フレネ教育

サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会

2007年08月23日(Thu)▲ページの先頭へ
いじめ・不登校問題とフレネ教育 D
5、不登校・ひきこもりの問題とフレネ教育
  表現と「居場所」
   ・表現、そして「作品」へ
   ・表現から思いを受け止める
   ・居場所、そして関係作り
 
 
私は現在、《三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会》の世話役と、《伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会》の事務局を6年以上続けています。その間に関わった事例の中で、天体観測とパソコンが趣味である当事者をお母さんがサポートして、星の観測会を開催したり、それと関わる「天文だより」を発行したり、といった活動を行ったりし始めた、というものがあります。最初、当事者は、他の人には直接では何も話せませんでした。が、観測会を重ねる中で、集まってくる人々に説明をするようになった、という事を聞いています。まだまだ「経済的自立」というところまでは行かないが、天体写真をカレンダーや本のしおりにして販売するなど、そちらにつながる可能性をもった方向に動いているようです。
 
まず、自分にあった表現を引き出し、それを多用な方向で「作品化」する過程で、他者に対しての回路を開いていく。そこで交流が深まっていけば、そこに本人の「居場所」ができるし、それをベースにして、新たな方向へ次の1歩を踏み出していく可能性も生まれてくる。この事例は、そういうことを教えてくれます。周囲の人々のサポートは、必ずしも十分であるとは言えない場合も少なくありません。それでも、様々な人や組織が、それぞれの立場ややり方で地道に関わり続ける事によって可能性は広がっていくのです。1人ではなく、ネットワークの中でお互いが支えあいながら状況を改善していけるように条件を整えていく事が出来れば、と思っています。
 
現在、月に1度のペースで伊勢志摩の会が、数ヶ月に1度か2度のペースで三重県の会が開催されています。そうした場において、家族の相談にのる際に、実は、フレネ教育でこれまで私が学んできたことがベースになって具体的なアドバイスが可能となっています。そのポイントは、本人の表現を引き出すこと、家族や本人の思いをきちんと受け止めることであり、表現の過程を通して、本人の自我の確立を強固なものにし、それを土台(自信)として新たなステップを踏み出す力をつける事です。
 
中でも、不登校ひきこもり問題への対応に際してもっとも大切なのは、思いを受け止める心の姿勢だと考えています。そしてそれが、対個人の段階に留まらず、より多くの人に共有されていけば状況は改善へと向かいます。1人ではなく様々な立場の人が協力し合いながら環境を改善していこうとすることが大切なのです。
 
もちろん、不登校・ひきこもりの現場は、学校でフレネ教育の実践を行う場合とはかなり条件が異なってはいます。それでも、関係を豊かにし、1人ひとりの自立を目指していくという点において、共通する部分は確かにあるのです。
 
また、本人および家族を孤立から救い、支えていけるような「場」や関係づくりも大切だと考えています。学校現場のフレネ実践を仲間と共に考え、実践していく過程で私の意識の中で形になっていったものが、不登校・ひきこもりの問題や外国人の日本語教育の問題に関わるようになった現在の私のスタンスを定め、問題に取り組んでいく際の土台・力となっているのです。
 
「場」や関係づくりを進めるという発想は、私が今までのフレネ教育との関わりの中で全国の仲間と共に育ててきたものです。それが今、学校教育の枠組みを越えた「教育」現場でも実践的に役立っていると実感できるようになってきています。不登校・ひきこもり、外国人の日本語教育といった重い問題と関わりながらも、私が現場にとどまり続けていられるのは、フレネ教育と共に歩みを進める仲間たちがいるからなのです。
 
表現や思いを受け止めてもらえるような関係の支えがあってこそ、人は行動する勇気とエネルギーを高めていくことができます。様々な表現や文化を生み出していったフレネ教育の実践も、一人ひとりがその集団や指導者を信頼していてこそ生まれ、深まっていくものだと私は分析しています。私自身のことをふりかえってみても、フレネ教育研究会や三重フレネ研究会という「場」があり、その仲間たちの支えがあったからこそ、現在の私があると実感しています。そのような関係が「学校」という枠組みを超えたところでもいろいろな形で作られていけば、不登校・ひきこもりに限らず、様々な問題を解決するための大きなステップになっていくのではないでしょうか。
 
