。作者のエンデは1995年に亡くなりましたが、その作品は今も世界中の多くの人々を魅了し続けています。
 
映画化もされ、エンデ自身も少しだけ映画にも出演しているというこの作品の主人公モモには不思議な力が備わっています。それは、他の人の話を聞くのがとても上手いことです。町の人は、困っている仲間にこんなふうに声をかけます。「モモのところへ行ってごらん」と。
  
子どもに過ぎないモモは、お金を持っているわけでも、アドバイスをしてくれる訳でもありません。ただ、素直に、そして一生懸命に聞くだけです。けれども、モモに話し終わる頃には、何か良い考えが浮かんできたり、気持ちが楽になったりするのです。だから、聞き上手のモモは、人々にとってとても大切な存在なのです。
 
さてここで、私たち自身の生活を振り返ってみましょう。自分に、安心して話をすることの出来る家族や友達はいるでしょうか。この人なら、安心して何でも話せる。この人といるだけで、ほっとする。そんな家族や友達や先輩や仲間が一人でもいる人は、もしかすると、とても幸福な人かも知れません。
 
別にアドバイスを受けなくても良いのです。というよりも、下手なアドバイスは、聞いていて腹が立つことだってあります。「そんなことは、分かってる。でも、出来ないから困ってるんだ」と心の中でつぶやきながら、相手の得意そうに始めた「正論」や「自慢話」や「体験」を聞くなどという展開になってしまって、返って不愉快になったり、落ち込んだり…。そんな場合も、結構少なくないのではないでしょうか。そう考えると、ちゃんと話を聞いてくれる人の存在は、とても貴重で得がたいものだということが分かるのです。
 
では、私たちは、自分の大切な家族の、あるいは友達や仲間の話をちゃんと聞くことができているでしょうか。少し話を聞いただけで分かったつもりになって、その「理解」の上に立ち、自分に都合のいい考えを無意識の内に押し付けていることが結構多いのではないかと思われます。いいえ、もっとひどい場合は、相手の話をさえぎり、こちらの意見や都合をまくし立てることもあるのではないでしょうか。
 
どうしてそうなってしまうのか。きっと、親しいから、分かっているから、という無意識の甘えを背景に、あるいは相手との上下関係などを背景にして、相手の気持ちに十分に応えずに、つい自分を主張してしまうのでしょう。
 
ただ、相手が普通の状態(精神的にも、状況的にも)であるならば、そうした部分はお互い様だから、何事も無く過ぎていきます。しかし、相手が切羽詰っていて余裕の無い状態であれば、そうした「普通の何気ない対応」が相手の心を深く傷つけてしまうのです。
 
もちろん、いつも「特別に注意を払った対応」を全ての人を相手に出来るわけではありません。と言うよりも、人間にそんなことは不可能であり、無理にそうしようと努力すれば確実に自分の心が蝕まれ、おかしくなってしまうでしょう。その意味では「普通の何気ない対応」というのは、そうならないための無意識の安全弁かサーモスタットのようなものなのかも知れません。
 
また、人間誰しも、精神的に余裕のある時には、わりと他の人の話を聞いてあげられるものです。そういう時に、少し「耳をすませてみる」と、「普通」だと思っていた相手が「普通の状態」でないことに気づく場合があります。そして、モモのように誠意を持って真剣に話を聞き出すと、思いもかけなかった事実や悩みや思いが吹き出す事もあります。しかもその内容が聞く側の人にとっては重すぎて何も出来ない事だってあるのです。
 
でも、慌てないで下さい。無理をせずに出来る事…。そう、モモと同じようにただ、真剣に相手の話を聞き続ける事は出来るはずです。心を合わせてそばにいてくれる、そんな人が存在していると実感できる、それだけで楽になる事があります。下手な解釈や場当たり的な解決策を口にしなくても、自分の辛さや苦しさや悩みを理解してくれる人がいると信じられる事が、人に希望を与えるのです。
 
