ことばを育てるために
ことばの教育について、フレネ教育の視点を交えて考えてみた文章です
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2007年07月16日(Mon)
ことばを育てるために
ことばを育てるということを考えると、つい作文や発表、発言について「教える」ことを想像してしまう。しかし、実際に子どもたちと接し、関わりを深めていくと、それに対する疑問が湧いてくる。思えば、子どもの頃、本を読むのは好きでも、その本についての感想文を書かされるとなると途端にやる気を無くし、途方に暮れるということを何度も経験した。それが私の受けてきた「ことばの教育」だった。
それなのに、教える立場に立った途端、それと気付かずに子どもに同じようなことを強制している時がある。ことばを使わせることを強制して、ワクにはめこみ、「教えた」つもりになってしまうのである。こんな時はたいてい、良い作品も少なくなり、結局子どものせいにして逃げてしまうか、自分の力のなさに失望して途方にくれてしまうかのどちらかである。そして、そんなことの繰り返しの中で作文が罰則か何かのようになってしまい、子どもたちから学ぶことの「楽しさ」を奪ってしまうのである。 ところが、ひとたび強制する「教え方」から脱しようとし始めると、子どもたちの表現が変わってくる。硬かった表情がほころび、多様な表現が飛び出してくるのである。多様な表現活動の中で子どもたちの生活が、集団が、そして表現が変わってくる。まさしくことばと生活が深く関わりながら変化してくるのである。しかし、それが「国語」の授業の中で行われるかというと、必ずしもそうとは言えないのである。 学校教育においては、ことばの教育イコール国語教育と考えられている場合が少なくない。しかも、その場合の国語教育は、書きことばと不特定多数に対して話すことばを育てることを中心にして進められる場合がほとんどである。もちろん、そういったことばの教育の重要性を否定するつもりはないし、子どもたちの状況や発達段階に応じてそれらの発達を促していくような教育は絶対に必要である。しかし、少なくとも、現状のような形での国語教育=ことばの教育では問題があると言わざるを得ない。 例えば、表現の仕方、あるいは1つの作品に対する読み取り方を、授業の中で強制するような場合がある。「正解」という名の下に…。そのような「学習」の積み重ねを通して子どもたちの他愛ないが素直なことばが歪められ、沈黙させられていく。岡本夏木氏は、『子どもとことば』という著作の中で「概念のステレオタイプ化や慣習化」という言い方をしているが、それは、このような事をさしているのだろう。 この「概念のステレオタイプ化や慣習化」の傾向は、最近、以前よりも進んでいるように感じられるのは私の気のせいだろうか。テレビやファミコン、塾やお稽古事に追われて子どもたちの日常生活は非常にパターン化した味気無いものになっている場合が少なくない。感動的な体験もないまま刷り込まれるコトバ、言葉、ことば。一瞬のイメージだけが頭の中を通り過ぎ、やがては歪められ、忘れ去られていく。氾濫する言葉の中には、すでに言魂信仰のあった時代の重みや実感は失われ、シャボン球のように流行の風に流され、漂っている。子どもたちの生きることと密着していたことばから、次第にその生命力が失われていこうとしているのである。学校でも、そして家庭でも…。 岡本夏木氏は、『子どもとことば』や『ことばと発達』といった書物の中で、学校での言語教育が「2次的ことば」の習熟に重きを置き過ぎるあまり、生育の過程と深く関わる「1次的ことば」を圧迫し、かえって子どもたちのことばの熟成を疎外する危険性があることを指摘している。そして、その危険性を克服してことばを育てる実践を展開するための指針として次の5つを上げている。@新鮮な経験と獲得したものを現実の場に再適用する機会の創出。A言語を美的表現の手段として工夫し、創造を楽しむ機会の充実。B特定の相手を意識した「1次的ことば」を使用する経験を豊かにする。Cことば以外の表現の動機づけ。D国語以外の教科も含めた広い意味での言語教育の創出。いずれもことばを育てる上でたいへん重要なことだと思う。 これらの点に対して戦前の日本で生まれ、実践されている教育実践の中で、1つの解答を与えてくれそうなものがある。それは生活綴方の教育実践である。 生活綴方の教育は、生活現実に目を向け、それを文章化する活動の中で自らの生活をとらえ直していくというものであるが、その中に「概念くだき」というものがある。慣習化し、ステレオタイプ化した概念を深く生活を見つめ直す中でとらえ直し、より深めていく過程である。しかし、現在の教育実践の中でわたしが注目したいのは生活綴方ではなく、フレネ教育である。 このフレネ教育と生活綴方とは、生活を表現することから出発するという共通点を持っている。しかし、フレネ教育では生活綴方とは異なり、あえて文章表現に限定する形で出発していない。例えば、フレネ教育における「自由作文」は、一応「作文」と訳されてはいるが、その中に絵が入っていたり、あるいはクラスや学校全体という場での発表としう活動と深く結びついたりしている「作文」である。そしてその「自由作文」は、子どもの日常生活や興味から出発し、発表の場での質問や意見交換を通して深められ、様々な学習へとつながっていく。「自由作文」1つを考えてみても、フレネ教育は、国語という枠組みの中に閉じ込めきれない広がりを持っているのである。 自由作文、発表会(コンフェランス)、絵本づくり…。フレネ教育の実践ではさまざまな生活が、様々な方法で表現され、印刷されて、教室に残り、学校間通信を通して、ほかの学校にまでも広がっていく。…もちろん、日本の現場においてそれらすべてをそのままの形で導入できたような例はそう多くはない。