不登校・ひきこもりの問題は、ある意味では学校教育以上に長いスパンで取り組む覚悟が必要で、しかも1つひとつの事例がそれぞれ独自の条件や制約を持っています。けれでも、今の日本の現実からすれば、それから目を背けたり、その現実にふたをしたりすることはできない大きな問題なのです。それでも、きちんと現実を見つめ地道な取り組みを続けることで状況は変化していきます。それは、個々の事例でも言えることだし、不登校・ひきこもりの問題が提示するものを社会全体がきちんと受け止めることによって少しずつ矛盾を解決する方向が見えてくるように思われるのです。
 
私がこれまでフレネ教育から学んできたものを大切にしながら、これからも地道に努力を続けていきたいものです。
 
                                   〔完〕
 


2007年08月22日(Wed)▲ページの先頭へ
いじめ・不登校問題とフレネ教育 C
4、どう関わっていくか
  子どもの自立が目的
   ・自信の回復
   ・受け止めてもらえる人、「居場所」
   ・スキルとしての人間関係の結び方
   ・1人で抱え込まず、協力していく体制を
 
 
三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の例会などで、時々、ビジョンとステップの話をすることがあります。ビジョンとは、中・長期的な目標、ステップとはそれを実現するための短期的な目標です。特にステップは、今の現実の上に立って、毎日続けられる努力の積み重ねによって実現できるのではないかと考えられるものであり、「お父さんに『おはよう』と挨拶する」などという短期目標を立てることもあります。難しすぎる場合は現状を確認しながら「お父さんと一緒の部屋で1分以上は過ごせるようにする」などに変更することもあったりします。
 
では、ビジョンは? という事になると、実は、必ずしも高校に入学することが大切なのではなく、自分の暮らす地域でそれなりに働き、家族と共に暮らしていければ良い、ということになるのではないでしょうか。それなりに収入を得る腕や技術を身に付け、全ての人ではなく、自分の周囲の関係ある人々とのコミュニケーションが普通に出来ればそれなりに生きていけるわけですから、そうした「自立」を目標に努力を重ねれば良い…ということになるでしょう。
 
その際、カギを握るのが「自信」ということになります。自己実現の過程として本人が意識している確信的なひきこもりを除いた多くのひきこもりの事例や、それなりにサポート体制がある高校に通い始めた不登校経験者の事例において、対人関係に不安を抱えている場合が少なからず見受けられます。そして今までの経験上、その奥には、自分に対する自信のなさが隠れている場合が多いのです。だから、本当の意味で自信をつけていくようにサポートしていく事が大切になります。
 
特に、本人の年齢が学齢である場合は、学校の存在や学校との関係がプレッシャーになっていることが少なからずあり、その拘りをほぐしていく為に「学力」面でのサポートが精神を安定させるという心理的側面からのアプローチも有効になったりもします。実際に、個別で数学を教え始めたら理解できてプリント等でも8割から9割の正答率を誇るようになり、それが自信になって推薦ではなく数学のある一般で受験し、見事合格して、今では毎日元気に高校生活を送っているような事例もあります。
 
ただ、不登校問題で文部科学省の研究指定を受けている公立高校の先生たちと研究発表会の時に離したりもしているのですが、不登校の経験を乗り越えて高校に通っていても、対人関係を結ぶ場面での不安や問題を抱えている子どもたちは多いようです。それは、ある意味では当然でしょう。だから、挨拶とその意味や対人関係上の役割などを「スキル」として教えるようなことがあっても良いのではないか…という提案をしたりもしています。それと合わせて、子どもたちが安心して生活できる「居場所」づくりや、「作品」を他の生徒を含めた多くの人々の目に触れるところに置き、それを楽しんでもらったり、喜んで使ってもらったりすることを通して自信や受け入れられているという実感を培っていくようなサポートも大切にしていけば良いのではないか…といった話もしています。
 