しかし、精神的に追い込まれている度合いが強いと、自分の辛さにしか目が行かなくなり、その中だけで堂々巡りをしてしまい、手を差し伸べようとしてくれる人に対してさえも心を閉ざしてしまったり、イライラや持って行き場の無い怒りをぶつけたりしてしまう場合があります。そんな時には、それでも聞き続けるというのは本当に辛いことかも知れません。
 
でも、少し考えてみて下さい。他の人には出来ないかもしれないけれど、信頼している相手になら、自分の弱い部分を見せることが出来るし、無理を言ったりして甘えることも出来る…ということが人間にはあるからです。
 
そうした事が少し分かっていると、大切な人が自分にとって辛い言動をしても、何とか受け止められる場合があります。必ず受け止められるとは言いませんが、知識として知っていることで、わずかずつでも許容範囲が広がるという事はあるのです。
 
もちろん、何もかもを自分ひとりで背負えるという訳ではありません。と言うよりも、あまり自分ひとりで背負い込んでしまうと、その許容範囲を超えたときの反動が大きく、返って周囲の人に多大の迷惑を及ぼす場合だってあるのです。
 
私の愛する女性は、わりと優しいところがあるのですが、気が強く、何もかも自分ひとりで背負い込んでしまう傾向があります。身近で接している時はそれが分かっていますから、なるべく一人で背負い込んでしまうことがないように、と気をつけていますが、大事なところで自分の中に溜め込んでいるうちに許容範囲を超えてしまって暴走し、すべてをぶち壊してしまうことも何度かあります。それでも、彼女のすべてに「耳をすませて」いると、後始末の際に「バカ…」とつぶやくぐらいのことはあるとしても、どうしてそうなったか、ということも含めて理解できますから、変わらずに彼女を受け入れ続けることが出来ます。(今だけ…でないことを祈りたいものです)
 
それに、私自身も聖人君子ではありませんので、精神的に余裕の無いときにはバカなこともしますし、他の人の心情にまで思い至らずに無神経な言動をとったりもします。ただ、そういう場合でも、なるべく自分の心に「耳をすませて」心の余裕を失っていないかどうかを確かめるように心がけようとしています。
 
シンガーソングライターの谷山浩子さんの「ひとりでお帰り」という歌の一節にこんなフレーズがあります。

 きみの今のその淋しさが遠い街の見知らぬ人の
 孤独な夜を照らすささやかな灯に変わるだろう

自分の辛さや淋しさや苦しみを見つめ、それを超えて生きていこうとする体験が、
いつしか出会う誰かの辛さや淋しさや苦しみを和らげる力となるかも知れない。そう考えると、まず自分自身の心に「耳をすませる」勇気が湧いてきます。
 
もう一つ、こんなフレーズもあります。

 たとえば夜が深く暗がりに足が怯えても
 まっすぐに顔を上げて心の闇に沈まないで

この歌を聴いていると、自分が辛いときでも、他の誰かのために何かをしてあげられる強さを持ちたい…と思います。まあ、なかなかそれが出来ないから、そう思うのでしょうけれど。でも、自分の心に「耳をすませ」、周りの人々の言葉に「耳をすませて」、今よりも少し強く、今よりも少しだけ優しい自分になりたいと思います。
 
エンデの『モモ』を久しぶりに読みながら、こんなことを考えていました。モモのように、いつでも、自分も含めたあらゆる存在に対して「耳をすませる」ことができたら良いと思いませんか?。私は、そう思います。


   


【サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】は、事務局の浜口が、【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)の世話役をしていたところ、「伊勢志摩にも家族会を!!」という声が上がったため作られたものです。


新着トラックバック/コメント

浜口 拓/志摩市志摩町片田で小中高15校20年の経験とフレネ教育やカウンセリングの知識を生かした《浜口塾》を開いています。教育相談にも応じます。また文学活動などもしています。よろしければ【TAC雑想記】 【TAC文芸樹】のblogも覗いて下さい。

カレンダ
2008年8月
         
21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

アーカイブ
2007年 (32)
6月 (3)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (7)
10月 (1)
11月 (2)
12月 (1)
2008年 (26)
1月 (6)
2月 (1)
3月 (2)
4月 (5)
5月 (1)
6月 (7)
7月 (4)