それほどまでに日本の学校現場では時間的、空間的、方法的そして教師自身の精神的なゆとりや自由は奪われているのである。 それでも、フレネを知ったことで私自身の子どもに対する見方や、子どもを見つめるまなざしは変わった。今までよりもゆとりを持って彼等を見つめ、今までよりも少しだけ長く彼等の活動を待ってやれるようになった。そして、それが私自身の「ことばを教えること」を問い直すきっかけにもなったのである。 「自由作文」についてもう少し詳しく見ながらこの点についてさらに検討してみよう。 「自由作文」の大きな特徴の1つに絵の存在がある。時にはこの絵が文章以上の「ことば」を伝え、子どもどうしのコミニュケーションを引き出す。この絵が、美的表現としてのことばを引き立たせ、表現の幅を広げていく。それが「国語」という教科の鎖を断ち切るための第1歩となってくるのである。 また、内容を理解する、あるいは、内容に共感するという過程を考えるに当たっても、絵の持つ意味は大きい。理解するという活動において、表現された内容をどのようにして頭の中でイメージ化するかということが非常に大切である。ことばに絵が加わるということはイメージ化という点で明らかにプラスの効果を期待できるだろう。 それから、先にも述べたが、「自由作文」の内容は、子どもたちの生活から出発する。興味や関心が深いテーマの場合は、より深い追及がなされ、ついには理科や社会の教科に関連するテキストにまで発展していく場合もある。学習の展開にワクがないので、自由な発展が可能なのである。 また「自由作文」は、実践の展開の中で発表と深く結び付いている。それが、子どもたちの間のコミニュケーションを活発にする一方で、自らの学びや表現のテーマを深めるきっかけとしても作用する。また、友だちの発表に対して質問をしたり意見を述べたりする機会を通して、学習意欲や表現意欲に火がつくこともある。「自由作文」を書くことから始まる、発表、良い作品を自分たちの手で選ぶ活動、そして印刷(活字化)の過程の全てが1人ひとりの子どものことばを含めた様々な学習そのものとなっているのである。 この発表から印刷(活字化)までの過程はまた、「2次的ことば」の発達とも関わりを持っている。「2次的ことば」は、その表現の客観化ということが大きな意味を持つが、私のささやかな実践を振り返ってみると、活字化するだけでも、それを書いた子どもにとってずっと客観化がしやすくなったという事例が多数存在する。自分の主観的な表現をある程度客観化できるということの持つ意味は、「2次的ことば」の発達の面から考えて、非常に大きなものとなるだろう。 しかし、それに劣らず重要な点が他にもある。それは、「1次的ことば」と 「2次的ことば」相互の繋がりについてである。「自由作文」を書く活動は、子どもたち1人ひとりの生活に根ざしていることから「1次的ことば」と深い関わりを持つが、それが、先に述べた活字化の過程で「二次的ことば」が関わり合う場を設定することになるのである。そして、発表とそれに対する質問意見を言い合う時間は、特定の相手を意識したコミニュケーションの機会にも、クラスという範囲の人数を意識したコミニュケーションの機会にもなっている。さらに発表の場で絵や自分たちで作った作品が示されることもあり、その他のことば以外の表現が出てくる場合もあって、多様な表現を生み出し、また、成長させていく。このような活動を通して子どもたちは表現を磨き、それをより一般的なものとして成立させていくのだが、それはまた、子どもたち1人ひとりのことばが育つ土壌を豊かにすることにもなっているのである。 こうして見てみると、一連の学習活動の展開そのものが、ことばを育てるための様々な機会として機能していることがわかる。しかし、それよりも大事なことは、その活動がまさに子どもたちの生活と関わりを持ち、生活を変えていく力を持っていることである。学習活動が1人ひとりの子どもの生活に還元され、生活そのものにあらためて目を向け、それを変革していくきっかけとしても機能する。つまりそれは単なる「言語教育」を越える大きな広がりを持っているのである。そして、その広がりはまた、ことばを育てる土壌の広がりでもある。ことばを育てることは生活を育てることであり、生活を育てることはことばを育てることなのである。 最近、社会生活の中で、ことばは次第に重みを失い、軽薄に流れていく風潮が強い。そんな中で、重みを持った豊かなことばを育てることの重要性は一層増してきている。だがそれは、生き生きとした経験を伴う豊かな生活(物質的・金銭的にではなく)の土台なしには有り得ない。ことばを育てるためには生活を育てること抜きには考えられない。そしてフレネ教育は実践的にその力を持った教育である。豊かなことばを育てるために、ことばじりにとらわれない豊かな生活教育を追及していきたいと思う。 参考文献 岡本夏木 著 『子どもとことば』 岩波新書179 『ことばと発達』 岩波新書289 |
【サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】は、事務局の浜口が、【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)の世話役をしていたところ、「伊勢志摩にも家族会を!!」という声が上がったため作られたものです。
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浜口 拓/志摩市志摩町片田で小中高15校20年の経験とフレネ教育やカウンセリングの知識を生かした《浜口塾》を開いています。教育相談にも応じます。また文学活動などもしています。よろしければ【TAC雑想記】 【TAC文芸樹】のblogも覗いて下さい。
カレンダ
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