先日の報道によれば、不登校が調査で増加に転じたとの事で、中日新聞から電話インタビューを受けました。それに対して、教育基本法の改悪をゴリ押ししても未だに30人学級を全国規模で実現できていない教育行政の貧困やホワイトカラー・エグゼンプションやパート・人材派遣の規制緩和によって労働環境を悪化させ、結果として家庭にまとまった子どものケアの時間を物理的にうばっているという間違った「改革」の問題点を指摘しておきましたが、その構造を分析しても個々のケースの具体的な対応に際してはあまり意味がありません。ただ、問題を放置しておけば、家族や社会、そして当事者自身にとっても大きな負担となるが、適切に対応・サポートできれば、彼らは、場合によっては普通の人以上に社会や地域に大きな貢献をする可能性を秘めていることはきちんと意識しておく必要はあるでしょう。
 
教師として、家族や周囲の大人としてできることは、基本的には環境を整えることになろうかと思います。例えば、07年夏のフレネ教育研究会の場では、母親の過敏すぎる対応が周りの子どもたちや家族との距離を開いているのではないか…といった事例もでましたが、そうした母親の反応自体にも、彼女の孤立…という現実が存在するように思われます。だから、話を聞く場を設定したり、話をきちんと聞ける人を紹介するような形で彼女の孤立感を和らげ、その上で一緒に出来ることを考えていく方向での対応などがあることを話しました。それによって母親や家族が精神的に安定してくれば、当事者の日常の環境が少しずつ変化することにつながり、改善のきっかけをつかめるようになるかもしれないからです。
 
母親や担任教師が1人で抱え込む…ということは環境を悪化させると共に、抱え込んだ母親や教師の精神をも追い詰めていきます。それを避けるために、いろいろな立場から関わり、協力体制を作っていくことが大切だろうと思います。
 


2007年08月21日(Tue)▲ページの先頭へ
いじめ・不登校問題とフレネ教育 B
3、不登校・ひきこもりについて
  なぜ、そうなってしまったのか…よりも、これからどうするか
   ・当事者の心、当事者の思い
   ・周囲の子どもたちの姿勢
   ・家族の姿勢、大人の対応
 
 
今度は、不登校や学齢時のひきこもりについても考えてみましょう。
 
家族の目からすれば、突然、子どもが不登校になったり、ひきこもってしまったりした時、驚くと同時に、怒りを覚えたりするでしょう。そして「なぜ、ウチの子が…」という思いにとらわれるのがほとんどです。そして「原因」や「理由」を、子どもの口から直接聞きだそうとします。それを子どもから聞けなかったり、聞いても納得できるような答えではなかったりすると、とにかく、無理やり子どもを学校へ引っ張っていこうとするような場合もあります。そうした反応は、ある意味ではごく普通であり、一般的にも理解できるものです。
 
けれども、当事者の子どもにとってはどうか。ある意味では、すっとそれを話せるならば簡単です。それが出来ないからこそ苦しんでいるのです。なぜ、子どもの口が重いのか。いじめなどのきっかけの場合は、子ども自身がそれを認めたくない…というプライドの問題があって話せない場合があります。それから、子ども自身にも「原因」や「理由」が分からない場合もあります。後者の場合は特に、様々な要因が重なって、学校や学級が本人にとって安心して生活できる「場」ではなくなってしまったので、原因がはっきりしている場合よりも対応は難しくなるでしょう。
 
周囲の子どもたちとしても対応はけっこう難しくなります。遊ぶことが多かったけっこう仲の良い子どもであっても、誘いに行っても断られたり、電話をしても話が出来なかったりすると、その後、どう対応して良いかが分からなくなります。その繰り返しの中で離れていく子どももいるでしょうが、それでもなお気にかけている子であっても、積極的に関わるのには躊躇してしまうようなことも起こります。そうなってしまうと、お互いに以前の状態に戻るきっかけを見失ってしまうのです。
 
では、子どもよりも精神的には安定していて人生経験も豊富なはずの大人はどうでしょうか。実は、家族が「なぜ、ウチの子が…」という思いにとらわれ、「犯人探し」を行い、とにかく「学校に行く」ことを目的化して子どもを追い込んでしまうような反応などは、子どもの「現実」を受け入れていない状態と言えるでしょう。
 
大人ではあっても、癌の告知など、今まで当たり前と思っていた日常を否定するような「現実」を突きつけられた時、多くの人が混乱し、荒れ、周りの人やものにあたる状態に陥ります。当然、そのような反応をしても「現実」が簡単に変わるわけではありませんので、「絶望」や「自暴自棄」の状態になってしまうこともあるでしょう。けれども、「現実」を受け入れられるようになると、少しずつ、「今、自分ができること」が見えてくるようになります。そして、「自分ができること」を少しずつ積み重ねるなかで「現実」にも変化が生じてくるようになるのです。
 
不登校・ひきこもりの相談の現場では、まず、母親が…という形が非常に多いです。「子どもの教育」は母親の責任…という暗黙の了解、というか言葉にはなっていない影の役割分担、は割合としてもかなり多く、母親がまず「子どもの不登校」や「子どものひきこもり」という現実をつきつけられることになります。で、他の家族は…というと、父親や祖父母なども「お前の育て方が悪いから」という言葉で母親を「犯人」にしてしまうことも多いのです。で、母親は孤立し、責められ続けます。そして、自分自身も、本来の役割以上に「責任」を感じて、精神的に深く傷ついてしまうことも多いようです。
 
でも、冷静に考えれば、すべての「責任」が母親にあるはずはないのです。子どもを育てる責任は家族全員が負うべきものだし、学校が子どもたちすべての「居場所」になっているかという点から考えれば、教師の責任や学校の責任、教育委員会や文部科学行政の責任なども当然出てくるはずです。「犯人探し」は、そうした責任をごまかすことにもなりかねませんので、結果として責任逃れに通じるような「犯人探し」をするくらいなら、そんなものはしない方が良いのです。それよりも、子どもの現状を改善していくためにそれぞれの立場で何が出来るかを真剣に考え、おたがいに協力し合いながら努力を積み重ねることの方がずっと大切であるといえるでしょう。
 


2007年08月20日(Mon)▲ページの先頭へ
いじめ・不登校問題とフレネ教育 A
2、いじめと不登校
  不登校のきっかけとしてのいじめ
   ・いじめが不登校の直接の引き金になることも少なくない
   ・ある事例から
 
 
さて、私は伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会の事務局と三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会の創立から関わっている世話人をしています。また、その関係で、昨年末からいじめ電話相談ネットワークの一員にも名を連ねています。不登校やひきこもりの問題と、会が発足してから数えただけでも6年以上も関わっていることになります。実際は、大学の卒業論文で夜間中学を取り上げ2週間に一度は大阪の夜間中学に通っていた時期もありますから、当時の夜間中学には既に登校拒否・不登校の経験者がいましたし、また、後に不登校の子どもの学習支援に関わっていたこともあり、それも考え合わせれば20年以上の関わりになります。
 
そして、その関わりの中で聞いてきた相談を振り返ってみると、いじめが不登校やひきこもりの引き金になることも少なくありません。詳しく話す事は出来ませんが、プライバシー等も考慮した上で、簡単に事例をあげておきましょう。
 
ある高校で、1人の生徒がいじめられました。1度や2度のことではなく、長引いたので、やがて家族にもわかりました。中学校からの友達も心配して声をかけてくれたようです。もちろん、家族は学校に訴えたのですが、簡単には解決しません。結局、その生徒は学校に行かなくなりました。ご両親の話では、中学校の先生方が支えてくれてはいたようですが、高校の担任の先生の動きは鈍く、学校長は体面を気にするだけで、いじめられた子の立場に立って話を聞く姿勢は見られず、その生徒は家族とも相談して退学するという選択をしました。
 
しかし、家族は彼を理解し、支え続けました。半年ほどして知人の紹介でアルバイトをはじめました。すべての時間ではないにしても中学時代の友人も一緒でしたし、何よりも職場で可愛がられたようで、次第にアルバイトの時間も長くなり、バイト先の先輩と遊びに行ったり、その先輩のところに泊まったりもするようになって元気を取り戻しました。そして、アルバイトでお金をためて、そのお金で自分の好きな専門学校に行く…という目標を持つようになりました。現在は、その目標通りに、アルバイトをしながらその学校に通っているようです。
 
別の例では、もともと積極的な性格ではなく、授業中に先生に指名されても聞き取れないような声でしか返事が出来なかった子が、普段から周囲の生徒にからかわれつつも何とか学校に通っていたところ、突然、学級委員に指名されて授業の前後での号令をかけなければならなくなり、その度ごとに、クラスメートから「声が小さい」などと文句を言われたりして、やがて学校にも出られなくなってしまいました。
 
こちらの事例では、深く関わることが出来なかったので、その後のことは分かりません。小さないじめでも重なってくればやがて耐えられなくなります。それに、いじめがエスカレートすると身の危険も感じるようなこともありますので、自分を守るためには本人の主観からすれば不登校が唯一かつ最善の選択となる場合があるのです。
 
不登校の事例に、100%いじめが関わっているとは言えないでしょうが、直接の引き金ではなくても、いじめによってクラスが安心して学習や生活のできる【居場所】ではなくなる要因が増えてしまう…ということはあります。安心して自分自身でいられる【居場所】かどうか、という点は、その場の1人ひとりとの関係の問題と大きく関わっているのです。
 


2007年08月19日(Sun)▲ページの先頭へ
いじめ・不登校問題とフレネ教育 @
はじめに
 いじめと不登校・ひきこもり……人間関係を結ぶ力の弱さ
  ・犯人探しで責任を押し付けあうよりも、どう改善していくかが大切
 
 
近年、子どもたちの間の【いじめ】がニュースで取り上げられ、学校現場での【いじめ】やそれに関わっての自殺が大変な問題になっています。また、先日の調査(8/10中日新聞06年度で126,764人/前年度より4,000人以上増加)で、不登校が増加に転じたというニュースもありました。
 
2つの現象は、一見するとまったく別のものに思えますが、人間関係を結ぶ力の問題として考えてみると、その増加は、関係を結ぶ力の弱さという共通の現実があり、それが別々の現れ方をしているのではないかと考えられます。
 
相手との関係を言葉や行動を通して友好的にしていくためには、周りに流されずにある程度自分の意思をしっかり持ってそれを上手に伝えられる力と、相手の思いや立場を理解してそれを受け止めながら、自分の思いとのすりあわせを行い、調整していく力が必要です。ところが、そうした関係を結ぶ力が弱くなっていることにより、感情の暴走によって生じる攻撃性が【いじめ】という形で外部に向かったり、【不登校】【ひきこもり】といった形で自分のうちに向かったりするのではないかと考えられるのです。
 
今回は、【関係】を結ぶ、という視点からいじめや不登校・ひきこもりの問題を考えてみようと思います。
 
 
 
1、いじめを考える。
  心の弱さとしてのいじめ
   ・子どもだけの問題ではない
   ・心の弱い人間が、自分と周りをごまかそうとしていじめに走る
   ・「犯人探し」よりも、成長のための「事件」に
 
 
いじめは、1人ひとりの人間の心の弱さが根本の原因です。特に、心が弱い人間ほど、自分よりも弱いと考えている相手をストレスや些細な理由でいじめます。そして、それによって、自分の弱さを他者の目からも、自分自身の目からもごまかしているのです。学校現場でのいじめやそれが引き金となった自殺は新聞でも大きく取り上げられていますが、実は大人の社会でももっと陰湿で深刻ないじめがたくさんあります。1998年以降、日本の自殺者はずっと三万人を超えています。労働現場でのいじめが人々を追い詰め、ウツや自殺にまで至ってしまうケースが非常に多いのです。上の立場にいる人からいじめや無理難題の押し付けをパワー・ハラスメント(パワ・ハラ)と言いますが、本当に上司としての能力がある人間ならば、部下が困っていたり行き詰っていたりする際には、その改善策を提示するか、助言できる人間を紹介してサポートしてあげられる筈なのです。けれども、実はそうした能力の無い人間は、本当は弱いから、権力によって相手を追い込み、成功の結果だけを自分の手柄にしようとするのです。
 
もちろん、そんなごまかしは、本当に心が強い人には通じず、見破られてしまいます。その意味で、本当に心が強い人はいじめなどしません。その必要がないからです。でも、ご存知のように、本当に精神的に強い人はなかなかいません。だから、いじめはなかなかなくならず、いつでも、どこでも子どもだけではなく大人の世界でも起こり得るものなのです。
 
特に、子どもの時期は、精神的に充分に成長しておらず、ちょっとしたきっかけでいじめが始まり、それが一気に暴走してしまう場合がままあります。ただ、あくまでも成長途上ですから、それを、大人の関わりによって1つの、単なる一過性の「事件」にしてしまい、関係した子どもたち1人ひとりの心を強くし、成長させていくための【良い経験】にしていくことが大切なのではないでしょうか。
 
事実関係を可能な限り明確にし、原因をある程度はっきりさせる必要はあるでしょう。けれども、それを「犯人探し」に終わらせてしまっては、絶対に子どもたち1人ひとりの【良い経験】にはできません。大人としての責任の取り方…はある程度必要でしょうが、それよりも子どもたちのために関係者が協力し合って【未来】を考える契機にしていくことの方が大切ではないかと思います。
 


2007年07月16日(Mon)▲ページの先頭へ
ことばを育てるために
ことばを育てるということを考えると、つい作文や発表、発言について「教える」ことを想像してしまう。しかし、実際に子どもたちと接し、関わりを深めていくと、それに対する疑問が湧いてくる。思えば、子どもの頃、本を読むのは好きでも、その本についての感想文を書かされるとなると途端にやる気を無くし、途方に暮れるということを何度も経験した。それが私の受けてきた「ことばの教育」だった。
 
それなのに、教える立場に立った途端、それと気付かずに子どもに同じようなことを強制している時がある。ことばを使わせることを強制して、ワクにはめこみ、「教えた」つもりになってしまうのである。こんな時はたいてい、良い作品も少なくなり、結局子どものせいにして逃げてしまうか、自分の力のなさに失望して途方にくれてしまうかのどちらかである。そして、そんなことの繰り返しの中で作文が罰則か何かのようになってしまい、子どもたちから学ぶことの「楽しさ」を奪ってしまうのである。
 
ところが、ひとたび強制する「教え方」から脱しようとし始めると、子どもたちの表現が変わってくる。硬かった表情がほころび、多様な表現が飛び出してくるのである。多様な表現活動の中で子どもたちの生活が、集団が、そして表現が変わってくる。まさしくことばと生活が深く関わりながら変化してくるのである。しかし、それが「国語」の授業の中で行われるかというと、必ずしもそうとは言えないのである。
 
学校教育においては、ことばの教育イコール国語教育と考えられている場合が少なくない。しかも、その場合の国語教育は、書きことばと不特定多数に対して話すことばを育てることを中心にして進められる場合がほとんどである。もちろん、そういったことばの教育の重要性を否定するつもりはないし、子どもたちの状況や発達段階に応じてそれらの発達を促していくような教育は絶対に必要である。しかし、少なくとも、現状のような形での国語教育=ことばの教育では問題があると言わざるを得ない。
 
例えば、表現の仕方、あるいは1つの作品に対する読み取り方を、授業の中で強制するような場合がある。「正解」という名の下に…。そのような「学習」の積み重ねを通して子どもたちの他愛ないが素直なことばが歪められ、沈黙させられていく。岡本夏木氏は、『子どもとことば』という著作の中で「概念のステレオタイプ化や慣習化」という言い方をしているが、それは、このような事をさしているのだろう。
 
この「概念のステレオタイプ化や慣習化」の傾向は、最近、以前よりも進んでいるように感じられるのは私の気のせいだろうか。テレビやファミコン、塾やお稽古事に追われて子どもたちの日常生活は非常にパターン化した味気無いものになっている場合が少なくない。感動的な体験もないまま刷り込まれるコトバ、言葉、ことば。一瞬のイメージだけが頭の中を通り過ぎ、やがては歪められ、忘れ去られていく。氾濫する言葉の中には、すでに言魂信仰のあった時代の重みや実感は失われ、シャボン球のように流行の風に流され、漂っている。子どもたちの生きることと密着していたことばから、次第にその生命力が失われていこうとしているのである。学校でも、そして家庭でも…。
 
岡本夏木氏は、『子どもとことば』や『ことばと発達』といった書物の中で、学校での言語教育が「2次的ことば」の習熟に重きを置き過ぎるあまり、生育の過程と深く関わる「1次的ことば」を圧迫し、かえって子どもたちのことばの熟成を疎外する危険性があることを指摘している。そして、その危険性を克服してことばを育てる実践を展開するための指針として次の5つを上げている。@新鮮な経験と獲得したものを現実の場に再適用する機会の創出。A言語を美的表現の手段として工夫し、創造を楽しむ機会の充実。B特定の相手を意識した「1次的ことば」を使用する経験を豊かにする。Cことば以外の表現の動機づけ。D国語以外の教科も含めた広い意味での言語教育の創出。いずれもことばを育てる上でたいへん重要なことだと思う。
 
これらの点に対して戦前の日本で生まれ、実践されている教育実践の中で、1つの解答を与えてくれそうなものがある。それは生活綴方の教育実践である。
 
生活綴方の教育は、生活現実に目を向け、それを文章化する活動の中で自らの生活をとらえ直していくというものであるが、その中に「概念くだき」というものがある。慣習化し、ステレオタイプ化した概念を深く生活を見つめ直す中でとらえ直し、より深めていく過程である。しかし、現在の教育実践の中でわたしが注目したいのは生活綴方ではなく、フレネ教育である。
 
このフレネ教育と生活綴方とは、生活を表現することから出発するという共通点を持っている。しかし、フレネ教育では生活綴方とは異なり、あえて文章表現に限定する形で出発していない。例えば、フレネ教育における「自由作文」は、一応「作文」と訳されてはいるが、その中に絵が入っていたり、あるいはクラスや学校全体という場での発表としう活動と深く結びついたりしている「作文」である。そしてその「自由作文」は、子どもの日常生活や興味から出発し、発表の場での質問や意見交換を通して深められ、様々な学習へとつながっていく。「自由作文」1つを考えてみても、フレネ教育は、国語という枠組みの中に閉じ込めきれない広がりを持っているのである。
 
自由作文、発表会(コンフェランス)、絵本づくり…。フレネ教育の実践ではさまざまな生活が、様々な方法で表現され、印刷されて、教室に残り、学校間通信を通して、ほかの学校にまでも広がっていく。…もちろん、日本の現場においてそれらすべてをそのままの形で導入できたような例はそう多くはない。それほどまでに日本の学校現場では時間的、空間的、方法的そして教師自身の精神的なゆとりや自由は奪われているのである。
 
それでも、フレネを知ったことで私自身の子どもに対する見方や、子どもを見つめるまなざしは変わった。今までよりもゆとりを持って彼等を見つめ、今までよりも少しだけ長く彼等の活動を待ってやれるようになった。そして、それが私自身の「ことばを教えること」を問い直すきっかけにもなったのである。
 
「自由作文」についてもう少し詳しく見ながらこの点についてさらに検討してみよう。 
「自由作文」の大きな特徴の1つに絵の存在がある。時にはこの絵が文章以上の「ことば」を伝え、子どもどうしのコミニュケーションを引き出す。この絵が、美的表現としてのことばを引き立たせ、表現の幅を広げていく。それが「国語」という教科の鎖を断ち切るための第1歩となってくるのである。
 
また、内容を理解する、あるいは、内容に共感するという過程を考えるに当たっても、絵の持つ意味は大きい。理解するという活動において、表現された内容をどのようにして頭の中でイメージ化するかということが非常に大切である。ことばに絵が加わるということはイメージ化という点で明らかにプラスの効果を期待できるだろう。
 
それから、先にも述べたが、「自由作文」の内容は、子どもたちの生活から出発する。興味や関心が深いテーマの場合は、より深い追及がなされ、ついには理科や社会の教科に関連するテキストにまで発展していく場合もある。学習の展開にワクがないので、自由な発展が可能なのである。
 
また「自由作文」は、実践の展開の中で発表と深く結び付いている。それが、子どもたちの間のコミニュケーションを活発にする一方で、自らの学びや表現のテーマを深めるきっかけとしても作用する。また、友だちの発表に対して質問をしたり意見を述べたりする機会を通して、学習意欲や表現意欲に火がつくこともある。「自由作文」を書くことから始まる、発表、良い作品を自分たちの手で選ぶ活動、そして印刷(活字化)の過程の全てが1人ひとりの子どものことばを含めた様々な学習そのものとなっているのである。
 
この発表から印刷(活字化)までの過程はまた、「2次的ことば」の発達とも関わりを持っている。「2次的ことば」は、その表現の客観化ということが大きな意味を持つが、私のささやかな実践を振り返ってみると、活字化するだけでも、それを書いた子どもにとってずっと客観化がしやすくなったという事例が多数存在する。自分の主観的な表現をある程度客観化できるということの持つ意味は、「2次的ことば」の発達の面から考えて、非常に大きなものとなるだろう。
 
しかし、それに劣らず重要な点が他にもある。それは、「1次的ことば」と 「2次的ことば」相互の繋がりについてである。「自由作文」を書く活動は、子どもたち1人ひとりの生活に根ざしていることから「1次的ことば」と深い関わりを持つが、それが、先に述べた活字化の過程で「二次的ことば」が関わり合う場を設定することになるのである。そして、発表とそれに対する質問意見を言い合う時間は、特定の相手を意識したコミニュケーションの機会にも、クラスという範囲の人数を意識したコミニュケーションの機会にもなっている。さらに発表の場で絵や自分たちで作った作品が示されることもあり、その他のことば以外の表現が出てくる場合もあって、多様な表現を生み出し、また、成長させていく。このような活動を通して子どもたちは表現を磨き、それをより一般的なものとして成立させていくのだが、それはまた、子どもたち1人ひとりのことばが育つ土壌を豊かにすることにもなっているのである。
 
こうして見てみると、一連の学習活動の展開そのものが、ことばを育てるための様々な機会として機能していることがわかる。しかし、それよりも大事なことは、その活動がまさに子どもたちの生活と関わりを持ち、生活を変えていく力を持っていることである。学習活動が1人ひとりの子どもの生活に還元され、生活そのものにあらためて目を向け、それを変革していくきっかけとしても機能する。つまりそれは単なる「言語教育」を越える大きな広がりを持っているのである。そして、その広がりはまた、ことばを育てる土壌の広がりでもある。ことばを育てることは生活を育てることであり、生活を育てることはことばを育てることなのである。
 
最近、社会生活の中で、ことばは次第に重みを失い、軽薄に流れていく風潮が強い。そんな中で、重みを持った豊かなことばを育てることの重要性は一層増してきている。だがそれは、生き生きとした経験を伴う豊かな生活(物質的・金銭的にではなく)の土台なしには有り得ない。ことばを育てるためには生活を育てること抜きには考えられない。そしてフレネ教育は実践的にその力を持った教育である。豊かなことばを育てるために、ことばじりにとらわれない豊かな生活教育を追及していきたいと思う。


 参考文献
     岡本夏木 著 『子どもとことば』 岩波新書179
            『ことばと発達』  岩波新書289


   


【サークルぼちぼちいこか/伊勢志摩不登校ひきこもりを考える会】は、事務局の浜口が、【三重県登校拒否・不登校・ひきこもりを考える会】(三重県・考える会)の世話役をしていたところ、「伊勢志摩にも家族会を!!」という声が上がったため作られたものです。


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浜口 拓/志摩市志摩町片田で小中高15校20年の経験とフレネ教育やカウンセリングの知識を生かした《浜口塾》を開いています。教育相談にも応じます。また文学活動などもしています。よろしければ【TAC雑想記】 【TAC文芸樹】のblogも覗いて下さい。

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